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備忘録 宮台真司「キリスト教への理解」

UP CLOSE from JAM THE WORLD
8月22日
青木理(ゲスト:社会学者・東京都立大学教授 宮台真司)「月イチ宮台」特別企画「キリスト教徒とイスラム教」と題して、8月12日、カトリック東京教区で行われた講演を補足するものとして解説された内容より、一部要点を抜粋したもの。

※以下の文章は宮台真司による解説の必要箇所を抜き出して要点としてまとめたもので、宮台真司の語りをそのまま書き起こしたものではありません。


キリスト教の不完全性

キリスト教国側から見てイスラム教を閉鎖的で不寛容だと見なすのは明確な誤りで、それはリベラリズムの旗頭であったジョン・ロールズが1993年に自ら転向して宣言したことでもある。リベラリズムもあくまでひとつのローカリズムであり、リベラリズムに固執する限りナショナリズムになる。重要なのはコスモポリタニズムであって、良かれと思ってある集団に所属していることにお互い寛容であるべきなのだ。嫌なら出て行くことが出来るという条件付きではあるが。

キリスト教とイスラム教を比較した場合、イスラム教の方がコスモポリタニズムに近く、キリスト教のようにあちこち侵略したり布教したり戦争したりはしてこなかった。そもそもイスラム教には教義の対立がない。なぜかと言えば、ここがイスラム教の優れたところなのであるが、イスラム教徒であるということはコーランの通り生活することで、コーランはすべて具体的な善なる行いのリストである。つまり戒律宗教なのである。

ユダヤ教も戒律宗教でありそれを律法というが、ユダヤ教の戒律はイスラム教と違い、ユダヤ的な生活形式を行う者にしか踏み行えない。それはユダヤ教が民族宗教だからで、ところがイスラム教の善行リストにはそのようなものは全くと言っていいほどない。どこかの民族の生活形式を特に推奨するなどということはない。

またイスラムには政教分離がなく、イスラム法共同体がすなわちイスラム社会である。サイクス‐ピコ協定(1916)などによってキリスト教圏により無理やり国境線を引かれるようなことがなければ、イスラム法共同体は一つであった。それはキリスト教圏のように宗教法と世俗法の分離がないからで、コーランの教える善行リストに従うことが、そのまま我々の社会における法律に従うことと同じになっている。

我々は政教分離が当たり前だと思っているが、これは歴史の産物である。ローマ帝国が滅んだ後、西ローマと東ローマに分かれ、東ローマはビザンチン帝国となるのだが、ここには王がいなくて皇帝がいた。皇帝は世俗の支配者であると同時に宗教の支配者で、つまり、東ローマの伝統では政教分離はなかった。従ってなぜロシア(旧ソ連)や東ヨーロッパが社会主義化したかと言えば、この政教分離がなかったからで、善い心を持つ者、イデオロギー通りに振る舞う者が社会の階層の上になり、あるいは、善い心を持たぬ者がなりすまして上の階層にあるとの理由で疑心暗鬼から粛清されたりもする。一方、西ローマの伝統はこれと異なり、世界史で習う「カノッサの屈辱」を経て、宗教の世界はローマ教皇が主宰し、世俗の政治や法の世界を王が主宰する形に分離した。これを双つの剣と書いて「双剣論」的世界観という。

キリスト教はイエスの教説を通じてユダヤ教的律法、戒律を事実上否定したのだが、それでは代わりに何をすればよいのかが分からない状態になっている。たとえば「三位一体」のように、主なる神と神の子イエスと聖霊という、三者の関係がどうなっているのかについて大紛糾した末、同じだということを宣言してしまったのだが、今に至るまで教義の理解をめぐる合意を得てはいない。

さらにキリスト教は途中で免罪符のごとき中世的道徳主義に堕する。もともとイエスは律法は勝手に人間が作った決まりに過ぎないとして、ユダヤ教の聖職者ラビの述べていたような罪は存在しないとした。モーセの十戒もラビが言うような法に従わせるような命令ではないのだ。ところがキリスト教に限らずだが、宗教の長い伝統の中では聖職者が組織防衛のために、その社会の上層、政治権力に媚びるということが起きる。なぜそうなるかと言えば、ここが大切なのだが、イスラム教と違ってキリスト教には確定的な善行リストが書いていないからである。

イエスが律法を否定した理由は、よきサマリア人の喩えにあるように、律法に書いてあるから善行を行うのは利己であり、浅ましくさもしいという発想からである。善き行いは自分が救われたいからではなく、他者が困っていたら思わず心と身体が動くということで、それが人々にとっても望ましいし、神にとってもそうなのである。つまり、心から湧き上がるものでなければ意味がないとした。

