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青鹿、痴漢について考える

 叶わないことであるなら、初めから願わなければいいのだと、何度言い聞かせたことだろう。青鹿はブランコの冷たさを臀部に感じながら、空を見上げてあの人を待っていた。きっと今日も泣きながら帰ってくるに違いないあの人を、まだこれだけ会いに来ているのに家の合鍵は決して渡してくれないあの人を、待っていた。
 部屋に電気が灯る。
 公園の正面にあるアパートの三階角部屋だ。携帯を見ると午後十時半だった。
 今日は早いな、と思いながら、軋むブランコの鉄鎖を手放して、青鹿は脇に置いてあった通学鞄を手に取り歩を進めた。
 青鹿が彼と出会ったのは偶然だった。コンビニでチョコを万引きをしたところに通りがかったのが彼だった。隣を歩かれても、どうせ気付かれないだろうと高を括っていたら、やめとけば、と独り言のようにつぶやいた。
 その声に目線を上げると、冷たい他人の目で一瞥した彼がそこにいた。
 犯罪を寛大な心で許す従業員のあの生温い視線でもなく、娘の過ちに身勝手な罪悪感に圧し潰されそうな声でもなかった。染め直していない金髪は地肌の方は黒くなっていて、ピアスをじゃらじゃらと左耳にだけ三つ連ならせた彼は、まるで汚らしいものを見るように私を見下し他人の愚行を吐き捨てるように諫めていた。
 青鹿はその瞬間、雷に打たれるように確信した。
 この人であれば解ってくれるのではないだろうか、と期待を抱いた。
 それは何の根拠もない藁を掴むような願いだったのだが、歩き去ろうとするその人の腕を掴まずにはいられなかった。
 青鹿がいつものようにドアのインターホンを押すと、反応はなかったので、扉をノックではなく拳で叩いた。何度も、何度も。
 さすがに騒音に耐えかねた住人がその軋む扉を開いた。
「っせえなあ、いま何時だと思ってんだよ!」
 苛立ちを隠しもしない顔をされても、反応してくれたことに安堵しながら、青鹿は鞄の肩掛けを紐をぎゅっと握って逸る気持ちを抑え込んだ。
 まるで絞首刑にされるのを待ち望んでいる人間みたいに、矛盾した感情が青鹿の中を駆け巡っていた。怒鳴られたい、慰められたい。
「十時半」
 模範解答を答えるように、明瞭にそう返答すると、その人は顔を顰めながら玄関に入ろうとする青鹿を腕で遮った。
「お前さ、俺は近所の優しい兄ちゃんでもなんでもないんだから、そう何度も家に来るのやめてくんない」
 努めてその人からしたら優しい言葉遣いだったのだろう。
 それでも青鹿はあえて気付かないふりをして、意味がわからないと言いたげに何も答えずにいると、先に根負けしたその人の方が腕をどかして部屋の中に入っていった。
 青鹿はそれを許可ととらえて、英雄のアパートの部屋の中に入る。
 掃除されていないのか、ごみ袋がたまったキッチンと隅に埃がたまった部屋を横目に、ローファーを吐き捨てて英雄の後からついていく。
 いつもの定位置は空いている。というのも、英雄は大概ソファでくつろいでいるので、青鹿はそのソファと一緒に置かれているローテーブルに沿って英雄から左隣にフローリングの上で正座する。そこが青鹿の定位置だった。
 テレビはくだらない深夜番組を映していて、それを見もせずに英雄はキッチンに立って何やらお湯を注いでいた。
 私はノートを広げながら、宿題に取り掛かることにした。
 数学の計算問題が終わっていなかったのだ。順番的に明日は回答を指名されるだろう。だから今のうちに答えを作っておかなければならない。
 問一は簡単だったが、問二で教科書を取り出していると英雄がキッチンから戻ってきた。
「いつも思うんだけどさあ」
 英雄のまどろっこしい喋り方は化粧を剥いだ時にしか聞けない。
「それ、家でやればいいじゃん」
「うるさくて集中できないから」
「でもお前んち住宅街だろ、ウルサイも何もないだろ」
「英雄の家の方が集中できる」
「ここは学習塾じゃねえっての」
