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プロローグ 松澤フミ

 浸透した女は、名を「松澤フミ」という。本名は抹消済みだ。本名を抹消したのか、されたのか。それは彼女にとって、どうでもいい。

「日本にはもう、石黒忠悳はいない」

 フミがポツリともらした言葉は、夜の寄せては引く波に吸い込まれた。
 名勝・気比の松原。「一夜の松原」と呼ばれるこの地で、フミは中学校二年生のとき、北に拉致された。

「き~み~が~よ~は~」

 フミは愛して止まない歌を口ずさみながら、松林の中を歩く。敦賀湾から潜水で侵入したが、VRスーツのお陰で、着替えなくて済む。優れモノのスーツは光学迷彩の恩恵を受け、ステルスはおろか、セーラー服からウェディングドレスまで、何にでも化けられる。

 潜水用具は始末した。同時に浸透した組長と副組長、その他一名も、ナノマテリアルの糸で細胞レベルまで切断し、夜の海へ廃棄した。
 フミが歩くと、防刃・防弾仕様でもあるVRスーツがカメレオンのように変色する。擬態。

 「クスクス」。フミは笑った。北に拉致されたとき、フミは中学校二年生だった。バトミントンしか知らなかったフミは今、政治軍事大学で諜報と殺人術を得た。彼女を「使える」と判断した三号庁舎は、フミをサリオン連絡所に配置した。北の幹部達はフミを掌の上と考えているが、大間違いだ。全ては、フミの思い通り。民が飢餓で住まいの畳を食う国では、暴力とセックスで目的は叶えられる。

 だがフミは、北での立身出世はどうでもよかった。彼女の目的は、祖国。常に胸中にあるのは、日本。

 松林が開けた。かつて通った中学校の校舎が、まだある。
 首から下をVRスーツで包んだフミは「ハッ」と夜気を吐いた。吐息は白くならなかった。敦賀は、雪降る街なのに。福井は寒いのに。日本は、冷たいのに。

「日本にはもう、石黒忠悳はいない」

 フミはもう一度言うと、数十年ぶりの祖国の大地を歩き始めた。韓国への越境や、ロシアや中国への諜報と暗殺は、飢餓で死んだ人民の数だけこなしたが、日本での行動は、これが初めてだ。
 
 日本救済事業「アンナ」、発動。

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