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怒りに呑み込まれないでいきたい

「もう辞めたらどうですか」
ある日職場にかかってきた電話の主がこう言った。

たぬきちの務め先が発行する機関紙が、ぐちゃぐちゃにされ、その電話主の玄関先に捨てられていたそうだ。

怒り心頭の電話の主は発行元にその勢いのまま電話をかけて、冒頭のように言った。

まさにその機関紙を作っているのはたぬきちだ。紙面の内容を検討し、取材や寄稿、ライターさんやカメラマン、デザイナーなどたくさんのプロの方の力によって制作し、間違いがあってはいけないと、何度も何度も内容を確認し、毎回緊張感を持って発行している。

電話の主が冊子の内容を確認し、誤りや事実でないことが掲載されているなどの抗議のために言った言葉では無い。

その冊子を誰かが、どこかで手に取り、読んだかは定かでないが、件の主の家の前に捨てたのか落としたのか、はたまた別の場所で落としたものが風に吹かれてその場所にたどり着いたのか。

自分の家の玄関先に汚らしく捨て置かれた冊子を見て、その人は怒り、そして「捨てられるような冊子なんて辞めたらどうですか」とわざわざ電話を寄越したのだ。

「よくそんなことが言えるなあ。」受話器を置いてからもしばらくその衝撃は続いた。

確かに、誰かが「こんなのつまんねーな」とその場で投げ捨てたのかもしれない。それでも、それはその人の主観であり、しかも人の家の前に捨ておくような人物のである(知らんけど)

目の前で起こっている事象と、その時に生じた感情は必ずしも因果関係があるわけでは無い。

子育てをする中で出会った言葉がある。

「子どもに対して怒りやイラつきを覚える場合、その原因は子ども以外にある」と。

例えば、子どもがグズグズとしてさっさと行動しない時。学校の始業時間に間に合わなくなるよと、ただ指摘、注意すればいいだけのことで、本来はこちらの感情を乗せる必要が無い。

その言葉のおかげでイライラが募って来るとき、「この感情の原因はどこから?」と考えるようになった。

ホルモンバランスが崩れやすい時期。銀行に行かなければならない。気になっている仕事の案件がある。などたぬきち側の「余裕さ」の状況によって、目の前の子どもらの行動に対する感情が違う。

この思考は、対子どもだけの話ではなく、生きている上で出会う色々な事象に対しても当てはまり、もちろん仕事でも当てはまる。

ただ、自分や誰かの尊厳が傷つけられた時など、大事な場面では怒り主張しなければならない時もある。

大体の場合が、怒ったりイライラすることではない。それを知っていれば瞬間湯沸かし器のように、唐突に湧いてくる感情から1歩離れて、事象は事象として考えるきっかけになる。

かく言うたぬきちも、怒りの沸点は低い方なので、瞬時にいわゆる「キレる」という反応が起こる。ただ、今はもう1人のたぬきちが「これが原因ではないんじゃないですか?」と尋ねるようになった。淡々と対処すればいいんですよと。これは訓練だ。

とはいえ、なかなかに難しく、身体、心の状況によってもどうしてもできない方もおられると思いますので、そういう考えもあるという一つの考えですので悪しからず。

怒りに任せて、不必要に誰かを傷つけたり、無用なトラブルを引き起こさない訓練。

そしてこれは同時に、怒りに任せて、こちらを攻撃する人に対峙した時も同じように考えられる。本当の怒りの原因は別にあるなと。そうであればこちらも不必要に自分を責めなくなる。事象をしっかり受け止め、失敗やまずい点を淡々と解消するのみ。

それにしてもあの電話心外だった!!(笑)

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