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何かを同時にこなせる力より、一瞬の夢中がほしい

「なにかをしながらなにかをする」
ということが多い。むしろ、なにか1つだけのことをやっている時間の方が少ないように思う。
音楽を聴きながら勉強する、テレビを観ながらごはんを食べる、運動しながら本を読む。
生活を振り返ってみると、同時になにかをしている時間の方が圧倒的に多く、1つのことに集中したり夢中になったりしていることがほとんどない。
不思議なことに、1つのことをやろうとするときの方が気合いが要るのだ。
「よし、本を読むぞ」
「さぁ、集中してごはん作るぞ」
いつの間にか、同時に2つ以上のことを”こなす”ことに慣れてしまった。もちろんそれは、スマートフォンの普及で小さなPCがいつでも手元にあるような状況になった影響も大きいだろう。24時間365日、どこへも、だれとでも、どんなものともつながっていられるようになったのだから。

最後に夢中でなにかをやったのはいつのことだったろう。
どうして何かを”やる”ことにこんなに力が要るのだろう。

わたしの母は、食事中にテレビをつけることを許さない人だった。許さない、というよりつけないことが自然だった。
大切な人同士向き合ったり、テーブルを囲んだりしながら、その日一日の出来事など他愛もないことを話す。目を見て「おいしい」と伝える。
子供の頃の食事風景は、いまも記憶に鮮明に残っているし、兄とわたしが好きでよく作ってくれたチキンのトマト煮の味や、兄の担任がユニークな先生だったこと、母の定番の冗談もさっきのことのように温度を伴って覚えている。(当時の父は新聞社勤めでほとんど不在だったことも)

「なにかをしながらなにかをする」ことが当たり前になり、行きたい場所に最速で行く手段が増え、ボタン一つで温かいごはんが瞬時にできあがる。時間を効率的に使う方法が増える一方で、時間の足りなさを感じる思いはどんどん強くなる。皮肉だ。
でも、本当に足りていないのは時間なのか。その根本にあるのは、多くのことを同時に”こなす”ことによる充足感の欠けと記憶の不鮮明さなのではないか。(もちろん、物理的な忙しさで本当に時間がないこともあるけれど)
付き合いたての恋人のために難しい名前の料理を作ったこと、寝るのも忘れて聴きつづけた音楽、旅先の本屋で交わした会話。
それがどんなに些細なことでも、ながら感覚で”こなす”のではなく夢中になって”やった”ことならば、その瞬間は五感で思い出しつづけることができる。できることなら、モノクロームの記憶より、やわらかな色で包まれた思い出を多くもちたい。
「なにかをしながらなにかをする」ことは決して悪いことではなく、むしろ効率的に物事を行うには重要なことだろう。ただ、無意識的にそうしてしまうことは避けたい。気合いを入れなければいけない瞬間は目の前の1つのことを”やる”ときではなく、なにかを同時に”こなす”ときでありたいと思う。

オリジナルNipper 『Nipper listens to“HIS MASTER’S VOICE”』(3点セットオブジェ)
二ッパーみたいに、蓄音機の音にだけ耳を傾けるとかね。