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【歌詞考察】たま「電車かもしれない」ーぼくらはいったいナニモノなのサ


はじめに

 こんにちは、「今日のごはん」のお時間です。本日ご紹介するのはニンゲンの作り方。まずは以下の材料を用意してください。水35リットル、炭素20キログラム、石灰1.5キログラム、リン800グラム、塩分250グラム、硝石100グラム。それでは調理方法です――
 以上の原料から人間は構成されているというのはホントのことらしいですが、そう言われても何だか釈然としませんよね。よく人間が死ぬと魂の重さが減る、と言われますが、タマシイとかイノチとか、科学や数学じゃ説明できないような何かが人間には込められているような気がします。
 今回ご紹介するのは、平成初期に社会現象を巻き起こした日本のバンド「たま」の名曲「電車かもしれない」。詩的とも称されるたまのフシギな世界をちょっと覗いていきましょう!

「電車かもしれない」について

「電車かもしれない」概要

 「電車かもしれない」は2001年に地球レコードより発売されたたまのアルバム『汽車には誰も乗っていない』の収録曲で、作詞作曲ともに知久寿焼がつとめました。すべての演奏を知久がおこなっています。
 またこの曲はMVの秀逸さでも知られています。2002年にイラストレーターの近藤聡乃がMVを制作、妖しく怪しいその映像はNHKの番組「デジタル・スタジアム」で紹介されるとたちまち話題を呼び、第六回文化庁メディア芸術祭 アニメーション部門奨励賞を受賞しました。

目新しい技術を追求することなく、できるまでしっかりと工夫をする、そのアニメーションの楽しみ方と意欲に好感が持てる。「ジャパニメーション」という言葉を生み出した日本のアニメーションは、正にこの部分に特殊性が集約されているはずだ。日頃はこの絵でマンガを描いているという「描き手」の個性、音楽の面白さ、音楽とのシンクロナイズも素晴らしい。

文化庁メディア芸術祭 贈賞理由

たま、というバンド

(「たま」というバンド名はどうしてつけたんですか?
名前です。名前として「たま」です。猫に「猫」って名前ないでしょ?
「たま」って名前をつけるから、それと同じようにバンドで名前がなかったから「たま」です。

知久寿焼(「イカ天」初登場時のインタビュー)

 たまは1984年から2003年まで活動した日本のフォークロックバンドです。メンバーはボーカル・ギターの知久寿焼、ボーカル・パーカスの石川浩司、ボーカル・ベースの滝本晃司、ボーカル・キーボードの柳原陽一郎の4人。それぞれ独自に活動をしていた音楽家4人が集まった異色のバンドで、東京のライブハウスを中心に活動を行なっていましたが、LPのプロモーションのため、1989年にテレビ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」に出演すると、その強烈なオリジナリティが高く評価され、第三代イカ天キングの栄誉を獲得。翌年のNHK紅白歌合戦に出演するなど一時は社会現象にもなりました。その後も活動を続けますが、1995年に柳原が脱退。2003年にバンド自体も解散しました。現在は各メンバーごとに音楽活動を行なっています。
 代表作に「さよなら人類」「オゾンのダンス」「らんちう」「ロシヤのパン」「まちあわせ」などがあります。

「電車かもしれない」考察

いるけれど、いない「ぼく」

 それでは歌詞の考察に入っていきましょう!

ここに今ぼくがいないこと誰も知らなくて
そっと教えてあげたくて君を待っている

たま「電車かもしれない」

 早速、ナンカイですね(笑)
 まず冒頭の歌詞を見てみると、ここ、という場所に「ぼく」はいません。アイムノットヒアナウ。つまり、ここに「ぼく」は存在していない。そしてそれを知っている者も誰もいない。
 なのに、「ぼく」は君を待っている。「ぼく」が存在していないことを教えてあげるために。待っているということは、そこに「ぼく」はいるのです。アイムヒアナウ。歌詞に矛盾が生じていますね。
 わかりやすく歌詞をくだくなら、「ぼくがここにいないことを君に教えるためにぼくはここにいる」ということになります。存在と非存在の同居。ウームと考えたくなりますね。結局「ぼく」は存在しているの、していないの? 「ぼく」は一体ナニモノなの? 人間? 幽霊? それとも……

物理の成績の悪い子どもたち

ホラ もうそろそろだよ
物理の成績の悪い子どもたちが
空中を歩き回る時刻

たま「電車かもしれない」

 先ほどの存在しているかしていないかわからない「ぼく」について補強するのがこの歌詞。登場するのは「物理の成績の悪い子どもたち」。彼らが何なのかは一旦おいて、まずは「物理の成績が悪い」という言葉の意味を考えましょう。
 ウィキペディア曰く、物理(物理学)とは「自然物や自然現象を観測することにより、それらの仕組み、性質、法則性などを明らかにしようとする学問」だそうで。たとえば、リンゴが木から落ちる。これは重力がリンゴを引っ張っているからですね。そのほかにも、走っていた電車が急停車すると立っていた乗客の身体は進行方向に傾いてしまう(慣性)などがあります。学校でも習ったことがありますね。「子どもたち」はそんな物理の成績が悪い、つまり物理学を理解できないのです。
 どうして理解できないのでしょう。それは、彼らは物理学を超越した存在だからです。「空中を歩き回る」。重力に逆らってしまっているのです。重力を体感できない彼らに重力の何たるかを説いても理解できませんよね。
 先ほどの「ぼく」が存在・非存在の枠を超えたように、「子どもたち」は物理的法則を飛び越えます。「電車かもしれない」は、どこかヘンテコな世界に置かれています。

