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自分探しの中に見出したもの・後編

感情類別:「後悔」「感謝」「強い意志」
感情影響度:重め
シチュエーション:「お別れ」


 それからというもの、件の講義は毎週訪れる「ストレス曜日」として負担になっていった。教授と顔を合わせるのも気が進まないというのに、個別で進捗状況を報告しなければならない。都度、顔色を窺いながらビクビクと過ごすのだった。他の生徒達との扱いの差も一々気になってしまう。何の為に自分はここに来て図面を書いているのか。何の為に材料費を払って模型を作っているのか。もはや本来の学習という目的は頭の外に放り出されていた。


そんなある日、エレベーターの到着をホールで待っているところに教授がTAを従えて現れた。相変らずの大きな声で緊張してしまう。ところが、教授の様子がいつもと違う・・・。


教授は杖を突いて片足を引きずっていた。
先にエレベーターに乗り込み「開」ボタンを押して待機する。TAに支えられながら教授が乗り込んでくる。目が合ってしまったので会釈すると、教授は意地悪そうな笑みを浮かべながら、いつも通りの大きな声で挨拶をした。


「おはよう!」

「おはようございます。足、怪我されたんですか?」

「まったく・・・痛いんだよ。」

「はぁ・・・。」


気の利いた言葉くらい掛ければいいのだが、当時の私にそんな社交的なスキルもなく、エレベーターを先に降りてもらった後、先回りしてドアを開けて待つことくらいしかできなかった。生徒達は教授が片足を引きずって入ってきたことに驚いていたが、努めて普段通り振舞う教授に次第に落ち着いていった。それからというもの、常に杖を突き、TAに支えられながら校内を歩いている姿を見かけるようになった。




月日は流れ、何とか課題もクリアできた。ヤレヤレといった心持ちで卒研の準備に取り掛かろうとしていたある日、研究室のドアが勢いよく開いた。立っていたのは私を研究室に迎え入れてくれた認知工学の教授だった。教授は困ったような、言い難そうな、得も言われぬ表情で私達に告げた。


「K先生が亡くなった、昨日の深夜だそうだよ。」
「Yは特にお世話になったでしょ?告別式があるから参列してきな。」


どう反応して良いかわからなかった。あの人が亡くなった?理解が追いつかない。亡くなったなら勿論弔う気持ちはある。でも、恐い先生だった。あの人のせいで生きた心地がしなかった。憎んじゃいないけど酷い目に遭った。それは事実だ。でもこうして亡くなったと知って、あの人の良い所ばかり思い出される。どんなに怒鳴られようと、その日の始まりは必ず大きな声で挨拶してくれた。意地悪そうな笑みも今思えば先生なりの表現だったかもしれない。他の生徒にはあの大きな声で叱咤激励していた。馴れ馴れしい言葉遣いの女子生徒にも気さくに指導していた。何だ?私は教授を恨んでいたんじゃないのか?何でこんなに虚しいのだろう・・・。


複雑な気持ちだった。嫌いだった人がいなくなった。私は本当にあの人が嫌いだったのだろうか?本当に嫌いだったのは、あの人の前で自己を主張できないでいる弱い自分自身だったんじゃないだろうか。他の生徒のように教授と笑いながら過ごせる関係を築きたかったんじゃないだろうか。私はあの人を悪者にして自分を情けない状態に追い込んでいたんじゃないのか?教授なりに私を卒業させようと親身になってくれていたのかもしれないのに、ただ恐れて避けようとした。教授が亡くなった今、何を考えても後の祭りだ。とにかく、お世話になったことへの感謝をしに行かなければならない。


葬儀は都内の大聖堂で行われた。参列者は数百名に上り、有名な大企業のCEOや海外からも駆け付けた人々で溢れていた。これだけの人がたった一人の死に悲しみ、別れを告げにきたのだ。参列者の中には同期だった卒業生達もいる。皆、仕事があるだろうに駆け付けたのだろう。その中に私もいた。一人ずつロウソクを持ち、讃美歌が歌われる間、静かに黙とうを捧げた。

親族の挨拶があった。教授の奥さんが目に涙を浮かべながら参列者にお礼の言葉を述べる。両隣には私と歳の変わらない兄妹が母を支えている。兄は教授にそっくりで、強い眼差しと結ばれた口が若かりし教授を思わせる。父親が亡くなって辛いはずなのに、背筋を伸ばし胸を張って虚空を見つめている。その気丈さに教授の威厳ある大きな声が思い起こされる。



私にとってのあの人は恐ろしい存在だった。けれども、この兄妹にとっては偉大な父であり、妻にとって良き夫であり、家族だったのだ。そしてこの聖堂に集まった一人一人に、それぞれにとってのあの人の姿があったはずだ。


生前の教授が辿った人生が神父様から語られる。生まれ育った兵庫。学生時代。奥様との出会い。二人の愛する子供。学会への貢献。教授として尽力した日々。社会への寄与。


私が教授に見ていたものは、そんな長い教授の人生のほんの些細な断片でしかなかった。そんな事で私は教授を嫌い、避けていた。もっと学べることがあったかもしれないし、もっと上手くやれたかもしれない。教授にお礼とお別れを言わなければならない。


1人ずつ並び、棺に花を手向けていく。丁寧にお辞儀をする遺族。
私の番が来た。棺に近付いて教授に目をやると、あの恐ろしかった顔は少し疲れた顔だが優しく眠っているようだ。心の中で教授に話しかけようとしたが、途端に込み上げてしまった。



「ごめんなさい」


ごめんなさいだった。
ありがとうございましたとか、お世話になりましたとか、色々考えて臨んだはずなのに、感情が込み上げて呟いた言葉は「ごめんなさい」だった。
これがきっと自分の本音なんだと思う。私は模範的な生徒じゃなかったけど、貴方からの恩を仇で返すような奴だったけど、今この場に立って貴方を慕う人々に触れてわかったのです。決して貴方は酷い人じゃなかった。私が弱かったのです。強くなれなかったのです。ごめんなさい。どうか、ゆっくり休んでください。


顔を上げると息子さんと目が合った。どうかお父さんのように偉大な人になって欲しい。会釈を交わして下がった。案内に従って外に出ると、都心の空は晴れ渡っていて白い雲が薄っすらと流れている。やがて全ての参列者が別れを終え、近しい間柄の参列者によって棺が運び出される。私も段差のところは手を添えて棺を支えた。大聖堂の鐘が鳴り響いている。霊柩車のクラクションが高らかに出棺を告げる。お別れだ。


全ての行程を終えた参列者はそれぞれに挨拶を交わしていたが、私は誰の目にも触れない内に地下鉄の階段を下りて行った。

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