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『愛わ時空を恋え』第三話 by悟行(サトピーって読んでネ)


#創作大賞2023

(第一章 続き)

       11

 朝が来た。
 僕は、キャスの横に眠りながら、カーテンから差し込む青い光ーー何のことはないそれはカーテンの色なのだけどーーの中で、昨夜のキャスとのやり取りが頭に浮かんでしょうもなかった。それで・・

 うぁどうやって追ん出したらいいんだろう❓❓❓って・・

 その後、あらゆる努力を試みたがラチあかず。。何しろこの鈍キャスときたら、真綿に剣を向けるカンジで、切ろうとしてスリ抜けてしまうというか、こっちが怪我しちゃうか⁉️ うううむむ、仕っっ方ない、3日間姿をくらましてみた。と、やっぱり無視ほどキツイものはないらしく・・・。これにて一件落着‼️ と相成り。。

 あたかも、抜け落ちた乳歯の如く、キャスは2度と戻ることはなかった。こうして、1年半に及んだキャスとの生活が終った。ーー

 それにしても、である。
 キャスに初めて出会したあの日、僕は柄にもなく‘一夜の契り’がいいなァとなぜか直感し、キャスとのその今宵をそのように持っていこうと初試行した。ところがキャスは、それを拒んだ。
 フツーなら、その段階で

『お生憎サマ❗️』

の一回デートで、ナンもなしか、或いは半分位あったりして終わるわけなんだろうけど。
 こう言ってはなんだけど、どーゆーわけか、キャスが殊の外‘ひつこかっ’たのだ。というのは、どうやら‘僕’は、キャスの好みというか、ひどく安心できるタイプ・おそらく過去の誰か(例えば憧れの先生とか)に似ていたとかそーゆー類のようだ。だからこそ、予想外の僕の持って行き方にもめげずにコレっきりにはしたくなかったのさ。つまり、深くなりたい欲求ってのは、キャスにしてみれば、出会った瞬間から抱いていたことになる。
 けどだからこそ、いきなりでなく、‘それなりの’段階を踏んで到達したかったのだよ、心身共のエクスタシーにネ。で結局、次デートからフツーの、あくまでもキャス予定の恋愛的発展を急速に遂げた結果が、このような事態になったわけ。
 返す返す、第一の直感は正しかった❗️つまり、一夜限りのヒト(女)にしておけば、それは最高の対処法だったことになる。ことキャスに関したは、である。キャスをそのように扱うべきと踏んだ直感は、極めて正しかったのだ。
 しかも僕は‘松方はん’のようなプレイボーイじゃないやや思考型の人間だったにも関わらず、そのような直感で当初動いたのは、まさにキャスについては正論だったといえる。そうしておけば、松方はんのように、キャスは‘千分の1’とか‘2千分の1’の星屑同様で済んだのだし、ましてやお里がどうのなんて思いもしなくて済んだんだ。ううんむ、直感頼るべし❗️という結論。

 ーーさて、一癖も二癖もあったキャスだからこその、臭い続きが存在する。
 それはデス!なんと、あの空白の3日間に、キャスのヤツときたら、あろうことか全く行ってもいないと知りながら、遥か遠方にある大学に問合せ、というか平たく言えば“呼び出し”TEL をしたということを、かなり後で学内の知り合いを介して僕は知った。こんな恥ずべき嫌がらせを、キャスは平然と(連絡先がわからないを表向きの口実に。口実といえば視力もだ。目がいいからってよそ見ばっかする奴いやしない。よそ見は頭がおかしいからって一生気づかない大バカ)やってのけたのだ。何千人もいる教養課程に即刻呼び出しなど通常有り得ない!がキャスはそれが問題と理解できず、マトモな言葉で電話しましたけど、くらいだろうな。なまじ日本語ができるのが宜しくない。場合が違うっつうに。しかも、前々から、地震とか消息不明の場合の連絡方法などというのは交換してあったにも関わらず、である。こんな大事なことも、おそらく初めから傷付いた脳細胞の病がーー何しろ産声を上げずに生れ落ちたとーー覚えさせないんだ。ーー“2階のベランダへどうやって上がるの?”などとマジに問う幼稚なキャスの答えは想像がつく。『そんな連絡の仕方聞いていたかしら❓だって、どこにいるのかわからなかったんだもん』まず聞けば、百%そーゆー答えが返ってくることはわかりきっているから、そもそも会って聞いたってしょうもない。他、キャスから、”いざという時はこの人に連絡して“と聞いていたお友だちがいた。置き放しの持ち物のことがあるので早速大学気付で手紙を出した。勿論電話呼び出しなんてしない。ところが、『そんな役割、聞いてない。そう言えば意味のよくわからない手紙がキャスからあったのは覚えてる』そうだ。要はキャスの一方的な思いだけ。しかも、後々、“なんで私のお友だちにまで手紙なんか出したの?お友達が傷ついたし、第一、わたしそんなこと連絡先とかって言ったっけ?“と全くわけわからんことを言ってくるから驚きっつかいつもの病気っつかってカンジ。。バイト先もみんな口を揃えて”働くカンジじゃなかった”等々、おおよそキャスをよく言う人は一人もいない、にも関わらずいつも”私は皆んなとうまくいってる、よく思われている。”が口癖だった。完全にコミュ症・発達障害・究極の精神分裂病態。
 いやいや飛び出たあと、暫くハワイ島に戻ったらしいのだが、興味深い話がある。近所の小学時代の‘お友達’が直ちに数人集まってきたそうだ。それを、私は人気者とさえ思ったらしいのだ。実態は、物見遊山に決まってる。そもそも、🌺ハワイ島の田舎で、苦情の電話が絶えなかった家の娘が久々戻ったってんで、みんなで突っつき半分で釣るんで訪ねた、というのが事実のようだし、そりゃそうだろうに。。おめでたいにもほどがあるルの女、ジツにバカげてる。
 非現実を、あたかもあったかのように言う妄想癖も、頗(すこぶ)る激しいし、つける薬がない❗️ってヤツ。出てった間も、いろいろやらかしている。
 まずは、僕の母親に、“タオルが入ってるのかと思った”ほどの分厚い封筒を、妄想と文句を200枚近く書いて送りつけた。勿論、賢い母親はその封筒の異常さにすぐさま気づき、いつもにこやかに相手の話に耳を傾ける母親だが、その時ばかりは開ける代わりに、全く中身には目もくれず、初めてハワイのキャスの母親に電話をした。