ぼくらは体のない子どもたち

夕方ガッタン 電車が走るよ
夕間暮れの空を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち

たま「電車かもしれない」

 この世界では電車すらレールを離れて夕暮れどきの空を飛んでいきます。まるで「銀河鉄道の夜」をほうふつとさせるような一節ですが、この電車もまた自然法則を無視した存在です。
 そして極め付きは最後の「ぼくらは生まれつき体のない子どもたち」。「ぼく」、そして「物理の成績の悪い子どもたち」は、体のない子どもたちだったのです。体がない、ということは最早精霊・幽霊のたぐい。そんな彼らに物理法則を求めても、ということになりますね。

耳からこぼれる砂

ホラ 寂しい広場では
まるで算数を知らない子どもたちが
砂を耳からこぼしているよ

たま「電車かもしれない」

 一方、人気の少ない広場では、「算数を知らない子どもたち」が耳から砂をこぼしています。さっきは「物理の成績の悪い子どもたち」でしたが、今度は算数を知らない子どもたちです。彼らもまた自然の摂理を超越した存在なわけですが、砂と算数には一体どのような関係があるのでしょうか。
 算数の基礎、「単位」に着目するのなら、「恒河沙」という単位がありますね。これはガンジス川の砂の数に匹敵する程果てしない数、という意味です。ボルヘス『砂の本』のように、砂が「無限」の象徴になることもありますね。他にも、砂といえば「砂時計」があります。耳からこぼれる砂は、砂時計の砂が落ちる様子と重なります。
 算数や数と縁のある砂を耳からこぼす子どもたちは、時間や永遠・無限すらも小さな体内に収めてしまう異形の存在と見ることができるでしょう。

台所に侵入する電車

台所ゴットン 電車が通るよ
よそのうちの中を
ぼくらは生まれつき体のない子どもたち

たま「電車かもしれない」

 先ほどは空を走っていた電車ですが、今度はよその家の台所を通過します。「機関車トーマス」ではトーマスたちがしばしば民家に突入することがありますが、この歌詞を見ているかぎり、そういう悲惨な匂いはありません。まるで当然のように通り抜けている感じです。もしかしたら電車は「空間」や「障害物」をも超えられるのかもしれません。
 こうして「電車かもしれない」は、どこか奇妙な町を舞台に、物理や数学や空間を超える子どもたちと電車の姿を描いていますが、この歌詞にはどんなメッセージが込められているのでしょうか。

「電車かもしれない」の意味

 もちろん「電車かもしれない」を『ハリー・ポッター』のような現実とかけ離れた世界のお話しと捉えることもできます。しかし私はこの歌詞は、現代を生きる私たちが持っている素朴な感情を代弁したものだと考えます。それは、「知識や技術に対する不信感」です。
 人類が誕生してから何十万年も経った現在、私たちの生活には様々な高度な科学技術が用いられています。石器ほどの大きさの板を操作すれば世界中の人々と通信が出来、指先に乗るほどのチップに情報を詰め込み、「AI」が人間以上の思考力を発揮しています。科学技術だけではありません。今や人間は地球の表面をほとんど知りつくし、さらには地球の内部、深海、そして宇宙の果てまで理解しようとしています。菌やウイルスもなんのその、自然法則も世界中の子どもたちが教科書で習えてしまいます。
 でも、人間は果たしてそういった知識や技術を信じきれているのでしょうか。スマホがどう動いているのか説明ができますか。AIがどのように思考をしているか理解できますか。目に見えない電波が脳にダメージを与えるかもしれない。ワクチンが人間に悪影響を及ぼすかもしれない。何億光年先の星からUFOが派遣されているかもしれない。私たちは本当は存在していなくて、液体に浸された脳みそが夢を見ているだけなのかもしれない。科学的に証明できない藁人形の呪いや幽霊や占いを信じずにはいられない。
 私たちは知識と技術に囲まれて生きていながらも、内心ではそれを信じきれていないのです。科学や数学や物理を窮屈だとさえ思います。「電車かもしれない」の「ぼく」や「子どもたち」はそんな私たち自身の感情や願望、そしてレールを離れて訳の分からない場所を走る電車は、人間の手を離れて進化を続ける科学そのものなのかもしれません。

おわりに

 「電車かもしれない」、いかがだったでしょうか! 一ポップスの枠を超えて詩的な世界観を構成するたまの歌詞の魅力、おわかりいただけたでしょうか。この歌詞を読んだあとだと、なんだかスマホやパソコンに向かっている私たち自身の存在までもわからなくなってしまいますね。果たして私たちはナニモノなのカ?
 それではまた次回お会いしましょう、ぐーばい!

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