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ホームのベンチと老人と青い空        森本和子作

目の前に電車が入ってくる。この駅はまだ、ホームドアが設置されていない。
私の体は前に倒れそうになった。その瞬間、誰かが強い力で私の腕を掴んだ。その反動で、私はよろめいて、後ろに倒れた。尻もちをついた。
その瞬間にホームに電車が滑り込んできた。
私は後ろを振り向いた。白髪の老人が立っていた。
か細く萎びた老人にあの強い力で私を引っ張ることができたのか不思議だった。

老人は私をみると、にこやかに微笑んだ。
「よかった。あんたが無事で」
私は尻餅をついたまま、老人を睨みつけた。
「何がよかったのよ、余計なおせっかいをして」
老人は私に手を差し出した。私はムカついたが、その手を取った。
老人は、強い力で私を引っ張り起こしてくれた。
私はパンパンとお尻をはたいた。
「さあ、ベンチに座ろう。あんたの話を聞こう」
「見も知らない人に話すことなんてない」
老人は穏やかな澄んだ目で私を見つめた。まるで湖の底のような目をしている。その目に見つめられると、なぜか素直に老人の言うことを聞くかのように体が勝手に動いた。
もう誰もいなくなったホームのベンチに座った。老人の隣に。
「私、全財産を失ってしまったのです。投資詐欺に引っかかってしまったの。騙されたんです。お店を開こうと思ってコツコツ10年かかって貯めたお金を全部巻き上げられてしまったの。もうどうしていいかわからない」
口から言葉が出た途端、涙が溢れ出してきた。いつの間にかしゃくりあげていた。
詐欺にあったとわかった時、目の前が真っ白になり、何も考えられなかった。茫然自失状態だった。涙さえ出なかった。なのに今、涙が溢れ出てくる。
老人は黙ったまま、私の背中を優しくさすってくれた。まるで幼子をあやすように。
老人は私が泣き止むまで黙っていた。

「どうだい。すっきりしたかい」
私はバックからハンカチを出して涙を拭いた。
「はい、泣いたら、すっきりしました。なんか憑き物が落ちたみたいです」
「よかった。死んではダメだ。生きていれば、なんとかなる。あんたは、まだ若い」
「若いって年齢ではないですよ。もう50歳をすぎています」
「私から見たら、若いよ。死ぬ気になれば、やり直せる。命がいちばんの宝物だよ。死んだらおしまいだ。この私がいうんだから」
「えっ?」
「私は、もう随分前にこのホームから飛び降り自殺したんだ。それ以来、ここから離れられず地縛霊になってしまったようだ。あんたを助けたことでようやくここから解放されるようだ」
老人の姿は幻のように消えた。
でも、背中に老人の手の温もりだけは残っていた。
私は空を見上げた。青い空に白い雲が広がっていた。まるで老人の姿のような白い雲が、私に手を振っているように見えた。
「もう一度、生き直してみようかな。死ぬ気になれば、きっと、やり直せるはず」
私は、そっと呟いた。

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