『お宅のお嬢さん、大丈夫なの❓』

もちろん、産声もあげない子を遠い地に放置するようなバカ親に意味わかるはずはなく、

「とにかく娘はそろそろウチに置いておきたい」

と訳のわからん返答だったそうだ。こーゆー電話、娘に対する問合せのような電話は、過去にあちこちから何度もあったはずなのに、だ。そもそも、キャスの行動に出会した誰しもが、ビックラした顔、軽蔑の顔を凄じくすることになっちゃうわけだけど、ななんと、その顔を見たキャスは、“異常だ”と言って、誰々はどんな異常な顔をしたとか、母親に伝え、バカ親はそのまんま信じてると。なら、キャスの周りは異常な人で溢れてしまうに❗️
 異常なのは唯1人‼️それ見たら正常な誰だってビックラした顔に🥸なるデェ‼️いくらなんでも、世の中にそこまで異常な人は多くないよ、キャスママさん❗️

 まあ、こんな調子だから当然だけどまだハワイ時代、小学校の時は男の子としか遊んだことがない、と自慢していた。でもそれ、そもそも自慢にならない点に全く気づかないことは、キャスの致命傷だろう。だって、女の子の親友なんてできるはずがなかった。ーーこんな高慢で嘘つきを、こと女の子なら嫌うはずだし、ましてや助言しようなんて思う前に‘場’を離れるのが常識ってもの。

 だから、僕に言われることは全て正しい、にも関わらず相当キツく感じたはずだ。言うまでもなくそれは、

フツーの女の子が小・中学生の時にいい友から得られただろう情報を、生まれて初めてドサンと聞かされたのだから。。おそらく、これこそ最初で最後のチャンスだったはずだ。

・・僕も、とんでもない役回りになったモンだスッたもんだワ❗️

 そして最後には、キャスの常套手段ーー相手を悪党に捏ち上げる!
 つまり、何を言ってもあの脳回路が取り合わないだけでなく、決まって、

『そんなこと、あなたと話したくない❗️』
と言うことで、まるで話し相手が空気を読めない悪者であるかのように仕立て上げる名人でもあった🤭


 先に述べた如く緊急の連絡方法とか肝心な約束事はサッサと忘れてしまい、ヨソ見の専門家。これこそ、精神科の領域だったろうけど。ーー僕は、精神科の実習で苦い思い出がある。‘お散歩’で入院患者さん数人と外を歩いた時、いきなり1人が道路から外れて脇の民家の庭に入ってしゃがみ込んだ。
 僕は勿論、状況がわかるほど慣れてはいなかった。彼はニコニコ立ち上がって、何事もなかったかのように再び隊列に戻って‘お散歩’を続けようとした。僕が、その家の人と、ドンだけトラブル処理に大汗(~_~;)をかいたかって❗️だからか、僕は精神科は1番苦手だ。
 血だらけで搬送されてきた人の処置の方が、遥かに落ち着いて対処できたことを覚えている。だからやっぱ、キャスとの直感は合ってる。ーー思い出してみると、小学校、いや中学校でもこーゆー娘って必ずクラスに1人位いたりしたな。そーゆー娘はいつも気取ったことを言い、見かけだけはある程度オシャレで(実態はココロを補う為に物にしがみついている❗️)、決まって親はある程度の役職をもつ仕事をしている(見方を変えれば親は家庭に重心を置いてない)。そして言うまでもなく、クラスの女の子からは煙たがられ親友というホントのことをサジェッションする友など、けっしていない。“女の子は合わなかった”は口癖だったが、全然ちがうデャ!アンタが、女の子っつか人から受け入れ可能な存在じゃあなかったんさァ。。その事に一生気づかない、一生受け入れない事実。
 
 結局のところ、キャスの安住の地は、ハワイにもなく東京にもなく、、

‘ドップリ浸かりたい❣️’

と一度戯(たわ)けたことあったけど、

 『あるよ!』

 それは、

 ‘鍵の掛かる🗝’ ドアの🚪向う側の‘病棟’

でしかない。放し飼いにできるものではないから。放っておけばまた、あの事態を思い出す。ーーいつだったか、ご近所で少々騒々しいかなってカンジのトコがあった。我慢限界で、一度僕が、

