忘れられた航海日誌 〈散文詩〉

 小さな花々が群れをなして、わたしたちを狂わせる。終わりの日に向かうつもりだった陸地へ、いま舳先を巡らせたところ。ミルクの波をかきわけて。善悪の溶けあう温度をたしかめて。わたしたちは微笑みかわそう。火も星座たちも、ふりそそぐような空の下。

 オルフェウス、ゆるやかに浸水する忘却の部屋。夢の手。物語のエピローグ。盗賊たち。リリパット国。魚たちの回廊をめぐる夜。繭のなかでくりかえし唱えられたあの言葉たちは、陰翳をまとった、顔のない声色によって、この陸地の地下水脈のすみずみにまで行き渡った。人々は衰弱し、沈黙と密約し、壁の向こう側を覗き見るための梯子をよじのぼることさえできずに、それぞれの無為な陥穽に落ちていった。…それにしても、一体いつだれがこの梯子をかけたのだったか。新しい開拓者たちの、新しい謬見は、フローラの香りを求め、この擬似大陸の地表をさまよう。しかし右と左の区別がつかない彼等のその足跡は、どこへも辿りつかないままでたらめな軌道をえがいた。そして夜になって星々を見上げることは、わたしたちに悔恨の念を起こさせた。わたしたちは過去からの光を沈めようとした。夜のすぐとなりで、花びらはゆっくりと閉じてゆく。救いの作用としてではなく。そもそもこの陸地において救いとは何を指すのかすら分からない。数千ものミームが息の根を止められる。手紙は投函されないまま燃えあがる。探しあてたと思った極点は共有されない。つまりそれは虚偽である。朝はやってこない。あらゆるものが空気のように目をとじて。
 途切れ途切れの眠りのあと、わたしたちの舟はわずかに揺れ、その陸地の海辺に寄せた。わたしは震えながら…梯子をよじのぼり、コンスタンティノープルの壁の向こう側を見た。ぼんやりとした夜霧のなかで、わたし自身が背を向けて立ち尽くしていた。そのうしろ姿が何を見ているのか、何を考えているのか、わたしには分からなかった。
 やがて、暗闇の中から音もなく亡霊たちがあらわれ、その無防備な背中に飛びかかっていくのが見えた。遠くから、波の音がきこえた。

(了)

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