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【天才なんていない】「平等」と「才能」という言葉の呪い

二十代前半最後の日の半日を寝て過ごしてしまいましたYoshikiです。
ちょっと鬱気味なテンションで書き綴ります。

と言うのも、この一年、何も為せなかった失望感が凄まじ過ぎまして…

「本来だったら今頃は」とか、「あの時こんなことがなければ」みたいに
タラレバに囚われそうになるのを必死に振り解いています。

「何のためにライブでのパフォーマンスのクオリティ下げてまでトリプルワークしていたんだろう」とか、「なんですぐに立ち直って次に進めなかったんだろう」
なんて、どうしようもない後悔に気を落とさないように、今尚自分のネガティブと格闘中です。(…って言うかもはや頭の中は世界大戦ですw)


天才なんて言葉使わない方がいいよって話。

今回は、自分に期待しすぎたことを反省しようかなと思って、ちょっと自分に向き合うために書き出してみました。

この話はずっと言いたかったことの一つなんです。

私は人生の中で天才って言われたこと何度もあったけれど、
今となってはその言葉の全てが憎たらしく感じてしまい、全く嬉しくない、
本当に嬉しくなんてないんです。
(特に歌唱力に関してただの才能を褒められることほど苦痛なものはない)

はじめに読者様に注意していただきたいのは、
これは、実際に「私が天才であるか」どうかの話ではありません。
「才能やら天才やらと言ったような言葉を使われるのがどうして不快か?」

という話です。

きっと同じような経験をお持ちの方もいるのではないかと思い執筆、記事にすることにしました。
繊細な人、HSP傾向の強い方なんかわかるんじゃないかな?

ここで少し、私の子供の頃のこと、背景を書いてみようと思います。
大した話ではないので、飛ばしてもらって結構です。

幼少期の頃から保育園だの小学校だのは何十回と数えられないくらい脱走していたし、まともに各教科の授業に参加できるようになったのは小学4年生くらいで、ぶっちゃけ中学生くらいまで学校の外に飛び出てしまうことがありました。
ノートを取るのが苦手な上に嫌いでしたし、高校ですらノートなどの提出ができた試しがほぼありません。
授業は興味のない話では寝たり、絵を書いたり、ゲームしたり、次の遊びのことを考えたりしていました。
それどころか「教師の発言の揚げ足取り」が趣味だったくらいです。

それでも小学生の頃から実力テストでは常に好成績、中学では定期テストでは学年上位20%クラス、高校に上がっても調子のいい時は全国偏差で70を超えることもありました。
勉強以外でも絵画、書道、裁縫なんかで賞を獲ったことはあっても、習い事は一つもしていませんでしたし、家で宿題やテスト勉強はしませんでしたし、馬鹿がすることだと思ってすらいました。

ある程度、並以上の要領の良さがなければ、それらのことができなかったのは間違いありませんし、音楽や歌についてだって学び出してからの上達速度を考えると少なからず「センス」や「性格との相性」がなければここまで来れなかったのだとは思います。
(音楽に縁のない家庭で育ちましたから、今持っているあらゆる知識や技術は二十歳を超えてから学んだことがほとんどです。)

そういう経験もありましたから、人間は能力的にも不平等な生き物だということは十二分にわかっているつもりです。
(そして多分、今後の人生でもっと知っていくことになるのも知っています)

私は能力面以外でも、五体満足に生まれ、健康に育ち、比較的安全性の高いこの国にで生活している時点でとても多くの奇跡に恵まれています。
(長く母子家庭の時期もありましたので、裕福ではありませんでしたが)


だからよくわかるのです。


この世界に平等はないということ。

「例えば、同じものを同じ量配るというような安易な平等は、人間の個体差を無視した平等から最も遠いものである。」

そう思っています。

高い塀が目の前にあったとしましょう、その向こうには想像もつかないような絶景が広がっています。

ここに背丈の違う三人がいて、普通に立っていたら自分の背丈では向こう側は覗けないけど、このうち二人は踏み台に乗れば見れそうです。
この状況でみんなに同じ大きさの踏み台を与えるのが平等です。

一番背の低い人間は、踏み台がひとつでは足りず、真ん中の背丈の人はギリギリ見えるくらい、一番背の高い人はどうやら余裕すぎるくらいよく見えています。
一番背の高い人が一番小さい人に踏み台を譲り、自分も他の二人と同様に背伸びをしてみる、おそらくこれが正義です。(弱きを助ける、ある種の自己犠牲的精神)

平等の本質なんて、こんなにシンプルな話です。

この例から、給付金然り、インフラ然り、
「同じ条件で提供されているあらゆる物事の全ては、万人にとっては、それぞれに同じだけの幸福や利便性を与えていない」
と言うことが理解できませんでしょうか?

