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アンコ椿は恋の花 (2)

その日の昼下がり、別荘の各部屋を祐介は見て回った。
洋館建ての一階は、台所と庭にテラスが張り出した食堂で、眼下に波浮の港が広がっている。
その向こうは太平洋だった。
庭木は、町田の実家に比べて少なく、地面は芝生だった。
町田の医院の庭は空襲でも焼けなかった桜や欅(けやき)、春楡(はるにれ)、椎がうっそうとしていて、昼なお暗いイメージだったが、ここは全く違った。
門のわきに、背の高い棕櫚(しゅろ)が立っていて、南国の雰囲気を醸(かも)し出していた。
伯父のコレクションの油彩画が階段に沿って壁に三枚掛けられている。
下から、シャガール、ユトリロ、カンディンスキーのものだと祐介は父から聞かされていた。
それぞれ数千万円は下らないという逸品らしい。
祐介は値段を聞いただけで、おじけづいてしまった。
この洋館の二階には洋風の寝室と、和風の客間があった。
こういう折衷様式は、昔からあって、日本人にはやはり畳の間(ま)が必要らしい。
その和室には、床の間がしつらえてあり、真贋の定かでない鏑木清方(かぶらぎきよかた)の浮世絵の額装が掛けてある。

「祐介、りんさんと海にでも行って来たらどうだ?」と父がうながした。
舟屋りんが「あんこ姿」のまま、玄関に立っている。

「行ぐべか?」
やはり、りんは美しいと祐介は思った。
「あ、うん、行こう」
「祐介君、海パンは?」
「泳ぐの?」
「大島にきて、泳がん人は病人ぐらいだべ」
祐介は「それもそうだ」と、自分の荷物から水着の包みを引っ張り出してきた。
「着替えて来なよ。待っとるから」
「わかった」
祐介は、恥ずかしい気持ちを抑えながら、奥の風呂場のほうで着替えることにした。
都会の、なまっ白い体をりんに見せるのは躊躇(ちゅうちょ)されたが、後には引けなかった。
「じゃあ、母さん、りんさんと海に行ってくる」
「ああ、行っといで」
そのまま草履をひっかけて、表で待っているりんの方に向かう。
「おらもね、着物の下は水着なんよ」
「へぇ」
「島の仲間も紹介するね」
「うん」
祐介は、背の高いりんの後ろについて、坂を下っていった。
「これではまるで姉と弟だな…」
祐介は内心で、ただただ、恥ずかしかった。
「ねえ、りんさんは、いくつぐらいなの?」
「女に歳を聞いちゃいけねぇべって習わなかったけ?」「ごめん」「十八になりました」「えっ?」
祐介とは三つも年上の、文字通り「あんこさん」だった。
「いくつだと思っとったの?」
「せいぜい、十六くらいかなっと」
「ま、東京の子は、おべんちゃらがじょうずなんじゃね」
そう言って、りんはずんずん下っていったものだから、祐介も駆け足になる、
魚屋や八百屋がならぶ波浮の中心街を東に抜けるとすぐに船溜まりで、湾の入り口には岩の多い浜があった。
そこには、数人の少年少女が集まって泳いだり、甲羅干しをしている。
「りーん!」
その若者の中の一人が手を振って呼ばわっている。
女の子だった。
「はぁい!」と、りんも手を振って返事をした。

「こっちから浜に降りられるの。足元、気をつけてよ」「はい」
セメント護岸の切れているところから自然の岩肌で、その間に白い砂が溜まっている。
祐介はそこに飛び降りた。
さくっと両足がめり込んだ。
砂は日に焼かれて熱かった。
りんも、先にさっさと歩いていく。

