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小説:A cures 少年と吸血鬼

※グロ・流血・差別等の描写が有ります。
閲覧は自己責任となっています。

 

少年と田舎


 昔の話は正直信じていない。
 証拠物品はやろうと思えば作れるし、話には尾びれ背びれがつく。
 教訓や戒めも同じことだ。

 

「気を付けてね」
 両親に見送られた後、僕はこうして二時間程電車に乗っている。
 長期休み、祖父の家に行くのは毎年恒例だ。しかし、今年は両親の仕事の都合で僕だけ一足先に向かうことになった。
 駅に到着し、車で迎えに来てくれた祖父に軽く挨拶をする。
 車の助手席に座って持ってきたお菓子を渡した。……家で渡せばよかったかもしれない。それでも祖父はそのしわくちゃな顔を益々しわしわに笑って見せた。
「大きくなったな」
 わしゃわしゃと僕の頭を撫でる手は相変わらず大きく感じる。祖父は撫でるのをやめ、ハンドルに手をのばした。

 祖父の家は田舎だ。
 移動手段は必ず車だし、何か食材を買いに行くだけでも車で数十分かかる。周囲は森に囲まれていて夜は鳥や虫の声しか聞こえない。
 この田舎には、電灯が少ない。ゆえに、一層闇が濃く見える。夜は怖いが、昼間はとても美しい場所だ。なぜなら、どこの家もバラ園を作っており毎日手入れをかかさない。玄関前にもバラのアーチ、なんて小洒落た家も少なくない。
「森に入っちゃいけないよ」
「分かってるって」
 運転しながら祖父は毎年恒例の言葉を口にする。
 森には人襲う害獣がいるのか、毎年遊びに行く度そう忠告を受ける。去年は森を覗いただけで通りかかった人に軽い注意を受けた。
 何をそんなに怒るのか、怯えるのか僕にはいまいちピンとこなかった。注意されるだけで具体的な説明が無いからだろう。
 理由を聞いてもただ彼らは言葉を揃えて言うのだ「森に近寄ってはいけないよ」と――……。

 祖父の家に到着し、毎度の事ながら挨拶をする前、祖母に抱きしめられる。
 学校、生活、両親の事を質問攻めにされた後、ようやく僕の部屋になる二階の個室に案内される。客用の至ってシンプルな個室。窓にはやはりバラが花瓶にいけてある。小さなベッドに荷物を置いて一息ついた。
 窓からは、入ってはいけないと言われた森が見えた。
 子供が森に入らないようにと、お手製の白い小さな柵が並んでいるが、果たして害獣に効くのだろうか。手作りの柵は今にも倒れてしまいそうだ。
 そんな道を女の子が歩いていた。
 ここは所謂、過疎化が進んでおり若い子は少ない。だから僕にはその子が目立って思える。――……いや、その恰好も田舎にそぐわない。ブラウンと白のワンピース、黒髪にはワンピースと同じ色の小さなリボンが結ばれている。そんな恰好の子が視界の端に入った。
 女の子は暫くこちらに背を向けて森を見ていた。誰か注意しないのかと思っていたが、人間の代わりに左の道から黒猫が駆けて来た。あの黒猫は、たぶん祖母の猫だ。
 猫は彼女の足に体を擦り付けそしてお行儀よく座り、何かを伝えようと口をパクパク動かした。窓を閉めているから猫が本当に鳴いているのか分からない。
 女の子はしゃがんで猫を撫でている。猫の方は甘えることもせず、ただひたすら口を動かしている。女の子は何かを話しているが、長い黒髪によって口元が隠れてしまっている。そんな事を数分、猫は満足したのかこちらに向かってくる。
「おかしな子だな」
 その光景に思わずそう呟いていた。と、ふと女の子と目が合った。
 聞こえてしまったのだろうか。驚いて身を隠すよりも先に、彼女は歩き出して行ってしまう。
 電波。という言葉を飲み込んで、僕はベッドに横になった。