例えば、貧富の差について、
「裕福な人間の方が税金を払っているのに、貧乏人は言い訳ばかりして学びもしない。」「要因は情報の差だ」とのように書き綴っている記事を見かけました。

…なんて何も知らない人なんだろうと思いました(笑)

世の中は、「間違った情報を流す人、流される人」、「誤りに気づく人、気づけない人」、そもそも「必要な情報」に思うようにアクセスできない人だっています。
情報の有無だとか、そんな簡単な問題じゃないのは非常に想像にたやすいことであるはず。

必要な情報を知っている人と知らない人がいても、その二方の違いは情報の良し悪しではなく、根本的に能力の差だったり、巡り合わせの「運」の要素だってあります。

難しく言っていますが、本当にシンプルな話でして、生まれついての見た目や能力や取り巻く環境が多様性を持っている時点で私たちに平等はないんです。

だからこそ。
そんな、もはや「運要素」と言っても過言でない部分に、自分の人生を決められているかのような表現は許しがたいのです。

それがすべてのように語るのは詭弁であり、思考する事の放棄でしかないと声を大にして言いたいのです。


科学的にも実証されている正しい褒め方

1998年、コロンビア大学が400人ほどの子供を対象にしたの研究で、
「子供は能力や才能を褒められてしまうと、努力や頑張りを褒めた子供に比べて能力が落ちる」
ということがわかっています。

私の場合も、得意なことは少なからず私の努力や経験の上で成り立っています。
何もなしにいきなりできているわけじゃありません。

そしてこれは他のすべてのアーティストたちにも同様であるはずです。


天才と言われる方の思い、言葉の呪い

確かに、音楽史に名を刻むほどに高名なアーティストには、先天的な優位性を持っていた人間は数多くいることでしょう。
そのことは否定のしようがありません。

しかし、本当にそれだけがすべてでしょうか?

とある心理学者の言葉に、
「私たちの生活はすべて、習慣の集まりに過ぎない」
というのがあります。

睡眠時間を6時間としても人生の25%も人間は寝ています。
残る75%の生活のうちでどれだけのことをしてきたのでしょうか?

本当に死ぬ気で努力をしている人というのはもはや25%の睡眠すら削って、文字通り命をかけて戦っている人すらいます。
そういうことのできる方が何一つ為せなかったという話は今のところ聞いたことがありません。

先天的なものがすべてではないと私は考えています。

普段は目に見えない後天的な積み重ねこそ評価されるべきところであり、
「才能」という”本人の意思や努力に関係のない部分”を褒めるというのは、裏を返せば
「あなたは才能に恵まれたんだね(努力じゃそんな技術身につくわけないものね)」
ということになります。


私は何度も思うのです。

努力をしていない人にだけは言われたくない。

才能だけでなんてやっていない。

約4オクターブの音域も、
25秒安定して出せる大音量のロングトーンも、
スピードも幅も抑揚も自由自在のビブラートも、
フレーズ内で揺らめかすインターナルダイナミクスも、
英語の発音も、
グルーブ感も、
フェイクのテクニックも、
その他あらゆるテクニックのすべてにおいて

「なぜどうやってそれができるか」を説明ができます。


だから(私が天才かどうかはさておき)、

「私のできる技術は、私が天才だからできているとは限らない」と言いたいのです。


アーティストに天才なんて言ってあげないでください。

アートに限らないんですけどね。

人の才能を褒めるのは、言った人は言われたその人を喜ばせようとして言っていたとしても、ほとんどの確率で喜ばれません。

本当によくものを知る人ほど、世の中が、人間が平等じゃないことなんてよくわかっています。

だけど、多少の優位性があるからこそ苦しいことだってあるのです。
一重にプレッシャーなんて言葉の一言で済ませられないような、こう言った複雑な悩みだってあるのです。

人と比べるのはやめようなんて言いません。
個性は比べられた時しか見つかりません。

けれど、評価するポイントはしっかり抑えておきたいですね。

…っていう話でした!!!!!

長くてごめんなさい!!熱くなりすぎたwwww

今日はここまで!!ありがとうございました_(┐「ε:)_


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