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愛するものを看取る 〜ペットロス〜

7月5日、私の大事な愛猫ホープちゃんが虹の橋を渡ってしまいました。11歳でした。

2年前にリンパ腫を発症し、抗がん治療。その後寛解して3ヶ月ごとの検査も順調にクリア。5月にした検診でも異常なかったのですが…最近食欲がなく毎年今の時期になる季節性の胃炎かと思いつつも一応と検査したら癌が脳や脊髄に転移していることが発覚。再発でかつ脳だと治療が難しく、前回効いていたステロイドや抗がん剤も効かず。急性だったこともあり精密検査の結果さえ待てずに亡くなってしまいました。お家で看取れたことだけは良かったけれど、発病からこんなにも早く旅立ってしまうとは…。

もっと幸せにできたはずなのに、自分の力不足さに腹が立つ。

家族になった動物って、自分が子供の頃は兄弟みたいな関係で育つけれど、自分が大人になってから迎えた子は我が子のような存在になる。必ず自分よりも先に死んでしまう子供。

ホープちゃんは保健所に連れて行かれるところに私がたまたま居合わせ、そのまま引き取った子。発見当初、目はウミで塞がり、喉は荒れて口の中は血だらけ。割り箸にボロ雑巾を引っ掛けたみたいにガリガリだった。一命を取り留めたものの肝臓疾患や慢性の風邪で鼻水がずっと止まらないなどハンデがたくさん残り毎日投薬が必要。5年前には鼻水が餌に絡まって喉に詰まり心肺停止したことも…。奇跡的に生還するも、こんなに持病があって生きていても幸せだろうか?この子にお迎えが来るときにはなるべく苦しまないようにしたい。と悩まない日はなかった。

言葉が話せない分、動物の闘病は難しい。通院や投薬を無理やり続けるくらいなら、静かな死を選んだ方がいいこともある。「少しでも長く生きていてほしい」は人間側のエゴに過ぎない。動物のみならず、祖父母の介護と看取りも経験し、尊厳死の大切さは痛感している。何が本人にとってベストなのかを模索しつつ最期を迎えても、それが正解だったのかは永遠にわからない。

枕が1人で使えるのに、鼻水が顔にかからないのに、家中に散った鼻水の掃除もしなくていいのに、顔が毛だらけにならないのに、顔に乗られすぎて睡眠時無呼吸症にならないのに、投薬の時間気にして急いで帰らなくていいのに、全然嬉しくない。
入れ替わり猫や犬を保護していたので、哺乳類が家にいない生活は30年ぶりくらい。家具や家選び、生活スタイルも全ては猫中心だったんだなと実感する。

今までたくさんの大切な子たちを見送ってきた。一心に愛したものを失い、全身を針で刺されるような悲しみを味わったったことがない人にはわからないかもしれないけれど、愛するが故に後悔のない看取りはないと思っている。
後悔は、ただの感情だから無駄という人もいる。後悔は苦しみ。苦しみはサイン。次に似たようなことが起きた時に同じ失敗を繰り返さないために。心が苦しみを感じたからこそ反省して次に生かせるんじゃないかな。痛点がなければ人は怪我をしたことに気づかないように、サインである感情を感じなくて、どうやって成長できるんだろうか。

まだホープちゃんが亡くなった実感はないけれど、これを書くことで何かの区切りをつけようとしているのかも。
悲しい反面、介護疲れのようなものや、またいつ死にかけるかわからないハラハラ感からは解放され、ホッとした面もあり…とても複雑な気持ち。
犬のように人懐っこくて、人馴れ訓練が必要な保護猫たちもホープちゃんと一緒に暮らすと懐くようになってくれました。みんなに愛されたホープちゃん。
本当にたくさんの幸せと発見をありがとう。あの世に行く楽しみがまた一つ増えました。

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