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こころのケア、自己鍛錬、人間理解|ソーシャルワーカーがカウンセリングを受けてみた

 受けてみたと言ってもコロナ禍前からなのでもうだいぶ経ちますが、定期的に心理カウンセリングを受けています。心理士さんやカウンセラーさんが支援者のこころのケアを勧めているのを見かけるにつけ、わたし自身は「お、そうだな」と思う一方で、その構図は自分の生業を勧めるという意味で我田引水というか手前味噌のようにも思います。そこで、ソーシャルワーカーがカウンセリングを受けるのもいいもんですよ、という話を書くことにしました。サンプル数1の経験的な話ですので、そんなに大層な話ではありません。そのつもりでお付き合い頂ければ幸いです。

ソーシャルワーカーにおける自己覚知

 わたしは以前から特定の事例を対象にしたスーパービジョンを個人で受ける機会を持っていたのですが、そのたびに必ず話題になったのは「わたしはどう感じたのか」ということでした。わたし自身の理解が社会のスタンダードなものから大きく逸脱していたり、贔屓の引き倒しだったり、反対に反感を持ったりしていては、クライエントさんの理解に偏りや見落としが出ます。運転免許試験で「認知・判断・操作」という標語がありますが、クライエントさんの話を聞いてどう感じたか(どう反応したか)というのはいわば認知であり、そこに歪さや偏重があれば後続する判断も操作も影響されてしまうわけですね。極端な例えで言えば、止まれ!の標識を進め!と認知したら判断も操作も間違ったものにしかならないわけです。そこで、ケースワークを意図せざる偏りや見落としのないものにするために、自分を理解する必要、言い換えれば自分の中の当事者性が与える影響に気づける(治せる、ではありませんよ)必要が生じるわけです。不必要に厳しい対応になったり、反対に逸脱を不合理なまでに肯定したり、クライエントさんの利益につながらない対応が出てきます。ソーシャルワーカー自身が抱いているのと近しい感情(一番わかりやすい例は社会に対する怒りです)をクライエントさんが表現しない前に先取りしてしまったりすることとかも、実際にあるのです(ソーシャルワーカーも人間に過ぎないと言うか、本当に理想通りには振る舞えないものなのですよね)。

カウンセリングのきっかけ

 わたしについて言えば、スーパービジョンの半分近くは「自分は何者であるか」という問いに費やされていたように思います(残りを占めるのはクライエントさんはどういう人か、です)。なお、精神分析の訓練過程ではケーススーパービジョンと個人分析を明示的に分けていると聞きます。そこには相応の理由があるのだと思いますが、わたしにとって両者は最初から渾然一体を必然としていました。その意味で、カウンセリングが明示的な枠組みとして設定される前からその下地が築かれていたとも言えます。

 わたし自身がカウンセリングを受けるようになった直接の契機は、クライエントさんとの関わりを通じて「自分が気持ちよくなる」ことに対する罪悪感が、そのまま関わり続けることに耐えられないくらいに大きくなってしまったことでした。そのときの意識の矢印は自分に向いていて、わたしが気持ちよくなってしまったという特定の関わりが「当のクライエントさんにとってはどういう体験だったのか」ということが検討できなくなっていたんです。自分のことがわかっていない支援者の、こういうつまづきがクライエントさんにとって不利益になるんですね。

 ともかく、わたしはわたし自身をケアすることなしに仕事を続けてはいられない心理状態に陥ってしまった。きちんとした仕事をするための最低条件として自分のこころをメンテナンスしておくべきところ、仕事を続ける最低条件すら割り込みそうになって、自分のためにカウンセリングを受けることになったわけです。まぁ、きちんとしたソーシャルワーカーはそもそもこんなしょうもない失敗はしないのかも知れません。

カウンセリングの効用

 支援者がカウンセリングを受けることをクライエント体験と呼ぶ人がいますが、まあ間違いではないにしろあまり上等な表現とは思いませんし、実際に体験に伴う経験知以上の実りがありました。

