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『猿狩りへ』ヴー・チョン・フン短編翻訳(11)

 昔、私はまだ「猿狩り」とは何かをまだよく理解していなかった。しかし、幼少のころから、いつも私は鉄砲を持って猿狩りに行けることを願ってやまなかったのだ。一頭の虎と一頭の鹿を後ろに載せた自動車を見ることがあった。手に鉄砲を頭にはハンチング帽をかぶった四人の男は車の上に座りと背中に鉄砲を備えた狙撃手は一人自動車に乗り込んでいた。彼はハンドルの上に止まったシギの群れと仲良くしていた。彼らはよく見栄を張るために各市街地を回っていたのだが、この自動車の姿を見るたびに、私は心に敬服と熱望をただただ募らせていた。私の狩りに対する興味は強烈なもので、いくらでもその例えが出てくる。例えば中毒者が誘惑に耐えられなくなるそれと似ていたし、新しい時代を生きる娘たちが西洋のパンツを履きたがるのにも似た気持ちだった。無教養な成金が政府から勲章を欲しがる気持ちもそうかもしれない。修行僧にとっての梅酒で煮込んだ犬肉(※Rựa mận という食べ物)の誘惑だ。私はアルフォンス・ドーデが描いたタラスコンでハンチング帽を被って狩りに行く世の話(※『タラスコンみなと』 (畠中敏郎訳、岩波文庫1955)。フランス語版はハンチング帽を被って銃を肩にかけた男が表紙に描かれている)に浸っていた。それも一層私に狩りへ行くことを願わせ意欲させたのであった。
 ただある出来事の後からは、決して狙撃手になろうとは思わなくなってしまった。

 友人が鉄砲を手に入れた時や狩りに行ったなどという話を聞けば、私は大いに悔しい思いをしなければならなかった。誰もが少しずつ狙撃手としての経験を積んでいることが悔しかった。鬱屈とした気持ちを抱えたまま数年が過ぎた頃、私は友人と共に帰郷した。そこで私は彼に鳥打ちへ誘ってもらったのだ。是非想像してみて頂きたい。その日私の心がどれほど高ぶったことか!
 村にある竹の生け垣の周りを二つほど抜けてもなお、サギやカラスどころか鳥の鳴き声一つ出くわさなかった。私たちは収穫もなくただ鉄砲をぶら下げて歩いていた。村の門まで来ると、竹の枝先に止まったキツツキを見つけた。私は鉄砲を持ち上げた。すると友人が突然土の塊を拾い鳥に向かって投げ、鳥を追い払ってしまったのである!事後、友人は説明した。
「そうやって撃って、当たると思うか。無駄撃ちに終わるよ」
 私の怒りは極点に達していた。今すぐにでも絶交してやっても構わないと思ったほどだ。悲しいことだ!今みたいな出来事があればどうだろう。実生活における友情というものが文学の中のそれと比べた時に何と対照的な名詞になろうか。私にはこのような裏切りを成した友人を勘弁してやる余地などなかった。なぜならば私にとって重要なことは、撃った銃弾が当たるか外れるかということでもなく、またその鳥の肉がうまいかどうかでもなかったからだ。寧ろそんなことはどうでもよかった。私はただ鉄砲を撃つこと自体を望んでいたのだ。私が苛立って何か言ってやろうと言葉を探っている間に、友人は言った。
「多分、鳥の数が少ないということは、今日おじさんたちはここへ狩りに来たんだろう。獲物という獲物が全くここらを通らない。寧ろいつもなら、サギも多い場所だし、鳴き声だってよく聞こえるんだが」
 友人の言ったことに嘘はないと思い、私もやっと落ち着いた。また友人はさっきの行動の説明をした。今日友人は鉛弾で狩りを行うという。それはハンチング用の散弾とは異なっているため、小さい鳥を撃つのには向いていないのだそうだ。散弾であれば、銃口からは発射された後、その銃弾から小さな鉛が周囲へと帽子のような形を作り広がっていく。鉛弾ではさっき飛んで逃げていった小鳥は難しく、一旦射程から離れて様子を見ることが確実だと思ったそうだ。
 収穫のないまま帰路に着くことになった。その途中、私はかすかにグアバの木の中にヒタキを見つけた。私は再び憤慨した。なぜならば私が鉄砲を引き手に持つと友人はこう言ったのである。
「狩りに来てから一回も撃ってないからな、心配だ」
 それだけ言うと、彼は静かになった・・・。
 私は鉄砲を持ち上げた。ヒタキは尻尾を翻して私の方に向けている。風の手前、首を捻って鳴く姿はとても楽しそうである。その鳥の真っ白な胸元の前では、秩序を持って並んだ滑らかな毛波から羽が飛び出し舞い踊っていた。羽は荒涼とした風に追随して軽やかに飛んでいた。私はそれに酷く感動した。それにこれからすることの残酷さ知ってしまったのだ。『ヒタキの死』(※フランスの詩人Auguste Brizeux の詩。『La mort du bouvreuil』)の詩の中で歌われた狩人のように、私は後悔するのだろうと思った。確かにそれは悪なのかもしれない、しかし興味というものが私をとらえていた。ただ撃ちたかった。恐らく人であればだれもがそうだ!私は今まさに狩りをするのだ。一発の銃声が響いた。銃口からは一筋の煙が流れ出ていたが、すぐに空へ溶けていった。私はすぐに地面にヒタキが落ちてくるであろうと思った。しかしその鳥は一向に死ぬ気配はなく、飛んでいくこともないのである。銃弾が放たれた時、鳥は驚き一度だけ躍り上がると頭を銃声のした方向に向けた。その両目は驚きを示していた(本当に鳥類も驚愕することを知っていたのである。私は間違いなく自信をもってそのように言おう)。驚くのもそうで、おそらく私の放った銃弾は鳥の背を貫こうとした時、この鳥はちょうど躍り上がったのである。おかげで銃弾はただ空を割いて飛んでいったのであるが、その鳥はまさしくさっき銃弾が通った場所に再び止まっているのである。まさに鳥類の成せる偉業であった。私は振り向いて友人に次の銃弾を要求したが、見ると彼は両手で腹を抱えながら、頭を胸元にまで垂らしているのである。彼のまっすぐ伸びた鼻の周辺には皺という皺で一杯に集まっていた。
 私は意味がわからず恐れあがった!どうしたんだ!何があった?何か事故が?それとも銃弾が実は後ろに放たれていて、私の後ろに立っていた友人に当たったというのか?いや、そんなはずはない!こいつ笑ってやがるぞ!彼は私の顔を見るとまっすぐと立ち上がり、やかましく笑い出したのだ。彼の笑い声を聞き、木の上にいたヒタキはおののいて飛び立ってしまった。その鳥は私に易々もう一発撃たせる訳もなく、友人に新たな銃弾を請う時間を与えることはなかった。
 私は帰宅した。今日という一日、私はそのほとんどの時間を友人との口論に費やした。友人が銃弾選びを誤ったせいだ。もし私が散弾を撃っていれば、確実にあの鳥は死んでいたはずだった。あの時の私が感じた恥というのは強烈なものであった。すると彼は私に関する占星術の結果を見せてきた。そこにこう書かれていた。本日鳥を狩ることができないような凶星にはならない。この友人というのは占いを見せては上手に解釈して人を幸せにするものだから、私もうまく慰められてしまった。
 これがヒタキを狩りに行った時の話なのであるが、狩りというものが明らかになったのはこの日ではなく、猿狩りに行った日であった。以下でその話をしよう。

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