「ウッセーなぁ❗️」

と半分叫び声を上げた。これが問題になることはまずない。まあコミュニケーションのギリ許容範囲って処。。が、である。なんと、コミュニケーションの仕方も解らぬ筈のコミュ症(精神分裂病のキャスの中には発達障害・コミュ症、といま風にはいろいろあった)のキャスが

‘あたしがやる’

とわけ分からんこと言い。
 う、そこら辺にあった広告を裏返したかと思うや、マジックでツラツラ書き殴るじゃあーりませんか❗️な、な、ななんと、サッサと靴を履き、なにするの?とか制止するとかのウムも言う暇も無く、アレー〜ー‼️そのお宅のポストに入れちゃったよ‼️・・・
 半分叫ぶくらいは、ままあることとて僕の声は問題にならなかったが。。キャスの行動、あの実習の時はキャスを思い出したワさ。とにかく、精神分裂病というのは、恐ろしいスピードで展開する。他人の庭でヒョイ❗️耳を切り落としてヒョイ❗️ゴーギャンが、地球の裏側の対蹠点であるタヒチにまで逃げたのは当然だろう。そしてキャスのマジックで書いてヒョイ❗️どれもコレも恐ろしやオゾマシや。。その後の展開は、思い出すも背筋ゾクッ。。

 まぁ、仲介と称す‘有難い⁇’人から、

『こんな物が入ってた』

と現物を見せられ戻された上、キャスの親は知らぬからと僕の母に連絡がいき、。ーーそうだよ、この時点で、そー言えば以前、あることを聞いていたことを思い出して、それはもう、キャスのこと物珍しいとか言ってた場合じゃなかったと、その時痛感させられた。
 キャスから聞いたことがあるのは。ハワイ島で、小学生の頃、お友達の家でお食事になり、キャスだけがほとんど食べなかった、という話。。その時、キャス家に電話が入ったそうだ。大方僕は、常識的に食べない彼女の体調を心配して、と考えたのだが、ノウノウノーーーうっ❗️

 「オタク普段、ナニ食べさせてんの⁉️」

となかなかの電話があったらしい。この時点で、僕は、キャスが相当相手が不快を感じるような態度、おおよそ失礼に振舞ったのではないかな?と推察できた。それ正解か確かめるまでもなく、キャスの次の会話にもっと唖然とした。

「だってわたし、いいもの食べてたもん‼️」

だって。ななんと、キャスはお友達の家で、こんなモン食べられんかよって顔したってことだよなぁ。さらにデス。この、‘心配’ではなく‘苦情’の電話があった!という事実を、その晩、どーゆー態度をとったかとかの、家族会議にもならなかった点が、驚きで、こうなるとヘンナ感心ーー

流石は‘精神分裂病’を生み出す環境だワ、とね。なぜ、問題にならなかったのだろう❓

並の親ではないな。正真正銘の‘バカ親’なんだろね。。近所での評判の悪さが、自慢話になっちゃってる。そしてこの電話こそ‼️ーーホラ、今と全く同んなじジャン。。
 親に連絡をいれる、という苦肉の策を試みたのも、事が異常だと思ったからに他ならない。第三者はいつもみんな気づく❗️そうだ、誰が考えてもおっかしぃって❗️トバッチリは私の母ですよ。キャスが何者かわからんから僕の母にTelって、そうなったんだろうけれど。。

 このことで、ものの見事に繋がった‼️

 散発的に、もの珍しくチト面白いぐらいに感じていた事ごとは、糸で紡いで一ヶ所に纏めてみると、知るも恐ろしい、思い出すと背筋が寒くなるほどの、見事なまでの病態が浮かび上がってきたのだ。産声を上げなかった、おそらく先天的に脳細胞に傷、という可能性が高い。にも関わらず、キャスの親は手元に置いて様子を見たいとは思わないらしく、自分が出たとこだからと、遥か遠い異国の地にキャスを8年間も寄宿舎預かりさせようとし、結果的に6年間で終わったのだが。
 そりゃそうだ、不健康に生まれて、寄宿舎ではよく熱を出した。出席し、ても巨大マスク。そんなで、出席不足は目に見え、敢え無く放校処分に。地方のあのミッションで短大に上がれないのはまずいない。上がらないのは、医学系とか国家資格の関係で他大学へ進学する娘に限られる。とゆーわけだから。。
 しかも、不健康な娘を10代の時、異国に放ち、今度は、20歳も半ば過ぎてーーここから先は、回り回って伝え聞いた話だがーーハワイ島に戻るや、(やっぱりと言うべきか)側に置いときたい、と。どうも理由は、祖母たちの‘係’らしい。実にひどい話だ。フツー、もう独立せい、という歳。全部逆、なんも考えてない。想像を絶するバカ親だからこそ‘分裂症’をつくったんだろう、とヘンな納得ならできるワ。。
 あのロアビルの前、ドア越しに赤・黄・・とめくるめいた光、それは確かに物珍しくカラフルなオウムだったが。1つ1つの光は物珍しくも、赤と黄と緑と青・・と7色の光を一点に交錯させると、おぞましい病態が紛れもない1つの白色光となってクッキリ見えてくるのだ❗️

 とまぁ、、、
 消えたキャスには、何かと尾ヒレが続く・ある有る。

       12

 5月の風が、爽やかに吹く頃。
 さて、久々電話をとると、なんとも明るい声が聞こえてくるではないか。といって、‘爽やか’ と言って良いのか❓というのも今、夜中の2時❗️だからさ。
 