 わたし個人にとってありがたかったのは、自分の話を1時間近くぶっ続けで聴いてもらえるという体験を通じて、自分の欲求充足をカウンセリングルームの外側の他人に依存しなくなってきたことです。最近の言い回しで言えば「自分の機嫌は自分で取る」みたいな。その分、対人関係上の重要や局面で自分を守るために割いていた頭のリソースをクライエントさんの理解に充てることができるようになったのは大きかったです。
 その背景には、やはり自己理解を通じて「自分の理解の及ばない他人がいる」という相対性の理解があったように思います。そんなこと、と思うかもしれませんがわたしにとっては大事なことでした。それまでの「理解できないことからくる恐れ」や「思い通りにいかない不満」を無理やり抑えつけたような非常に消耗する我慢から脱して、ちょっとの悲しみを帯びた諦めのような気持ちで自分や他人と接することができるようになりました。諸富祥彦先生の言う「期待を折っていく」という表現が近いかもしれません。これもまた、途上の話です。強調しておきたいのは、自己理解の効用がソーシャルワーク、とりわけケースワークにおける対象者理解に直結するということです。学生時代にお題目のように唱えられていた自己覚知というものが一体どういう体験で、なぜお題目のように唱えられるほど重要なのかが、ここまで来てようやく経験的な理解として結実しました。 
 諸々の結果として、自分のこころが安定してそれまでより穏やかに人の話を聴けるようになってきました。自分の言動と心的な動きがきちんと分離できるようになってきました。もっともこれは程度問題で、観察力の優れたクライエントさんなどは直ちに動揺を見抜きますが…
 もちろん自分を理解したことで他人を理解しやすくなる的な、教科書的な効用もありました。やや格好をつけた表現ですが、この世が因果関係の集合ではなく相関関係の集合なのだという理解を得られたことで、常識から外れたこと、社会通念からは考えられないことが実際にあるのだという目の前の事実を倫理的な善悪、感情的な好悪を抜きにしてそのまま受け入れることを可能にしました。このあたりはソーシャルワーカーに限らず人と関わる限り広汎に有用な気づきであったと思います。

 経験から得られた効用を強調するのはソーシャルワークをScienceだと見なしている立場からは容認しがたいかも知れませんが、わたしはどちらかといえばソーシャルワークはTechnologyではないかと考えているので、まあこれはこれで悪くはないと考えています。

理屈の面から

 自分に合うカウンセラーを見つけるのは簡単ではありませんし、お金もかかります。カウンセリングという作業も心地よいだけのものではありませんでした。わたしにも、お金を払ってかさぶたを剥がしに行くような時期がありました。しかし、今まさに仕事が煮詰まっている人や追い詰められつつあるのによい打開策の浮かばない人、怒っても怒っても今ひとつ成就しない人の立場で見れば、行き詰まってキャリアが断絶すること、自分のこころがボロボロに傷ついていくことに比べたら、カウンセリングを受けて生き延びることの期待値は低くはないように思います。何回か受けて波長合わせがうまくいかなそうなら見切りをつければいい。契約の様態としては学業よりよほど短期間で変更できるし、結局お金が同じなら心がケアされている方がいいでしょう。もちろんカウンセリングも捗々しくなく職業的にも結局うまくいかず、という可能性はありますが。
 わたしには選択肢がなかった、というか行き詰まって一も二もなくカウンセリングルームの門を叩いたわけですけれど、自分のために始めたカウンセリングが回り回って職業能力にもプラスの影響を与えたのでわたしにとっては一石二鳥でした。

 また、やや感じの悪い言い方をすれば、普段ソーシャルワーカーが主張しているこころのケアというものは、論理的にはクライエントさんたちと皮一枚隔てた反対側にいるソーシャルワーカーたる自分自身にも適用されるはずなんですよ。わたし達は皆同じ人間で対等みたいなこと、よく言うじゃないですか。クライエントさんが享受すべき心理支援(のうちのカウンセリング)を自分では素直に受け入れられないのだとすれば、クライエントという属性を特段に慈悲とか(擁護ではなく)庇護の対象として特別なカテゴリーだと見なしているのではないですか?またはこころのケアという営為に対して自分に当てはめられないような価値判断を下しているのではないですか?クライエントさんと自分に違う物差しを充てがってますけどそれって対等なんですか?という屁理屈もこねられそうです。

個人化の問題

 ソーシャルアクションあるいは社会変革を志向する人たちの中には、その裡で自分の怒りを原動力としているように見える人が少なからずいます。その正当なはずの怒りをカウンセリングによって鎮めることは、ソーシャルワーカーが社会に対して負うべき責任を放棄することになりはしないだろうか。仕組みや思考の枠組みが変わっていかないといけないのに、その現状に適応することは問題や課題を補完してしまわないか?中にはそうなる人もいるかもしれません。でも自分の怒りが鎮まったところで荷降ろしされる社会への働きかけ、単に最初から主語が大きかっただけでは?と思ってしまいますね。自分の怒りを理解してもなお社会に対して何かを働きかけようと志向できたとき、怒りは目的ではなく手段になり得るとわたしは思います。怒りは大きな原動力ではありますが、そもそも目的ではなくあくまで手段ですからね。

まとめ

 以前、ソーシャルワーカーはその職業的性質から心理的に閉鎖回路になるというようなことを書きました。言い換えれば、ソーシャルワーカーは特段の要素を外挿しなければ自分自身のこころのケアが必要になる蓋然性が高いと言うことも出来そうです。こころが傷だらけなのにケアしない(されない)まま現場を去っていく同輩たちの背中を思い出しながらこの記事を書きました。
 日記を書くもよし、親しい人たちと愚痴を言い合うもよし、飲みに行くのもよし、プライベートの充実で対消滅させるもよし、訓練によって克服するもよし。こころのケアの方法は色々あると思います。そのうちの一つとして、或いは職業訓練として、カウンセリングも加え入れてみてはいかがでしょうか。

おしまい

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