これは尊い教えであったが、その結果、善いと思ったら何でもやっていいというような規矩のない状態になりがちで、そういう流れのなかで中世的道徳主義化も生じ、また、何が善いことかが判らないために、他者を改宗させることに過剰な情熱を燃やして、異教徒の国を侵略するような好戦性も発揮してきた。

イスラム教は一神教の流れの中では最も完成されたものである。その分、自分で考える必要がない。善行リストに従ってやればいいのだから。キリスト教はそうではなく絶えず考えることが要求される。教会の言うことを信じるだけではダメで、教会は組織防衛上、言えないことも多く持っている。そのことも含めて絶えず人と話し合い、吟味に吟味を重ねないと前に進めない。すなわちキリスト教はその不完全性ゆえに思考停止を許してくれない。これがキリスト教の良いところなのである。


付録 【原罪からイエスへの「未規定性」の移転】

宮台真司 講演 『正しさ』の不可能性と現代宗教—現代における宗教の存在意義と宗教者の役割—第二部より抜粋 以下、


キリスト教の誠実な信仰者は、原罪を贖った(人類全体から免罪した)がゆえにメシアだと称されるイエスによる、この「原罪の贖い」とは何を意味するのかを、真剣に考えざるを得ません。「贖われる」とはどんな状態をいうのか。なぜイエス一人だけが「贖う」ことができたか。

宗教とは、前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にする装置の総体です。超越的な唯一神を立てる宗教では、〈世界〉の根源的未規定性を唯一神という〈世界〉の特異点に帰属させることで、残余を規定可能化する戦略をとります。キリスト教も例外ではありません。

キリスト教においては、あまねく原罪──人知の恣意性──という根源的未規定性を、イエスという存在の根源的未規定性に移転させるやり方をします。従って、イエスという存在を規定可能化しようとする振る舞いは、必ず〈世界〉の根源的未規定性を噴出させる帰結をもたらします。

実際、原始キリスト教以降のキリスト教は、なぜイエス一人だけが「贖う」ことができたかについて、イエスの存在をどう規定するかで四分五裂します。具体的にいえば、イエスは人間なのか。それとも神それ自身なのか。はたまた神でも人間でもあるのか。精霊との関係はどうか。

単純な見取り図ですが、イエスは人間だと考えるのがネストリウス派、即ちイラク地方に拡がるアッシリア教会です。対照的にイエスは神だと考えるのが単性派、即ちエチオピア教会、エジプトのコプト教会、アルメニアのアルメニア教会、シリアとインドのヤコブ教会に当たります。

いまや全滅したものまで含めると、単性派以外に、ボゴミール派、カタリ派、パウロス派など二元論諸派もイエスを神だとします。イエスに人性のみ見出すネストリウス派も、神性のみ見出す単性派と二元論諸派も、偶像崇拝を禁じます。二元論諸派は十字架の破壊で知られています。

なぜ二元論諸派と呼ぶかというと、アポロン対ディオニッソスという初期ギリシア的二元論の影響を受けて、神と悪魔の闘争という図式を描くからです。この場合、二元図式に何をどう配置するかを巡っても宗派は分岐します。グノーシス派などは神と悪魔の善悪を逆転してしまいます。

実は上に述べた全てを合わせてもキリスト教徒の一割です。今日キリスト教徒の九割以上は、単性派を追放したカルケドン公会議(四五一年)で正統とされた、三位一体説を唱えるカルケドン派で、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教の母体になっているのはご存知の通りです。(因みにネストリウス派を異端として追放したのがエフェソス公会議(四四九年))。

三位一体説の特徴は、イエスという身体の根源的未規定性を敢えて未規定のまま残す所にあります。巷間語られる理由は分派闘争を回避するためです。カトリックにおけるフス派やカタリ派や、正教におけるボゴミール派のようなものの出現を回避するためだというふうに言われます。

宗教改革でカトリックから分岐したルター派やカルヴァン派(長老派)、英国王室とローマ教皇との確執から分岐した聖公会も、カトリックにおけるイエスの未規定性にさわらない構えを継承しますが、そこでも同じ理由──分派闘争や二元論化による弱体化の回避──が語られます。

これは間違いではありませんが、イエスを規定可能化する試みが分派を量産する理由に注目する必要があります。イエスを規定可能化しようとすると、先に述べた論理的必然性によって直ちに、原罪とは何か、贖罪とは何か、を巡る規定不能性が噴出して、収拾がつかなくなるからです。

従って、三位一体のカルケドン派の流れに立つということは、イエスの根源的未規定性を敢えて護持することで、原罪を巡る根源的未規定性ならびに贖罪を巡る根源的未規定性に関する危険な論議に、慎重にフタをするという意味合いがあります。社会システム理論はそう考えます。

以上。

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