 なんという地獄耳なんだか、声の主は‘あゆゆ’©️で、

 「ねぇヒロP〜今から行っていい❓」

だってさ。

 ピンポーン、とゆーカンジで、キャスの後釜に雪崩れ込んできたのが、気紛れカワイイ‘あゆゆ’©️だった。

 まぁ、言ってみればコレが

 ‘六本木のおバカ女’の2人目ってことネ。

 ドア開けるなり、crazy pink のワンレン・ボディコンのあゆゆは、
“ヒッP〜”
と僕に抱きついた(バレーとかバスケらしき部活名残の力強い抱擁、サインはグィッとゆー感じのハグした)かと思うと、CHANELと少々のアルコールを香らせ、勝手知ったる日焼けンタッキーな足取りでサッサとスタインウェイの奥のソファ🛋に直行。
 で取り敢えずのコーラを差し出すと、

「サンキュー、ねぇヒロプ〜何か弾いてぇ。」

とこんなうしみつ時過ぎでも平気でそう言う。・・・照っかりウォルナット艶の美しい猫足ピアノに向かいながら、僕は思うーーあゆゆったらまるでわかってない。それほどのレベルじゃないんだって。そもそも・・・

 忘れもしない、あのグラマーな担任のの翌年、LDC の時。
 やや恰幅のいい男の担任から、職員室に呼ばれたことがあって。ーーところで、この職員室というのが、実は数年後スリムでダンサブルな妹は勿論、その同級生の悦ちゃん(後々名キャスター)も出入りすることになる所なのですが、さあてと。
 何の呼び出しなのかと恐るおそる入っていくと、

「あー来たか。」

と振り向く先生の日焼け顔。まァ座れ、と丁度空いていた後ろの椅子を示す。
「失礼します。」
と腰掛ける途中からもう先生の口からは
「さっき何読んでたんだい❓」
「え?ぁ、、素粒子論です岩波の。」
「うわぁむっずかしいのよんでんなァァ❗️」
「・・・」
「君は話すのは嫌いじゃないようだけど、なんかまとまんないね。」
「は・・」
ここで先生、ニャッとして、

「君は音楽は好きかい❓❓」

「はい❗️」
「そっか、あの。ーーアインシュタインはな、挨拶がわりによくバイオリンを弾いたそうだ。

「へえっそーなんですか⁉️」」
「音楽好きなら、聴くだけでなく君も何かやるといいっ❗️」
と。ーー結局、職員室呼び出しの件は、オンリーそれ❗️

 すぐに習い始めた中3、ピアノ。これは相当遅い、に加えて高2からは受験で中断。大学でも実習で中断、後研修で中断とかとか。その都度先生が変わり、気づくと何と30年間で10人❗️つまり、1年習って2年休む、というぐらいの循環で、少し戻った所から再開するもんだから、30年×3分の1=実質10年、戻り分で、10×0.8 =正味8年分くらいを、10人の先生で30年かかったてた。でも、不思議と完全に辞めちゃう考えは皆無。あゆゆ©️に会った頃って、実質的8年生、道半ば、中級の真ん中辺だったか⁇ なので、何とかいける、バッハインベンションとかフィーリングスとか弾いたワ。後々、毎朝バッハの平均律!という、僕にとっての音楽的理想の生活は、先生13人目にして、確かに実現するんだけど、それは遠い遠い、この時からはとても②遠〜い、2010年宇宙の旅 !ああ夢よ再び。心の糸でしっかと留めておくことだ。
 うっ、

しっしかしあゆゆ❗️
きゃァキャーア叫んでる⁉️ 人に弾けと言いながらな何とスポーツ中継に夢中❗️

何なんだよ(ーー;) コイツゥ⁉️その夜は、明け方5時に、ゲームが終わるや否やサッと帰った。ーー時に、そのまま9時頃まで一緒に寝てくこともある、セミグラマーなカンジのあゆゆ©️とは、極めて半恋人的な半同棲生活を送る関係になった。
 そして何よりも当たり障りがなかったのが、キャスの物を目にした時、僕と目があっても目だけウフッてカンジであっけらカーン処理をしてるあゆゆ©️、さすがにあゆゆらしい❣️

 第一印象が、お金に危なそうなあゆゆだったし、逆ナンされてたしー。
あゆゆ©️への直感‘も’、大方当たってることがじきに露呈する運命だけど。

‘も’ というのは他でもない、あのホレ、キャスを一夜限りにもっていかなかったことこそ不覚と言える。僕の直感は、悉(ことごと)く正しかったわけだし。そーいえばキャスに出会う直前、モタさんのお友だちの有名な先生(名作『雪国』の舞台‘高半旅館’の次男坊・医師・作家で当然、雪国のヒロイン・駒子とも知合い・生き証人。)と隣丁目=5丁目の坂の途中にある酒場で飲んだ時、言われたことが2つあって。そこは、レミマルタンしか置かない、元日劇ダンサーがやってるお店で、壁には踊り子時代の超ドアップバストの巨大な写真が何枚も架けてあった。
 で、箱のような肩の先生曰く。

「さぁあなたもよ〜く見てご覧なさい。このお姉さんたちの大〜きなバスト❣️」

と、写真とともに、そこに居る本人たちを目線で指して僕に薦める。その言い方が、先生のいつもの診察中のような言い方なのが、凄くおかしかったのと同時に、直後のもう一言がグサッと記憶された。だって、

