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手放したら、幸せがやってきた。シリーズ②

子供の手が離れかけた30代半ば頃から、私は暇を見つけると、百貨店めぐりをしていた。大阪梅田だと、阪急、阪神、大丸の3店舗。神戸だとそごうと大丸という具合に。
同じブランドでも、お店によって品ぞろえやディスプレイが違っていて、それをくまなく見てまわった。
元々洋服には興味があって、ブランドによって、その人の印象が全く変わるのが面白かったし、楽しかった。今思えば、姑との軋轢によるうっぷん晴らしもあったかもしれない。

子供が3人もいるので、その頃は毎年何かしらPTAの役員を引き受けていた。懇親会などで、「その服素敵!どこで買ったん?」とか、「今度は何を着てくるか楽しみやわ」とか言われて、おそらく顎が1cm上に上がっていたんじゃないかと思う。

10年近くそんなことをしていただろうか。
流石に、私も自分の愚かさに気づき始めた。
みんなが褒めてくれるのは洋服ばかりで、「私」ではなかった。
せめて「センスがいい」と言ってもらえたら、まだ、自分の能力を評価されたと思えたかもしれないが、その言葉ももらえずじまいだった。

虚しさを抱えながらも「見た目を捨てたら私の取り柄なんて何もない」という、今、書いていても冷汗が出てきそうなうぬぼれた勘違いのせいで、それを捨てるのは恐ろしいことだった。

そんな私にも転機が訪れた。
きっかけはバリ島へ行ったことだ。スピリチュアルな世界にご縁ができ、片っ端から個人セッションや講座に参加するようになった。金銭的な限界から洋服にお金をかけることができなくなっていったと同時に、学びによって、人目が気にならなくなった。

忘れられないことがある。バリ島のリトリートに参加した後のことだ。リトリートの開催されたホテルから町へ向かうシャトルバスに乗り合わせた婦人が、安物のTシャツにGパン、すっぴんの私に「ビューティフル!あなた、今回のリトリートに参加してたの?」と聞いてきた。「Yes.」と答えると、もう一度「あなた美しいわよ」と言った。
その婦人はオーストラリアでアシュラム(修行道場)を持つ人だった。きっと、美しさとはオーラのことを指していたのだと思っている。

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