 オヤツを期待しながらベッドで寝転がっていると、外の方から僕を呼ぶ声が聞こえた。
 窓から外を見れば、僕の友達であるニックがいた。黒いTシャツに青いジーパン、日頃沢山外に出居るのか日焼けしている。インドアの僕とは違い健康的な姿が眩しかった。
「来たんだってなー。おばさん達はどうしたんだよ」
「遅れてくるよ。僕だけ早めに来たんだ」
 祖母に出かけてくると告げ、僕はニックの待つ庭に向かった。彼は道中で拾ったのだろう木の枝を地面に突き刺しながら「よ」と片手を上げる。
「親から逃げてきた。進路の事で喧嘩してたから。丁度良い時に来てくれた」
 口実になったよ。と、笑う彼は僕より一つ年が上だ。けれど、幼い頃から一年に一回祖父と同じ頻度で会っているので、感覚としては親戚に近い。
「ニックは、大学に行くの?」
「いや、もう勉強はしたくねぇ。俺は車の修理工場に勤めんだよ。親戚のおじさんが誘ってくれてて、コネってやつだな。お前は、まだ一年あるから考えとけよ」
 あと一年。
 僕が大学に行く事は既に決まっている。けれど、そこは黙って頷いておいた。

 話題は尽きない。
 僕も話したい事があったし、ニックにも話したい事はあったようだった。
 この村に若い人は少ない。それに毎日、毎日、顔を合わせているから大抵の話題は、皆共通で既に知っている。
 進路の事、両親の事、大抵の子は皆街に出て行ってしまう事を聞く。ニックの進路について親が肯定的ではなく喧嘩が尽きない。親としては大学に行って欲しい。それが重くてしかたがないと彼は笑う。
 僕は、この前友達と幽霊屋敷を見つけたから冬休みに探検するという話をした。
「幽霊屋敷? アトラクション?」
「ううん、違うよ。ただの空き家。通った人が、変な声を聴いたんだって」
 幽霊屋敷探索について、僕は乗り気でない。どうしてわざわざ危ない場所に好き好んで行くのだろうか。けれど、約束をしてしまった以上、冬休みに行くのは絶対だ。
「じゃあ、冬休みにお前ン家行くわ」
 強気のニックに僕は笑った。確かに相手が幽霊じゃなくて人間だった場合、僕より体格のいい彼ならば拳の一発や二発入れる事は余裕で出来るだろう。大体彼は恐怖に対しては常に喧嘩腰で挑む節がある。
「でもさ、ここにも面白い話があるんだぜ」
 ニックがそう切り出す前に僕は誰かの視線を感じた。僕が顔を上げると祖父の玄関前に、先程窓の外から見た緑目の女の子が立っていた。
 人形のように感情の無い顔。だというのにギラギラした緑色の瞳。外にあまり出ていないのか、白すぎる肌は、その表情と相まって益々、彼女を人形のようにみせる。
 彼女はふいと顔を背け祖父の家に入って行った。
「あの子は、どこの子? 越して来たの?」
 閉ざされた玄関から目を離せないまま、僕は隣にいるニックに尋ねる。
「知らね。先週からいるみたいだけど、じいちゃんは『深く関わるな』って言ってる。名前は……なんだっけかな聞いてねぇかも」
「深く関わらない方がいいって、悪い人?」
「いやぁ、ジジィの言う事だ。『余所者には厳しく』みたいな感じだろ。ここは田舎だからそーゆー悪習が強いンだよ。『森に行くな』ってヤツもそうだ。クマも出ないのにビビってンだぜ。っだっつうのに、何が起こったかも教えてくれねぇ」
 ニックはそこまで言うと、急に俯いた。
 俯いただけでそのニヤニヤ顔は収まり切れていない。何かを驚かせようと雰囲気づくりしているようだ。 

「お前、ヘンリーおじさんを覚えてるか?」
 ニヤニヤ顔をどうにか殺しながらニックは言う。
「うん。畑いじりの好きな人だよね」
「先々週、森の付近で死んでたんだ。こっそり聞いたら頭をブン殴られてたみたいでさ。警察は、転んで頭を打ったんだって言ってるが、ここいらでは『森にやられた』って言ってんだ」
 死。森にやられた。
 その単語から急に現実離れした気分になった。
 ヘンリーおじさんは知っている。去年、僕がこっそり森を覗こうとした際に注意してきた人だ。畑の作物が一部荒らされていて怒っていたのを覚えている。
「『また』だって言ってるヤツもいるから、これが初めてじゃねぇんだ。そこで丁度お前が来たから一緒に調べようぜって話でさ。勿論、乗ってくれるよな」
 何も言わずに頷いた。
 危ないとは思うが、好奇心に勝てそうにはない。原因を知りたいだけ、森に入る訳ではない。原因さえ知ってしまえば、これからは絶対、森へは近づかないだろう。
 怖い話をしている筈なのに、僕の反応に気を良くしたニックは破顔する。
「オヤジが酔い潰れた時、問い詰めてみた。何で森に行っちゃいけないのか、そうしたら『吸血鬼がいる』って言ったんだよ」
 思いがけない言葉に、僕は馬鹿みたいにその単語を繰り返す。
 絵本や小説の中に存在する仮想の生き物ではないのだろうか。けれど、ニックは大真面目に話を続ける。
「オヤジも詳しく知らないんだと。なんぜひいじいちゃんの時の話らしくて」
 噂には尾ひれ背びれがつくものだから。とか、大袈裟になってるだけだよ。等という言葉を飲み込みながら僕も彼に合わせて頷いて見せる。
「ここのバラだってそうだ。みんなバラばっか育てる、家を囲うようにさ。吸血鬼。それが森の答えだ」
「証拠は? まさか話だけでは信じてないよね」
 ニックは大真面目に頷いて、使い古した鞄から古い手帳を取り出した。
「倉庫から見つけてきた。ひいじいちゃんの日記。……ここ」
 そういいながらぺらぺらと紙をめくり一文を指さす。インクの滲み、保管状態が悪かったのか本の日焼け、水による汚損のせいで滲んで文字が読めない。