 「あなたには近々‘女難の相’を感じますな。」

と。これこそキャスとの遭遇の予兆だったから❗️

 さて、あゆゆ©️ですが。。二十になって、カード作ったは良いが。一度泣きつかれ、二百倍余りになっていた父親の何某かの銀行株を処分して捻出したものの、2度目となっては流石に無視せざるを得なかった。
 そんなわけで、猫みたいな居着き方をしていたあゆゆ©️とも、1年ほどで破局を迎えることになった。が、ま、心の諍(いさか)いじゃない別れ方だから、あゆゆがお金に淡白になれば、再会できぬでも❓❓な終り方かな⁉️

 それが証拠にとゆーか、あゆゆ似の娘を見てそーそう悪い気がしなくて、今でもウフッてなるのは、バカほどかわいいというような感覚なのかネ❓それに比べ、キャス似の娘に出会すと、どーも自分顔が強張るというか顔面神経引き攣り感あるから真逆だワナ。
 どうにも、この世には決して出会してはいけない人物がいるようで、狂武(キョータケ)とキャスで2K、よく考えるとまだ4K、細かいのも入れると最大8Kくらいいたかもしれない。が最近は、完全にステージが上階に達したらしく、右を向いても左を見ても、そーゆー輩(やから)は皆無になっている。“すんまそーん、ところで右ってどっちですか⁉️(志村健流gag)”ーーつまり今や、


 “来る者は拒まず”

でいける世界に僕は住んでいる。

 そうだ、忘れないうちに書いておこう。あゆゆの a little 名誉のためにも。ーー‘80年代には、’深夜電力’ というのが流行ってましてデスね。。御多分に漏れず‘僕’の六本木のアジトもそれでして。
 あゆゆが来る時間てさァ、そもそも温水生産中の正に安価な深夜電力料金の時間帯なのさ。本来、明日の昼間に備えて貯温しとくわけ。だから、あんまり夜中に使うと途中で緩いってことにもなりかねず。一度あゆゆ©️シャワー中、

「キャアヒロプー、ここ‘深夜‘だったの忘れてたァ。」
とバスルームから軽く、カワイイ悲鳴。でもあゆゆは弁(わきま)えたもので、上手くソープ落としてさっと出てきて文句1つ言わない。ーーもしキャスなら、その場なんの解決にもならない

“ウチのは追い焚きできる”

っとなり。虫唾(むしず)が走る。
 
 おぞましきかな❗️コレ昔の狂武の失礼な批判と自慢のセットとどこか似てなくない⁉️
 あゆゆ©️、そこら辺の最低限の躾は、一応整っていた。パーティーには、ホントいいお友達も連れてきてくれるし。あれで案外、プチお嬢様ってとこなんかネ。ま、1つだけ、計算がちょい苦手だったというか。いや、計算は出来ても、確認を大らかに怠る、というところかな。これ、性格の話なら結構なんかもだけど。
 なによりも、あんな気紛れなあゆゆでさえ、いわゆる’お里が知れる’的発言はしなかったのだということ。ここポイント。

 ・・六本木ら辺の娘2人と別れ、‘六本木のおバカ女’3人目となる‘ノエミ’と偶然、久々に再開する前、六本木の賢処(かしこどころ)、3人のポンギ賢女(かしこおんな)に巡り合った。ーードール(21)・服美子(22)・ミッチョン(23) という、六本木界隈のスマート・クレバーな娘たち。

 ドールさんというのは、杏里を少し瓜顔にしたよな、ブレイクダンスの天才娘。6丁目界隈の、とある店の花形ダンサーだった。
 彼女、着物で踊って舞うなんざお手のもんちっち❗️ハンパないスピード感。だもんち、この娘と一緒だと、マハラジャにGパンで入れた。この娘を見た黒服さんは、Gパンだから僕だけ帰れなんて絶対言わなかった。でも流石に、入口で真面目にお客さんの服装チェックしてる黒服君に申し訳なくて、次からは下半身もドレスアップしてったよ。
 そしたら黒服君ニコニコ寄って来て、
『ぁ、この時計交換して❗️』
と痛く僕のウォッチまで気に入っちゃって。。
 で遅い時間、フロアでは‘オギノメ’ がかかったりしてさ。ストロボライトのON 毎に次々と浮かび上がる、レインボーラメヘアを振り乱すドールダンスの連写・連射って感じ。マネしようと、フロアの女の子が蜂の巣のように集まってきて、僕はいつも女の子たちに揉みくちゃにされ密着され。。
 けど、誰1人としてドールさんの技量には追いつけず、2曲目は退却・・といういつものパターン。なので僕たちいつも、フロアをタイフーンのようにしては夜更けの白い街へと去っていったのさ。。で、

 服美子(ふみこ)ーー遥か南、厦門(アモイ)の女。福建省の福子→(マヌカンなので)服子→日本名として服が美しい子、とさ。

 ・・厦門、遥か南方椰子を濡らす雨、のような髪。謎めく温かさに溢れるアモイ。間近に金門島を望む、台湾から香港への密輸ルート。密かに国際手配を匿(かくま)ったりしてる、よく映画に出てくるチャイナタウンの冷やかな女。そーゆー服美子のプアゾン香る肌は、ほんのり褐色に憂いていた。

