バインミーでさようなら
次が私の番だ。たったこれだけのためにどれだけ待っただろう。でもいい。店内は暖房が効いて暖かいし、ノルウェーを出る前に、これだけはもう一度食べておきたかったから。
今日、荷物をまとめた。私のものだけを部屋から探し出す作業は、思ったより大変だった。たった1年住んだだけのはずなのに、細々したものが思わぬ場所から出てきたりした。
いらないものは箱に入れてアパートの前に置いた。こうするとこの国では欲しい人が自由に取って行く。きっと今頃、箱は空になっているだろう。必要なものはスーツケースに入れた。慎重に選んだ。荷物を軽くしたいわけじゃない。いらない思い出を持ち帰りたくなかったのだ。
前に並んでいるベトナム人のカップルが手際よく注文する。おそらく家族の分も買うのだろう。牛のバインミーをさまざまなソースで10本ほどテイクアウトするつもりだ。流暢なノルウェー語を話す。住んで長いのだろうか。私は結局、英語ばかりに頼って、ノルウェー語を話さないままここを出ることになってしまった。彼は少しでも話した方がいい経験になると言っていたけれど。
こんな時まで彼のことを思い出す自分に嫌気がさした。意識を集中させようと、メニュー表をもう一度見る。そして、メニュー表を持つ自分の手を見て驚いた。薬指に光っている指輪。まだこんなものつけていたのだ。取り外して、でもどうすればよいのかわからなかった。ゴミ箱もないのだし、ポケットに入れれば忘れたまま日本に持ち帰ってしまうなんてことをしかねない。それだけはしたくなかった。いらないものは全て置いていきたかった。
あとで捨てようと、この時は仕方なく指輪をはめ直した。
キッチンの奥からいい匂いがする。ニョクマムと肉が混ざった温かい匂い。ベトナム料理なのに、懐かしい気持ちになる。
海外にいると、どれほど高級な和食レストランにいったとしても、日本の味を探し当てることはとても難しいんじゃないかと思う。外国にも、たしかにたくさんの日本料理レストランがある。しかし日本人の生活の底を流れる味はそこにない。たとえば、醤油はあっても、私たちの遺伝子が覚えているような大豆の発酵臭はない。
だから、ふらっと入ったベトナム料理店でニョクマムなんかの匂いを嗅いだとき、昔よく食べた鯖の塩焼きを思い出して涙目になったりするのだ。
この店には彼とよくきていた。少し並ぶが、安価で本格的なバインミーが食べられ、足りない時にはベトナムの小料理も頼める気軽なこの店が気に入っていた。わたしはバインミーはもちろんだが、ソイチンというおこわの揚げおにぎりも大好きだった。2つ皿に乗ってくるので、彼と1つずつ分けて食べた。そういえば、一人でくるのは今日が初めてだ。そしてこれが、最後になるだろう。
「オップラー?」と聞かれる。目玉焼きを挟むか、と言う意味だ。首を横に降る。その代わり、鳥レバーのパテを多めにサービスしてくれる?というと、はいはい、と頷き慣れた手つきでパテを塗り込んでいく。
はい、あなた。ベトナムハムのバインミー。パテ多め、と私に手渡ししてくれるベトナム人の店員。この店にはトレーがない。みんな店員からもらったバケットを掴んで受け取り、必要ならばナプキンに包んで、食べる。
目の前で立ち上る匂いに我慢できず、慌てて席につき、かぶりついた。自家製の焼きたてバケットはサクサクとビスケットのように軽い。中には、歯ごたえのあるベトナムハムと酢たっぷりの野菜のなますがよく絡む。こぼれ落ちそうなほどのパクチーも魅力的だ。しかしなにより、バケットに沁みたニョクマムがうまい。
前半はそのまま、後半は席においてあるチリソースをたっぷりかけていただく。塗られたパテの食感の軽さに驚く。ふわふわとした中にレバー特有の臭みとブランデーの香りが広がる。
ふと、隣の席を見ると、ベトナム人の大学生だろうか、男女のグループが仲良く食事をしている。男子たちは髪をかり上げてなんだか真面目な青年風なのだけれど、女子は厚化粧にマニキュアのはみ出た指先でバケットを鷲掴みにしている。
そして私は驚いた。ある女の子の手に、じいっと見入ってしまった。失礼とわかっていても、目が離せなかった。気づかないふりをして食べ続けたが、私はどうしてもそれが気になってしまった。食べ終わってからもどうしても腰を上げることができない。そして、ここはちょっと勇気を出してみようかな、と思う。
話しかけてみると男子の方は引っ込み思案で無愛想。女子は、清楚で正しい話し方をしていて、頭がいいなあ、なんて思ってしまう。普段はこんなことしない。知らない人に突然話しかけるなんて。でも、さっきから気になっていた、一人の女の子。
こんなことを言ったら驚くと思うけれど、気味悪がらないで。あなた、ちょっと手を出してみてくれる。
私がいうと、ベトナム人の女の子は、面食らった顔をしていたが、ニコッと笑って素直に手を出した。私も手を出す。みんな、それを見て、おおー、と声を上げた。
そう。私たちの手は全くといっていいほど同じ形をしていた。爪の形、指の長さ、甲の幅、関節の出具合も全部。こんなことってあるのだろうか。私はハッとした。指輪を外し、その子の指にはめた。シンデレラがガラスの靴を履く時、こんなかんじなのだろうか、彼女と縁のないその指輪は、はじめから彼女のものであるかのようにぴったりと馴染んだ。誰より、彼女自身が驚いていた。
これ、あげるよ
え、いいの。でもたかそう。
高いよ、でもいいの。良かったら大切にしてね。
勘定をしていると先ほど子たちは、こちらに手を振る。
指輪を受け取った女の子は慌てて、なにかをスマートフォンで調べ始めた。そして、顔を上げ言った。
サヨナラー、サヨナラー。
赤や黄色でキラキラとかがやく指先が弧を描く。
皆がそれを真似していう。サヨナラー、サヨナラー。
一度話しただけなのに、明日にもまた会うような気安さだ。
でもそれが、今のわたしには何よりも救いだった。
口の中にニョクマムのコクと、指輪との思い出をたたえて、私もいった。
さようなら、さようなら。元気でね、さようなら。
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