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【短編恋愛小説】焼きたてのパンを買いに行く

毎朝7時に、僕は焼きたてのパンを買いに行く。

僕のマンションの1ブロック西の細い路地に面した小さなショウケースだけの店にだ。庄原ベーカリーという店。

その店を見つけたのは、全くの偶然だったのだが、店の前を通り過ぎた時、僕は一発で恋に落ちた。
道にちょっとはみ出してるショウケースの向こうに彼女がいたんだ。

ショートカットのヘアスタイルに、店の外装と合わせたのであろうスカイブルーとライトグレーのストライプのハンチング帽がよく似合う。
右の頬に片えくぼが出る。
胸より下はショウケースが邪魔でよく見えないのだが、細身の割にバネを感じさせる。
肩は少し碇肩で、Tシャツからちらっと見える鎖骨の線は美しい陰影を醸し出す。
何より、彼女が素晴らしいのは、彼女が持つ空気感だ。
彼女の回りには、まるで彼女の着ている服が特別な柔軟剤で洗われているかのように特別な空気が満ちる。その空気に触れたくて、僕はパンを買いに行くのだ。

彼女の店は、7時に開く。
オープン前にはいつも10人ぐらいの行列ができている。そこに僕も並ぶ。ショウケースの前に立てるのは一人だけなので、順番に自分の買いたいものを買って、その場で商品を受け取り、ショウケースを離れる。だから、彼女と接する時間は限られる。

「おはようございます。」
「ああ、おはようございます。今日も朝食用はクロワッサンですか?」
「そうですね。2個ください。後、木苺のプリザーブは、ありますか?」
「ありますよ。」
「じゃあ、それも。」
「お昼用のサンドウィッチは、どうされます?今朝は、パストラミサンドと、卵とアボカドのヤツと、フライは白身魚なんですけど。」
「どれも美味そうだな。じゃあ、今日はパストラミにします。」

こんな感じで買い物をする。彼女と少しでも長く話せるように精一杯工夫してもこの程度だ。
しかし、これだって、これまでの僕と比べると、大変化だ。
これまでの僕はおよそ朝食とは縁のない生活をしていたし、仕事の人間関係以外には全く関心がなかった。
僕は、カメラマンで、色んなスタジオで色んな写真を撮る。主に人物で、ファッション系の仕事も多い。
まだフリーランスになって間もないので大きな仕事は少ないが、細かい仕事を一杯やって凌いでいる。将来は自分の事務所を持ち、自分がやりたい仕事を数多く携われるようにしたい。だから、仕事以外に時間を割く事もないし、興味もない。それが僕だった。
彼女の店を知るまでの僕の日常は、朝から夕方までスタジオなんかの撮影現場で仕事をして、夜は部屋でパソコンで仕事をする。メシは大体コンビニか、ウーバーイーツで済ますから、誰かと一緒に食事をしたり会話をしたりする事はない。大体食事そのものにも関心がなく、腹が膨らめばなんでもいい。こんな感じだ。

しかし今はどうだ。彼女に会いたいという思いだけで、こんなにも自分の生活態度が変わるのか?
あまりに不思議で、滑稽で、笑っちゃうぐらいだ。

多分今年最後の秋台風が来て、朝から大雨の日。
僕は傘をさして、いつものようにパンを買いに行った。
叩きつけるような雨。傘の骨のきしむ音が聞こえるようだ。
店の前まで来ると、いつもとは違う。並んでる人が全くいないのだ。

シャッターが開いて、彼女の姿が見えた。
「おはようございます。」
「おはようございます。あら、今朝は、お客さん、一人だけ?」
「そうみたいですね。この雨だから仕方ないのかな。」
「クロワッサン2個は決まりでいいですか?サンドウィッチは、どうします?今朝はジャーマンポテトサラダと、キーマカレーだけになるんですけど。」
「ああ、じゃあ、それ2つともください。美味そうだ。」
「分かりました。」

まだ、他の客は来ない。話しかけるチャンスだ。

「あの?」
「はい」
「訊いてもいいですか?」
「はい、何でしょう?」
「いつも思ってたんですが、庄に原って、どう読むんですか?」
「ああ、しょうばらです。変わった名前ですよね。ウチの実家の辺りにはそこそこいる名前なんですけどね。私はイヤでね、庄原って苗字。結婚したら、鈴木とか、高橋とかって、ありふれた名前になりたいと思ってるんです。」
「実家は、どちらですか?」
「愛媛です。」
「愛媛かあ、いいところそうじゃないですか。そうか、良かった。疑問が一つ消えた。名前を変えたいかあ?その気持ちはちょっとわかるかな。僕も苗字、変なんですよ。僕は高いに、遠いで、たかとうと言います。」
「へえ、変わってますね。私といい勝負かも。でもね、愛媛はいいとこやけんど、ウチの実家は田舎よ。私、田舎もんやけん。」彼女は冗談めかしに、お国言葉で訛ってみせた。
「僕だって、田舎もんだよ。実家は群馬の山の中だから。」
「群馬かあ、寒そうですね。」
「冬はね、寒い。」