 路面店にいる彼女が、ブティックで差し出してくれるお茶はホントに飲茶の雰囲気が漂っている。オーダースーツの受取の時など、いつもドレッシーに黒のワンピースを纏い、一緒に歩道を歩いて青山サイドのパーキングロットまでモノを運んできてくれた。

 彼女のシャツの見立てというのが、おやっと思うような楽しくカラフルなマッチングでホントにおもしろくオシャレだった。

“ホンコン❓オッケー、ノーワリィ❣️”

と、かなり強引かもしれない申し出を受けてくれて。

 2泊3日の短い旅だったけど、香港の夜景、特に波音と服美子の胸が重なって記憶された。呼吸と心音と波の音・・。プラスあの妖しい温かさの魅力の彼女。港に面したホテルの窓外からさァッとヘッドライトか何かの光が流れた時、彼女そっと“結婚したい”と囁いた。不意を打たれた僕は、


 なら、というカンジで“いつか厦門を案内してくれる❓”と尋ねた。すると、意味深な表情を、濡れた椰子のような髪の陰から注いできた。・・何かあるのかもしれない。。きっと、知られたくない類の何かが。ーー曖昧な返事。さっきの唐突な申し出(思いつき⁇)からすると、だ。そして幽かな微笑み。。

 服美子っていったい何を考えていたんだろう❓最後まで謎の女だった。妖しい香りだけが今も、つううんと残っている。。

 そして、極めつけの賢処(かしこどころ)、ポンギの賢女(かしこおんな)のしんがりは’ミッチョン’ で、この方はポンギでウチに出入りしていた家庭教師様❗️何の❓って音楽教師、ピアノのお稽古です。

 かれこれ8人目くらいの先生だった。兎にも角にも体を張ったり❗️や、大袈裟か❓❓ーー

 ”私の足の上に、あなたの右足を載せなさい”(これってもしベトナムのラブシーン知ってる人なら大変❗️)

と相本久美子みたく栗っと目で、ミッチョン先生が仰る。右側にピタリ先生。僕は、恐る恐るゆあれるまま先生の足の上に遠慮しつつも‘乗り’、いざ出発。曲です❗️がですよ、ホント頭がツンのめるくらいにズッコケたァ❗️て先生思いっきりアクセル踏み込むカンジで、その都度‘乗った’僕も前のめりに。指で鍵盤に危うくつかまる、だので全て勢いフォルテになってしまう。

 初体験のそんなレッスン生活が、週4日を1ヶ月。2ヶ月目になると、自然と自分の足も、いいカンジに先生に連動し始めてて。ーー今までの先生、

『ほらそこペダル🫵』

みたいな。とか、
『あとで‘ちゃんと見’といてね』
などなど。そもそも、
 その‘ちゃんと見’させてくれちゃってるのが、ミッチョン先生❣️
 
 彼女こそ、ペダル完全習得の千載一遇のBIG Chance だった。ーー大人は体で覚えるのムリ、なんて大嘘❗️そのうちに、見た映画の音楽(アガサのドーバー海峡だったかな)の印象から、知らないうちにハーフペダルも出来るように突然なってて。それこそこーゆーのって、

『できる人とできない人がいる』

って先生仰ってました。耳から取り入れってやつ。

 練習終えた後、ときに一緒に外へ出、先生のお宅方向の広尾にある、有名なシャーベット店に寄ったり。。勿論、音楽の話で盛り上がり。
 何かを指摘するときには、必ずといっていいほど対案というか解決法を同時セットで示す方でした。だもんで、こと音楽に関しては理論本も沢山くださいました。要するにコレですよ。ーー世の中には、批判と自慢がセットになってる人もいたし、指摘と解決法がセットになった話で諭す方もいらっしゃるのです。

 先生のお宅は、たか子さん(松)のちょい先辺りで。そーいえば、一度送ってきたダンサーのドールさんもこの辺だったよな。。

 先生ってなんか、只者じゃないオーラがあったというか、僕は頗るそう感じてはいた。でやっぱし!そのうち、深夜番組で司会やったり、CD も2枚出た。ピアノでなく、お歌のです。それも、とてもこころに沁みる、僕の大好きな抒情系の歌・風の盆とかをテーマにしたようなの。。

 忙しくなっても、お互い六本木界隈にいる間は、レッスンに来てくださいました。国営K‘日本の歌’ で、元SKDのダンサー1人が急に欠けた時、妹に白羽の矢が立って。急遽出演することになった妹がダンサー控え室にいたところ、丁度何かの収録中のミッチョン先生が気づいたらしくて、

  ‘楽屋見舞い’ に見えたそうだ。
「お兄ちゃんコレ逆だよネェ、私が行かなきゃいけなかったァ」

と。・・スリムでダンサブルな妹は、振付けの緋菜さんからはすぐにファーストネームで呼ばれるようになり、紅白でも水前寺さん、ベスト10 では2年連続の大賞歌手・明菜のバックを務め飾った。
 

 でそんなやさしいミッチョン先生は21 世紀の今、山間(山梨辺り)の広いコッテージを拠点にして、全国ツアーしてるみたいです。

 そんな中、六本木で僕のヘアを担当してたのが、名前は岩太郎さんとでもしとこうか。。ポンギン村の美容院5、6軒行って、それぞれ素晴らしかったんだけど、特に良子©️(故坂口)によく出会すところには、文化レベルの高いお話をする美容師さんがいたりしたのだけれど。