松の木陰の砂地にゴザを敷いて女の子ばかり四人が寝そべっていた。
「りん、その子は?」
「ほら、見晴らし台の洋館の息子さん。立木祐介君っていうの」
「へぇ、じゃ、お医者さんの御曹司だ」「すごぉい」「高校生?」
口々に、祐介にしゃべりかけてくるので、彼は目をぱちくりさせて困惑していた。
「開成高校に行ってるそうよ」と、りん。
「やっぱりお医者さんになるの?」
「はぁ」と、祐介。
「お勉強ばかりじゃ、病気になっちまう。島にいる時だけでも、うんとこしぇ(たくさん)遊ぶべぇ」と、目の大きな、良く日焼けした女の子が言う。
「うんだよ(そうだよ)。医者の不養生っていうじゃない」と、ふくよかな女の子が見事な胸を揺らせて言う。
「そいじゃ、祐介君、紹介するじぇ。この子が中嶋和子で、あたしとひとっとし(同い年)、そん次が塚谷ふじ、ほいで。よく食う小平(こだいら)さね、しんがりが新谷(あらたに)信子で、この子らは、みんなたぶん祐介君とひとっとしずら」
「よ、よろしく」
「で、あいつらが、ここの漁師の息子たちで、この辺でいちばんのふとすけ(乱暴者)ずら」
灯台のある龍王崎から続く防波堤の波消しブロックのあたりで、かたまって魚を突いている三人組がいた。
祐介は、そういう荒々しい男子とはあまり知り合いになりたいとは思わなかった。
目の大きな色黒の女の子が中嶋和子、ふくよかな小平さね、額の広い、ひっつめ髪の塚谷ふじ、小柄で八重歯のかわいい新谷信子…祐介は反芻しつつ覚えた。

「ぬし(きみ)は、色白いなぁ」とは、信子の祐介への感想だった。
「あの、港での踊りの中にいた?」祐介も信子のそばに腰を下ろして海の方を眺めた。
「ここの女の子はみなアンコ踊りょう(踊りを)するわサ」
「急に焼くと水膨れになるで」和子が麦わら帽子をあみだに被って祐介に忠告する。
「ぬしは、泳げんの?」さねが不躾(ぶしつけ)にも尋ねた。
「お、泳げるよ」慌てて祐介が否定するので、皆が笑った。
「じゃ、泳ぐべ。暑くってあなぁないわ」りんが先導する。
「行ぐべ、行ぐべ」
みんなが砂を払って、立ち上がった。

海水は、生ぬるかった。
あまり流れがない湾なので、温まりやすいのだろう。
砂の部分から、すぐに深みとなり、祐介は足がつかなくなって慌てた。
抜き手で岸の方にもどる。
「ほぅ、達者に泳ぎよるわ」と、感心そうにりんが言う。
「泳げるよっ!」祐介が口に入った海水を吐き出しながら答えた。
さねが岸近くでパシャパシャと水を撥ね、アシカを想起させる。
信子が平泳ぎで港の口のほうまで行ってしまった。
この対岸なら、祐介でもたどり着けそうだった。
ふじが編んだ髪をほどいている。女性のそういう仕草が祐介にはなまめかしく感じられた。
「なぁしんだ(どうしたの)。何見とるずら」ふじが、言うが、目は笑っている。
「あ、いや、きれいだなって」
「なんじゃ、もう」
ふじが、ぷっとほほを膨らませる。
祐介は、今までに感じたことのない、女性への想いが湧いてくるのを覚えた。
開成高校は男子校であり、祐介にとって初めての女性への接近だった。

ふたたび、さっきの松の木陰で祐介たちが甲羅干しをしていると、魚を突いていた三人の青年がやってきた。
「りん、ぬしが内地から来たおぼっちゃんかい?」
嫌味を含んだ言い方をしたのは、精悍な、祐介とはまったく人種が違うような二十歳ぐらいの男だった。
後の二人は、彼の腰ぎんちゃくという風情。
「なぁしんだ?治次(はるじ)」と気色ばむ、りん。
祐介は、半身を起こして、
「立木祐介って言います。二週間ほどここでご厄介になります」とお辞儀をした。
「ふん、ご丁寧なごあいさつで。おれは、ここの網元をやってる中嶋の治次っていうケチな野郎でさぁ、以後お見知りおきを」
まるで仁侠映画の俳優みたいな啖呵を切った治次だった。
そいうと、肩をいからして、子分の二人を従えて港の街の方へ消えていったのだった。
「なんじゃい、カッコつけてや」そう言ったのは和子だった。
そういえば、和子の苗字も中嶋だったと、祐介は気づいた。
「お兄さん?」
「そうよ。兄ぃだよ」と、すてばちに答える。
「ええ男だわぁ、はるじ兄ぃ」今度は、信子がほめる。
「ダメダメ、のんこ、兄ぃに遊ばれて捨てられるのがオチずら」
和子にあっては、網元の兄も形無しだった。
「それに…兄貴はりんにホの字なんだべ」と和子が続ける。
驚いたのはりんのほうだった。
「やめてや…」りんは、恥じらいつつもまんざらではない様子だった。
祐介は、そんなりんを見て、妬けた。
りんのことを好いている自分の気持ちに気づいた祐介だった。

(つづく)

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