「もうそろそろ、いいですか?」
気がつかないうちに、僕の後に行列ができていた。
「すいません。」僕は後ろの行列に謝った。

それから数日が過ぎた、街が初冬の装いを始めた朝。
「荘原さん、おはようございます。」
「あら、高遠さん、おはようございます。」
お互いに名前を呼び合うようになって、僕はスゴク嬉しかった。
「愛媛はいいよねえ、暖かそうで。」
「そう思うでしょう。でもねえ、愛媛も冬は寒いんよお。ウチの実家は山の中だから、雪が降る事があるぐらい。」
「ええ?俺んちは、群馬だから雪は珍しくないけど…でも、積もったりはしないんでしょう?」
「積もる、積もる。さすがに1mとかは積もらないけど、何十㎝とかは積もる。」
「へえーーー、意外、意外。」
「だって、愛媛には四国で唯一のスキー場があるけんね。」
「そうなんだあ?」

こうして、僕らの会話は進み、僕は彼女の事を少しずつではあるが、知るようになってきていた。

クリスマスの1週間前。
突然、庄原ベーカリーは、開かなくなった。
最初は、風邪でも引いたのかと思った。
何しろあの店は、彼女がパンを焼き、彼女が一人で売っている店だから。

でも、そうではないようだった。店が閉まって3日目あたりからは、僕の中に絶望という言葉が渦巻くようになっていた。1週間を過ぎると、苦しみにひたすら耐えなければならなくなり、10日を過ぎると諦観の気分が芽生え始めた。ただ、唯一の望みは、店のシャッターに何の貼り紙も出ていない事だ。

店が閉まってから2週間目の金曜日。
いつものように諦めてる気分が、心の大半を占めている中で、店に向かった。
朝7時50分。店は開いていた。店の中を覗く。経営者が替わってるのではないかと心配しながら。
彼女がいた。奥から、新しいパンを持って出てきた。
僕は、嬉しい気持ちを気取られないように、できるだけ自然に声を出した。
「やあ」
「ああ、高遠さん、おはようございます。」見るからに彼女は元気がない。
「長い間、休んでましたね。」
「ええ、突然、大きな出来事があって、ちょっと店を開けられなくなりました。」
「やっと、再開ですか?」
「ええ、でもまだ、心が戻ってきてはないの。」そう言うと、彼女は涙をこぼした。
「僕、中に入っていい?話を聞くよ。今は、店をいったん閉めよう。元気になったら、また開ければいいよ。」
「どうぞ」彼女はショウケースの横の細い出入り口のドアを開けてくれた。

店の奥はパン焼き工房だった。工房も狭く、僕ら二人が入ると一杯感が出るぐらいだ。

パンを練る作業台の下に丸椅子が2つあった。
まず彼女を座らせ、その前に僕が座った。

「どうしましたか?」
「…」
「僕は単なる店の客だが、君の事を心配している。大丈夫だから、話してごらん。」

彼女は話し出した。要は不倫で、男に騙された話だった。
彼女がパン焼きの師匠と呼ぶ男がおり、彼には妻子があるのだが、近々離婚して、彼女と一緒になると約束していたんだそうだ。しかし、いつまで待っても離婚はしないし、ついには彼女が店を大きくしようと思ってコツコツとためていた貯金まで取られてしまった。金を取り戻そうと、彼の自宅に乗り込んだはいいが、今度は逆に男の奥さんにキレられて、さんざん怒鳴りつけられたと言う。それがショックで、今日まで店も開けられなかったのだという事だった。訊けば、金を渡す時に借用書も取っていなかったため、もう取り戻すのも難しそうだ。

「そうか。つまんない話だね。」
「あなたにとってはそうでしょうね。よくある不倫話だものね。でも、私にとっては…」
「そんなに好きな人だったの?ドーンっと落ち込まなければならないぐらいに。」
「…」
「そんな事は無いはずだよ。それにそんな恋は、君には似合わないよ。悲しい恋は君の魅力を半減する。」
「私の魅力?」
「そうさ、ここにくるお客さんは皆、君の魅力の虜なんだぜ。だから、毎朝ここにパンを買いに来る。」
「パンが買いたいんじゃないの?」
「バカだな、ただパンを買いたいだけなら、あんなに毎朝、行列を作ってまで、買いには来ないよ。少なくとも、僕はそうだ。」
「あなたは?」
「そう、僕は君に会いたいから、毎朝来てる。店が閉まってる間中なんて、気が狂いそうだったよ。」
「あなたは、私に会いたいの?」
「ああ、会いたい。できれば、ずっと一緒にいたい。」
「そうなの?」
「そうさ、だから僕と付き合ってくれないか?」
「ええ?でも、私、あんな事があったばっかりよ。」
「そんなの関係ないさ。その不倫男の苗字はなんて言うの?」
「変わってるの、不動って言うのよ。」
「何だ、普通じゃないじゃん。じゃあ、高遠の方が良くね?」
「そうかもね」
彼女が笑った。つられて僕も笑った。

パンの香ばしい匂いが立ち込める作業場で、僕らはハグをした。

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