 最終的に、岩太郎さんのトコに落ち着いて1年くらい経った頃のこと、やれ理容美容新聞の記者とかが押し寄せてフラッシュ焚いて店内大ワラワ。ーー岩太郎様は、今でいうとテニスプレーヤーのニッコリK さんのようなチョいい男なんすけど。なんの騒ぎかって、なんと日本代表としてヨーロッパ美容コンクールに出場決定❗️とさっ。そのイタリア遠征から帰国後は、各地で美容教室を開きつつ、でも東京にいる時は、そんなに(;´д`) 高くなく今まで通り担当してくださいました。あの方にやってもらったヘアで(当り前だけど)笑われたことは1度もなく逆にいつも『そのアタマいくら❓』とかよく訊かれたし。

 ウチのポンギの仲間達の内、‘90 年代になっても六本木界隈に残っていたのが岩太郎さんだった。
 僕がベイエリア(東京湾岸)に移り住んだ後も、はたまた’杜の都’に復学した後までの5年間は、6丁目でカットしてもらいに六本木詣出していたわけです。
 
 いよいよ六本木ヒルズ建設が具体化し岩太郎さんの移転は、1番遅く且つ1番近くかった。広尾辺りで新しい店をオープンする、と。ポンギン族みんなは、西は山梨から東はベイエリア、南北的には京・札幌まで散り散りバラバラに。

 タオル・ハンカチに至るまで、毎日出掛けに持ってったランドリーとかそこが実家の人たちはヒルズにできた高層住居棟に残ったんだろうけど、ウチラ実家が他区の人は、岩さん不在時にカットしてくれたポニーテールの娘の北国行をはじめ、みんな皆前世紀末にどこへともなく消え去った。

 で岩太郎さんから広尾店オープンの案内状が届くタイミングに丁度、こちらも関西での医院開業の案内状とが行き違うというハプニングになり❗️お互い超最忙期、

   さらば‘魔法の手❗️‘



  以来コンタクトなかって。ーー

 かつての実家の山積みのデザイン書の中を思い出させるような、2週毎にウィンドウを変幻させ続けたWAVE も、暗闇む坂を下りていくと突然広がる隠れ家ハートランド酒場など諸共、ポンギ6丁目の何もかもが無くなっていった。ヒルズに取って代わるために。。 

 おっとー、

 賢女が終って六本木のBK(おバカ)女 ラストの3人目になった、かの’ノエミ’ のことを忘れていた。結局あれから、半年以上は寄りつかなかったノエミ。

 出会いと同じく、美術館で偶然再会することに。。雰囲気的に直感したのか、近況を話さざるを得ないカンジにもっていかれた。
 ところでこの娘は、いわゆるリケジョなのですが、‘デスノヨおばちゃま’的なところがあった。加えて、ノエミは比較的リッチな家らしくて、都内にあるマンションも続きで3軒購入して住んでいる。ーーパーティーの時もそうであったように、シャネルのピンクのスーツを品よく着こなしては、その後よく遊びに来た。

 紀子様のような笑みと比較的お言葉も丁寧至極でお上品。透明感漂うクリスタルがよく香ったっけ。そして他の誰よりも、制作物が段凸に多くて。。今の僕の持ち物にしてもジツゎ、あの厦門の服美子が融通してくれたオッシャレーなシャツや靴を中心にしつつも大半は、ノエミが制作していったモノが未だに残っている。全部じゃないけどね。
 細かくは、小銭入れや石鹸入れからセーター・バッグ・ポシェットに至るまで溢れんばかり。というのは、ある時、小学生の頃は自分デザインのセーターを母に連れられ毎秋オーダーしていた話をするや、

『あら、あなたの‘フツー‘ってそれなのネッ❗️』

と合点し、
『ならこれからは私が作って差し上げますワ』
という展開。

 ノエミとの半同棲生活は2年続き。つまりは、ノエミの大学生活の大半を関わったことになる。ジル、マギー、エリアとかとか夜も、あゆゆとは一段違うっつか本当に品のあるオシャレ、ドレスアップしてよく出かけた。

 僕が、妙なところで深いこだわりを持つ一方、精神世界でそれ以上拘るのは異常なのでは❓とノエミには警戒するところがあった。理解力が高い一方で、変に石のような常識の枠みたいのが頑としてあるらしく。。少しでもおかしいと感じると、

『あの方少しおかしくてよ。あまり関わらない方がよろしくてよ。』

とか言う。だけでなく、そのことをやたら吹聴する。
 その様子を、僕は奇妙に感じていた。というのは、ノエミが’ヘン’とか‘おかしい’と感じる物事に、やたらこだわっている、ことにだ。なんというか、‘ヘン’に関する専門家みたいな所があるなァ、とね。しかもそれを触れ回ると言った方が合ってるかな⁉️が本人、そんな自覚、全くなし、のようだ。ーーコレこそが大問題❗️
 関わらなくなった人のことは、ほぼ逐一、

 『あの方とは関わらないほうが宜しくてよ❗️』

と言っている。なので、もし自分も何かのキッカケでノエミと縁が切れた日にゃァそう言われる⁉️という不安がなんとなく付き纏っていたと思うのだが。ま、こーゆー予感こそが、あまり宜しくないのでは⁉️

