今さらだけど居場所について

いわゆる「若者のための居場所」というものの運営を手伝っています。うーん、まー管理人みたいなもんですね。

「若者」も「居場所」も手垢が付きすぎてて、もう何だか口に出すのもめんどくさい言葉ではありますが、この言葉を使わないと通じない世界があるもんだから、仕方ない。

まぁ、かれこれ2年以上、そういうことに携わってます。

「居場所」って、自然にあればそれにこしたことはない。つまり、カードゲーム屋の対戦コーナーや、アングラ系古本屋、コスプレ系のギャラリー、ハンドメイド系の集まりなんかは、凡百の福祉的居場所より、はるかにたくさんの魂を救っていると思う。

観察が趣味&呼吸みたいな人間なので、そういう場所に行って、雰囲気を味わって、頭の中で比較するようなことをしていると、なんとなくわかったことがあった。

カードゲームにしても、闇なアートにしても、ハンドメイドにしても、明確な価値基準と、それに達するための技量を学ぶという姿勢があるところに人は集まる。そういう意味ではヒップホップのサイファが、こんなに急速に数を増やしているのも同じだと思う。

たとえば、あるギャラリーでは、「カメラで写真を撮りたい人」「自分の姿を撮られたい人」「そういう場を面白がっているプロのカメラマン」がいることで、自然と交流かつ学ぶ場になっていて、そういうのがマジで感動するんですよ。

もちろん、福祉的(という自己認識を持った)居場所に役割がないわけじゃない。とりあえず、ご飯を食べることができない人や、家に帰るのが嫌だとか、怖いって人には、そういうシェルター的なものは必要。

どっちがどっちだっていうことはなくて、両方必要。人はパンのみに生きているわけじゃないけど、なんにも食べなきゃ死んじゃうわけで、死んじゃったら元も子もないので、とにかくご飯をお腹いっぱい食べさせる機能でいいと思うんですよねー。

微妙というか、ダメだなーって思うのは、福祉的自己認識を持つ居場所のくせに、「自発的な自己表現みたいなもの」を求めて、それが「交流」だとか思っているようなパターン。ま、自分が携わっているのもこれに近いんで、悩んじゃうんですが。

福祉色のある居場所において、「美」や「面白さ」や「リアルさ」に明確な価値基準を定められなかったり、定める能力のない人がやっているんなら、そういう創造的な方向性は、ちょっと止めた方がいいんじゃないかと思う。すごく表現欲求が強くて、本人たちの中に既に価値基準で出来ている人が集まっているのであれば、それはOKだけど、そうじゃないなら、上記のような「お店」や「ギャラリー」の持つ社会化機能の方が絶対にいいんじゃないだろうかと思うわけです。

この辺で、話はすっとびますが、千利休ってすげえなと思うんですよ。全ての細部に自分を美意識ぶっこみつつ、その手のひらの中で、人を招き、あまつさえ心の底からリラックスさせちまう。これはやられるなー。政治的な機密も喋っちゃうな―。こういう「型」の居場所は一定数あると良いと思う。茶道はバカにしますが、アナーキズムを内包した茶の湯は、いろんなことの参照元になる。

だって、みんな、総じて自己肯定感の低さ、無さに苦しんでいる人たちなんですよ。そんな人に向かって「君の好きに表現してごらん(ニコッ)」ってのが、どれだけ抑圧的な響きを持つのかイマジネーションがわかない人は、”自称”創造的な居場所的なるものに関わってほしくないし、関わるべきでないとすら考えますね。

さらにさらに話はぶっとびますが、森田療法ってあるじゃないですか?あれの「絶対臥床」(ぜったいがしょう)という考え方はすごく好きで、まずは徹底して受け身の状態を強制的に作る。その間は、かつて「絶対臥床」してた人がお手伝いする。うまくできたメソッドだなぁ。たぶん、一回完全に受け身になる、そこから少しずつ半受け身みたいな状態に移っていくのがよい。

というわけで、自分は福祉的居場所で「若者たちが自分たちで企画運営した何か」ってのには懐疑的です。そういったものが運営の人たちに喜ばれるだろうってくらい、忖度して企画するよ。だって、そうすることが「自分の安全を守る処世術」だって人が多いんだもの。

それよりは、職人修業+飯みたいなのが1番いいんじゃないかな?だったら、明確な価値基準を示してあげる、気に入らなかったら他のところへ行く、それでいいと思うんですよね。

ま、それくらいには、いわゆるサードプレイスが増えればいいんですけどね。それは一般的な意見と全く同意見です。


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