苔生す_表紙2

《苔生す残照⑻》

 校舎から出て、裏に向かうと、門馬朱音が梯子に登って何やら作業をしていた。校舎裏の壁全体を使って、ペンキで塗りたくっている。彼女がいま取り組んでいるのは、波の先端だった。
「葛飾北斎、だっけか……?」
 集中していた朱音は驚いてひとたびアルミ製の梯子を軋ませてから、章二の方を見た。
「知ってるんだ」
「見たことあるよ、日本人ならわかる」
「神奈川沖波裏っていう木版画で、葛飾北斎の連作富嶽三十六景のひとつなんだって。模写だから完璧とまではいかないけど」
「そうなのか。迫力があるな」
「この大きさだからね」
 苦笑しながら梯子を降りる朱音に章二は近付いて、その全体図を視界に入れた。
大きな波のうねりがまず目につく。飲み込まれそうな船と、それにしがみつく人。豪快な波に寄り添うように、富士山が小さく寄り添い、その上空に白い靄を立たせている。
「富士山の上にある白いものはなに?」
「あれは積乱雲」
「ひらがなで『の』みたいな線は書かない?」
「なにそれ漫画じゃないんだから。雰囲気ぶち壊しだよ、よく見て」彼女は頭上の青空を指す。章二は眩しさに目を細めた。白い雲はぽつねんと流れている。「曇ってそんな線ある?」
「言われてみればないね」
「陰影で描かれたりするものだけど、雲以外でも、自然のもので明瞭な線があるものなんてほとんどないよ。そんなように私たちが見ているだけで」
「こんな上手い絵が描ける人は言うことが違うね」
「褒めてる? 厭味?」
「なんでだよ、褒めてるに決まってんじゃん」
 章二のその様子を見た朱音は、小さくありがとうと呟いた。彼女はペンキのついた刷毛をバケツにつっこんで、再び別の刷毛を手に取る。
「落書きみたいな画材でよく描けるね」
「プロの人が見たら、きっと全然違うって言って憤慨する出来だよ、これは」
「素人の僕にはわからないな、その違い。遠くから見れば本物そっくりだけど」
「そりゃ何も知らないからだよ」
 汗を首にかけたタオルで拭って、ふたたび刷毛を手に梯子を登る。
「知らないから言えるんだ。遠くからぼやけて見える方が綺麗、なんてザラにあるんだし。近くで見ると子供の落書きと変わらないよ。……章二君は、もう帰るところ?」
「いや、裏山に用があって」
「変わらないね」
 梯子の上で、また後でねと手を振る彼女に見送られて、焼却炉の脇を通って裏山へ向かった。秘密基地はこの山の辺に生い茂る森の中にある。
 山頂まで向かう登山道を頼りに登って行く。整備されておらず狭いため獣道と変わらない。トランク片手に登るが、すぐに息が切れてしまう。それに校庭とは違って蒸し暑さが増していた。汗を大雑把に拭う。
 校門前の階段よりもずっと急で、岩や木の根に足がとられるため不安定だ。校舎の屋上が望める高さまで登ったところで振り返ると、木々に覆われ辛うじて朱音の描いている波の先が見えた。そのあたりで獣道よりさらに狭くなる道を見つけた。草を分け入った脇道だが、ほとんど誰も通っていないようだった。だが章二にはわかっていた。
 二股木、根が盛り上がったのか根元の地面が崩れたのか定かではないが、ふたつに分かれた根をもつ大木の下、アーチのようになり木の反対側の景色まで見える立派な木があるのが目印だ。そこが秘密基地に至る道だった。
 身体を横にして、滑り足で転がり落ちないように下っていく。木々に手をつき、時たま足を滑らせ土に汚れながら、少し開けた平地に出た。平地というには、四畳半程度しかないあまりに小さな空間に、崩され腐った木材の山と、三つ直線に並んだ大きな石を見つける。
 放課後の度に忍び込んだ場所。ここは章二と友人の大司だけが知る隠された場所だった。
 三番目の石をどけると、それがつい最近に掘り返されているものだと気付いた。地面がそこだけ色が違っているし、石や草木が混ざっている。手で触れるとそこだけ柔らかかった。

2014.3 初稿

2018.4 推敲