 ノエミのこころ・・深いところは結局わからない。
 自分も今、何か言われているのだろうか❓その確認の方法もないし、またしたくもない。ーー

 日比谷の映画館では、007上映中90分間ずっと手を握り合っていたノエミ。かつて愛し合っていた、そのノエミからの夥(おびただ)しいプレゼント攻勢も、ほんの拘り・思い違いが因となってあっけなく幕を閉じた。ーーこういう幕引き、どっかで見たな。そうだアレ❗️三島の遺作『豊饒の海』の第三部^_^“暁の寺”での、別邸の隣人‘慶子’の仲睦まじさとの訣別、

 になんか似てる。。
 ともあれ、どんな心を込めて作られたのか、いつの間にかクリスタルの香りの染み付いている大量の‘モノ’が残った。

      13

 六本木ら辺の娘たちと別れた僕は、その後数ヶ月余りを、東京ベイエリアにある海辺の一軒家でいろんなことを考え巡らして過ごした。

 ‘キリトモ’の娘たちの事をチラッと思い出したりもして。というのも、六本木のマンションは、パーティーの時あゆゆが連れてきた、夢と希望に溢れた玉学や桐朋のお嬢様方の溜り場に一時期なってたから。つまり、あゆゆではどうにも‘サバケない’討論のお相手をさせられたわけオールナイトで。既にレポーターやってた玉学4年のトミーと呼ばれていたメッチャ明るく上品な娘は、その上セクシーでもあり且つ気の利く娘だった。こんなお嬢様が放置されるはずがない、と思ったけど、やはり2年後には‘いいとこ’へ嫁いでいったようだった。
 キリトモといえば、同じ出身の、一度パーティーに寄って歌ったシャンソン歌手の紹介で、僕は作曲家のお宅へ、月に2、3回ボイストレーニングに行き、湾岸に移っても通い続けてた。
 ーー海辺の家では毎夜、対岸の遊園地の花火が時報代わりにパンパン鳴ると、夕飯がてら環七沿いのドライブインまでアメ車を転がす、という単調な生活。時折、ディスコで昔よく見かけた娘達とバッタリ。で、

 “あらあなたもこちらに❓”

とまァ、湾岸に移り住んでいた娘も結構多かった。。

 思えば狂乱の10年、^_−☆ウィンク・オギノメ、バブリィ 80年代・・・

 とにかく、

  この類稀な‘時’のプレゼント=‘バブル‘の僕なりの終止符は何か❓

 を考え続けた。何しろこの時、後の稀代の大統領はハッキリ述べている。『ニューヨークの土地の価値を、日本が教えてくれた❗️』と。

 ーーでは、ぼくにとっては・・?

 バブルが弾けた後の宇宙はどうなるのか・どうあるべきかという僕的結論⁉️ーー’復学’ という選択肢がチラッと脳裡を掠めることがままあったり。でも、30 代になっていた僕自身、始めはその考えは全くなく絵空事っぽくてヒットしなかった。小さな🌠流れ星のように、そうした様々な絵・というか想いが、毎晩‘泡’のように浮かんでは消え残像のようにまた輝き光っては消えていった。ところが、


・・ある日の流れ星は、遂に地上まで火の玉大隕石のまま迫り来て僕の頭に突っ込んだ❗️きっと、毎夜少しづつ脳内に回路が形成されてて、とうとう眼前に明確な実像を結んだのだ。

 こうなれたのも、実の所的には、バブルと地価高騰の終焉に時差があったからだっだ。バブルのいわゆる‘紙きれ’が価値を下げつつあっても、地価は動きがワンテンポズレたか長かった。おかげで、補塡以上のお釣りが生じた。それを元手に、僕は医学界に復帰できるかもしれない道筋を拓けた。

 一方、次は土地だといつまでも固執していた人々は、いよいよの手段として、百年ローンならまだしも、千年ローンなんて方法で銀行が決着してのけた、という話を幾つも耳にした。なんともまぁ驚ろ踊ろしい魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だ。危ないアッブない⁉️

 いつの時代も、

  “時は金なり” 

 か ❓❓❓

 そして何よりも大切な点。

 それは、

 僕自身の結論を行動に移す意味は、経済的な結果じゃなくて、多分に精神的な意味を有する、

ということだ。
 即ち、生きてるうちにやり直す!=復学、もその一貫。今度こそ、清く美しく卒業する!遊んでる場合じゃない。
 一回の人生で完結するからには、勿論生まれ変わらない。またの人生は、なんて甘いこと夢のことは言わない。こんな‘煉獄’に、そもそも、もう一度来ようなんてマッピラ御免被り隊❗️そのためには今回の人生でやり直す、そのためにはマジ若返りは必須。そのためには医学を学ぶべし!コレ当然の成田屋❗️

 結論として、

 ‘僕’は、この宇宙における今生の一回性のあらゆる必要な事ごとに気づいた、


 これをもって
 ’ぼく’=‘私’は、

   “聖人式”

を迎えた⁉️

 と言える。

  ‘神の家’から離れ、あの、10歳の聖人‘トモ©️’ に会ってからでも実に四半世紀余りが過ぎていた。とうとう、遂に。。


                                                                        ( … … 第一章 聖人式 終り)
                         
              (つづく)… … ずっと下方に⇩次話クリック有

#六本木 #ボディコン #バブル #地価高騰

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