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人の波に乗りゃいいっていうもんじゃない

社会人になって間もない20歳の朝は大変だ。

下手なりにノリだけはいい化粧を済ませ、朝ごはんもそこそこに家を飛び出し駅へ。そこから会社まで電車を2本乗り継ぐ。

何でもない普通の朝。普通でなかったといえば、家の一つしかないトイレがお取り込み中で電車を一本、逃してしまっただけ。

そのあたりは新入社員。いつも早めに到着するようにしているので電車一本逃したくらいはどうってことはない。


朝のJR天王寺駅大阪環状線内回り。いつものように進行方向に向かって一番後ろの車両、3番目左ドア付近を狙って飛び乗る。

一番乗のりばを定刻に発車したオレンジ色の電車の扉がシュッウっと爽快な音を立てて閉まった。そう、森のくまさんも、円広志もドアが閉まるのを教えてくれなかった頃だ。

最後尾の車両3番目左ドア付近をゲットするには理由がある。いつも同じ車両に乗ってくるいい香りのする美しい人がいるのだ。

というようなウキウキ話はない。単に下車駅でこのドアから降りると一番出口に近いというだけだった。

しかし、環状線デビューしたてペーペー小娘が、世の中の酸いも甘いも噛み分けたベテラン社会人に勝てるはずかなかったのを思い知る出来事が起こった。




電車最後尾の車両、3番目左ドア付近を狙ったまでは完璧だった。いや、左ドア脇のかなり良い立ち居地だったはずだ。ただ、この日に限って鶴橋駅で何やら大量の人が雪崩れ込んできた。そして不覚にも、あれよあれよと車両の真ん中あたりまで押し込まれてしまった。

他の路線との乗り継ぎのあるこの駅ではたまにこういう事がある。気を取り直して体勢を整える。ジリジリと人の隙間を縫ってまたドア付近にまでにじり寄る。頭を入れ、肩を入れ、膝を入れ、これが結構難しい。

努力の甲斐あって、降車駅の一つ手前である大阪城公園駅に着く頃には再びドア横50センチくらいにまで接近。やれやれ。これで大丈夫。

しかし、気を緩めたのがいけなかった。大阪城公園駅で降車する人は誰一人もなく、さらにどっと人が乗り込んで来た。

ひぃ~~~と押された瞬間にまたしてもドアから引き離される私。しかも今度は右足を浮かした状態。

次の降車駅に向けて電車は無情に発車する。

これはまずい。非常にまずい。身長156センチでは視界すら狭まって戦闘不利。緩々とにじり寄りしている場合ではない。

見ると、朝っぱらから脇の下を気前よく湿らしながらつり革に掴まっていた黒縁のおじさんも明らかに降車体勢をとり始めた。目線を下ろし鞄を胸元に抱えて背中を丸め頭から突っ込む。負けられない。

停車3秒前。

何やら辺りの人たちも身体を硬くしてドアの集中している。本日限りの1000円ポッキリお買い得ワゴンを目指すかのような殺気。ショルダーバッグが引っかからないようにしっかりと腕に抱え込み、腹に力を入れなおす。右足はまだ空を浮いたまま。

シュゥゥゥゥという音と共に停車する。

降車人たちの熱気と人の波が一塊になる。左右後方からぎゅぅぅという押しを感じる。ドアが開き、人々が動き出したと同時に浮いていた右足を踏み出し、流れに乗って外へ出た。


ふぅ~~~~っ


大きく息を吐いたのも束の間。吐き出した息を吸い込むよりも早く、またもや人の波が押し寄せた。

え!?、え!?、え!?

シュゥゥゥゥというドアが閉まる音。

何!? 
今、降りたよね? 
ホームを踏んだよね?


確かに降りた。息も吐いた。その証拠にさっきの脇の下を塗らした黒縁メガネのおじさんの後姿が遠ざかっていくホームに小さくなって消えていった。

そう、つまり、ホームに下りたまではよかったが、そのまま回転しながらまた電車の中に押し込まれてしまったのだった。

【イメージ画像】
あ~~れ~~
お代官さま、お許しくださいませ~~

お陰で、グランシャトービルを涙で見送りながら、次の駅で降車し、再び乗車し、前駅まで舞い戻るという朝っぱらからどんくさいことをする羽目になった。改札を出ずに乗り換えられたのが不幸中の幸い。




運が悪い時というのは必ず追い討ちがかかる。誰かがわざと仕掛けているとしか思えない。

ようやくオフィス到着、もちろん遅刻。朝礼も終わり、既に外回りの営業社員の半分くらいが出かけた後だった。

ソロリソロリと席につく。
と、その前にコーヒーコーナーに立ち寄って、誤魔化し素材にコーヒーを手にして席へ。

コーヒーは普通に熱く美味しそうな湯気をたてている。スティックシュガーを一本溶かし入れる。あぁ、ようやく一日が始まると、何気なく目線をやったその先。

…………????
お、お、おるやん!!!!


なんと、パーテーションで仕切られた応接スペースに、朝っぱらから気前よく脇の下を湿らせた黒縁メガネのおじさんが座っているではないか。

見たくないものを見てしまったという視線が届いてしまったのか、おじさんと目が合った。

ふふっと何やら勝ち誇ったような笑顔を向けるおじさん。
まさか、このおじさんが今日、アポイントのある取引先の人!?

コーヒーを零さなかったのが不思議なくらいに驚いた。カチンコチンと音がするようなぎこちない笑顔をつくりながらおじさんのいるパーテーションを通り過ぎた。

幸いにして、神様もそれほどイケズではなかった。おじさんは私の所属する課の取引先の人ではなく、お隣の課に新規営業にやって来た人だった。


ふぅ~~~~っ


この日、何度目かの息を吐く。
気がつくと、私の脇の下が朝っぱらから気前よく湿っていた。

若いって楽しい。

(おしまい)

波羅玖躬琉(はら・くくる) さんの記念すべき第一回個人企画#青春と人生の交差点vol.「初めての○○」に参加します。

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