レヴィ=ストロースの構造主義について②

そういえば、「レヴィ」とか言っちゃってる人は論外ですよ。

「クロード=レヴィ=ストロース」なので、「レヴィさん」とか読んじゃう人は、「田中太郎」さんを「田中太さん」っていう感じです。勉強不足です。

さて、それはともかく、誤解された「構造」では理解しえない例を、小田亮先生の報告している例でご紹介します。

アフリカのザイールに、レレという民族がいます。彼らはセンザンコウというアルマジロみたいな動物を食べることをタブーとしています。そして、センザンコウを祭祀対象とする年一度の儀礼があるのですが、その儀礼はレレで唯一の動物を対象とする祭祀で、人間の多産や狩りの成功を目的とします。ちなみに参加できるのは、占い師や双子の子を産んだ親など特別な神秘的力がある、とされている人々だけです。この時だけはセンザンコウを狩り、その年に成人を迎える者と祭祀集団のメンバーがその肉を食べることができます。

センザンコウはアルマジロに似た蟻を食う哺乳類です。体が鱗に覆われており、危険にあうと体をボールのように丸める習性をもちます。そして、①森にすむ動物なのに魚のように鱗がある②トカゲのようだがトカゲと違い子を産み乳で育出る③ほかの哺乳類と違い、人間のように一度に一匹しか子を産まない④ほかの動物は人が近づくと逃げて失礼だが、センザンコウは丸まって人が通るのを待つので、礼節を知っている

ということで、レレの社会において奇妙な存在です。

これを誤解された「構造」で考えると、センザンコウはレレの「構造」では整理しきれないマージナルな存在なので、祭祀対象になる。

しかし、なら何故一匹しか生まないセンザンコウが多産を目的とする儀礼の祭祀対象になるのでしょうか。誤解された「構造」では答えを出せません。

小田先生は言います。レレでは世界に生きる存在を「人間/動物/精霊」と分けています。そして住む領域を「村/森/水のあるところ」と分けています。彼らが食べてよいものは森のものであり、村で飼っている動物は食べません。そして、この三つの領域が秩序だって分けられていれば良いことがおこり、混沌としてたら悪いことが起こる、と言われます。

そしてレレの人々は「人間は礼節を知っているが動物は礼儀知らず」「人間は一度に一人しか子を産まないが、動物は一度にたくさん産む」という点が人間と動物の違いだ、とします。

しかし、センザンコウは前述の通り「礼節を知っている」し「人間同様一度に一匹しか生まない」という人間の特徴を持っている。その上森から村に時折やってきます。つまり、センザンコウは動物の分類体系の中で変則的なだけでなく、人間/動物の領域の間の境界を超える両義的な存在でもあります。更にセンザンコウは魚のような鱗を持っているので、森/水のあるところの領域においても両義的です。

一方、人間の双子の親は「一度の沢山の子を産んだ」のだから動物の特徴を持っています。そして何故そうなったかというと、精霊の介入があったから、とレレではされます。つまり、人間社会においても双子の親もまた、三つの世界を媒介する存在なのです。

ここまでくれば、もうわかります。センザンコウ―動物の関係は、人間ー双子の親の関係を「変換」したものです。つまり、三つの領域全ての特徴を持つという点においてセンザンコウ=双子の親であり、センザンコウ(少産)―ほかの動物(多産)関係は、双子の親(多産)-ほかの人間(少産)関係を反転させたものです。

ということで、センザンコウの特別な象徴的意味は、動物の分類といった「構造」ではなく、人間・精霊の領域との区切りと、その媒介を果たす双子の親との類似関係によって規定されているのです。

このように、レヴィ=ストロースが主張した「構造」は不変のものでは全く無く、むしろ「構造」とはその都度の対応関係の設定により、要素の概念的特徴の意味が「変換」され(ここではセンザンコウに「多産」の意味が付与されている)、同一性を持たないという特徴があるのです。

つまり、構造主義とは、多くの人が誤解しているような「体系」的なものとは真逆で、関係と関係を重視する議論なのです。そして、一つの文化においても複数のコードが存在するだけでなく、一つの体系、一つの文化が他の文化のコードとさえなっていることもあります(ややこしくなるので割愛しますが)。だからこそ、そこに多くの人の誤解する皮相的な「構造」は存在しません。小田先生はこのように述べています。

「構造」と「体系」の違いは、変形(変換)が可能であるかないかにあるとレヴィ=ストロースはいう。つまり、体系(注:皆の誤解する「構造」)には変換が可能ではなく、体系に手が加わるとばらばらに崩壊してしまうが、「構造」は、いわば体系と体系の間の関係であり、何らかの変化が加わると変形されて別の体系となるが、その場合にも「構造」はなお「不変」のまま残るものだというのである

ということで、「構造=体系」という見方は、構造主義、レヴィ=ストロースの思想の最も重要な所を取りこぼしているのです。

変換するのに、なお残る何か、それが「構造」です。


*引用したのは小田亮『構造人類学のフィールド』世界思想社 1994年です。非常に読みやすくお勧めです。

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