 ソファに座って口で割りばしを割ると、カップラーメンをすすり始める。
 その時青鹿はふと、英雄の目の下に黒いシミがついていることに気が付いた。
「英雄」
 眉を挙げて何、と言いたげに視線を寄越す。
「アイライナー、落ちてない。ちゃんとクレンジング使った?」
「まじで?」
 英雄は即座にローテーブルに散乱している化粧品の細かいケースの奥に置いてあった鏡を引っ張って左目の下を覗き込んだ。
「まじか。やだー落としてきたと思ったのに」
 英雄の戻った口調に笑みを漏らしつつも、青鹿は教科書を広げることに成功する。英雄は口は悪くても相手をしてくれるから楽だ。それに好きにさせてくれることに青鹿は心地よさを感じていた。だからずるずると、彼の家に入り浸るのを辞められずにいる。
 英雄は一瞬興味深げに教科書を覗き込んだが、嫌悪感からか顔を顰めて目を逸らした。
 つけっぱなしのテレビでは深夜番組で痴漢されたグラドルが気難しい顔をしてその体験を物語っていた。
「今日学校で同じこと言っていた子もいた」
「勉強しろよ」
「似たようなこと言われてた」
 テレビでは満面の笑みで芸人が、それ自慢やろ、と揶揄して会場がどっと沸いていた。グラドルは笑いながら違いますよおと猫なで声で否定する。
「なんで自慢になるの?」
「そりゃ、女らしいってことじゃね」
「それってどう自慢になるの」
「なあ、それ俺に言うの嫌味?」
 英雄はライナーの汚れが残ったシート式のクレンジングをゴミ箱に投げ捨てた。
「だって別に英雄はああいう風になりたいわけじゃないでしょ」
「方向性とは違うってだけで、世間一般で言う女性的な魅力ってのはあっちのがバリ高でしょ。普通にモテたいわ」
「女性的な魅力ってああいうのを言うのかなあ、私は魅力は感じないけど」
「そりゃ同性だからでしょ」
「それもあるけど、同性からしても努力はわかるけど、あれって異性に魅力的だとは思えない。だって普通の恰好しているのになんでセックスアピールになるんだろう。どうしてセックスアピールした方がモテてバリ高なんだろう。それってなんだか猿と一緒だね」
「は、何言ってんの」
「人間って結局、生殖するのが一番の価値基準なんだなって思って」
「生き物なんて微生物からして全部そうだろ」
「人だと生まれて後悔することもあるのに、悲しいね」
「いいから勉強しろ」
「はーい」
 宿題を終わらせて、カップラーメンをご馳走になると、帰路に向かう。警察官に見つかれば制服姿では補導されてしまうかもしれないから、足早に進む。そうはいっても電車に乗ってしまえば問題ない。
 青鹿は深夜の電車は嫌いではなかった。酔っ払いや、仕事に疲れたサラリーマンや、髪のほつれた女性を見ていると、まるで自分が灰色の世界に入れたようで気持ちが沁みる。走馬灯のように過ぎ去る極彩色のネオンをガラス越しに見ていれば、自分が傍観者でいられる安堵感にほっと息が付けるのだ。
 自宅の最寄り駅が近付いたのでは重い腰を上げた。自転車のペダルを漕いで夜を駆ける。街頭の周りに虫がちらついている。雨の匂いがしていた。
 青鹿は家に帰り、食事をして、風呂に入るとベッドに横になった。その瞬間から英雄の顔を思い出すことにしていた。それを詳細に目に浮かべようとすると、まどろみがやってくる。どんな表情でも、青鹿はなぜか英雄の顔を見ると安心できた。英雄が青鹿にとっての精神安定剤だった。
 青鹿は名だ。姓は本田という。
 万引きを常習するような高校生ではない。特筆すべき所がない代わりに、歪みもなかった。凡庸で、在り来たりで、平均的。それ以上でもなければそれ以下でもない、青鹿という名だけは独り歩きしても本人は面白味もない、と評されることが多い地味で大人しい少女だった。
 青鹿はどこにでもいる少女だった。どこにでもいる、生という牢獄に悲観した少女だった。
 何かが契機になったのかは青鹿にもわからない。そこはかとなく、漫然にそれは浮上して青鹿の頭を占めるようになった。誰かを責めるでもなく、何かが起こったでもなく、それはまるで影のように付き添うようにそこにいた。