 ――化け物がいる。
 そして二ページ後の一文をさす。
 ――かの醜く末恐ろしい化け物は魔女裁判のように磔刑に処し火で炙った。
 何枚か破れたページが続き、そして十ページ後。
 ――犠牲者がまた出てしまった。柵を、バラを……。

「吸血鬼を退治しに行くの?」
 僕の問いにニックは手帳を鞄に戻すと、森と村とを隔てる柵によりかかった。頼りない柵は今にも倒れそうに斜めになる。
「やってはみたいけど、吸血鬼って殺せるか? ちょっと調べたけど杭だの銀の弾丸だのあって準備でき……」
「止めた方がいいんじゃない?」
 ニックの言葉を遮る声があった。後ろから聞こえた声に僕たちは驚いて振り返る。悪い事をしているという自覚でもあったのか、僕の心臓は止まりかけた。
 そこに居たのは、祖母の家に行った筈の緑色の目をした女の子だ。
 女の子はやはり無表情のまま「ケガしたくないでしょ」と一言。ニックが言い返す前に踵を返して颯爽とその場を立ち去ってしまった。
「ムカつく女だな」
 ニックはそう吐き捨てるように言うが、それでもなんとなく不気味なのか彼女を追おうとはしない。
 ふと、いつの間にか僕の足元には黒い猫がいた。猫は責め立てるような金色の目で僕をじっと見つめ、そして一言鳴いた。

 夕食。僕は今日会った事を祖父に相談するか悩んだが、結局話せずに終わってしまった。
 元々、森の正体を教えて貰えない立場なのに「教えて貰えない事が不服なので勝手に調べています」なんて言ってしまったら怒られる事は間違いない。
 気が重いままシャワーを浴びてベッドに潜る。
 携帯を確認すれば『無事に到着? お母さんも早くそっちに行きたいな』というメールが届いており実家にいる犬の写真も添付されていた。携帯が気になるのか犬はカメラぎりぎりに近づいていて鼻面のアップで体が見えない。
 それを見て僕は安堵する。長距離移動に少し現実離れした怖い話を聞いて疲れていたのかもしれない。
 寝る前に開けっ放しの窓を閉めようと近寄った。草でも刈ったのか外の空気は青臭い。深呼吸をしようとした僕は、外にいる女の子と目があい、驚きのあまりむせてしまった。
 グリーンガーネットのように輝くその不気味な瞳が僕を射る。
 反射的に僕は階段を駆けおり、話すネタなんて無いのに彼女の元に走って行っていた。既にいないと思っていたが、彼女はどうやら待っていてくれたようだ。
「こんばんは」
 僕がそう言うと、女の子は突然頭をガクッと下げた。テレビで見た事がある、ニホンの『エシャク』というものだ。けれど、こんな突然されるとは思わなかった。まるで頭が落ちてしまいそうに見えた。それ程、彼女には生気が感じられない。
「あなたも森に行きたいの?」
 厳しい口調の女の子だが、僕はその言葉に疑問を持った。
「あなたもって事は、ニックは外に出ようとした?」
 僕の問いかけに彼女は何も答えず頷く。
「吸血鬼が危ないって? なのに、どうして君は外に――……」
「知ってどうしたいの?」
 僕が言い終わる前に彼女は問い返した。
「知っておきたいだけ。どうしてここに来たの?」
「私は呼ばれたの。――……ごめんね、ありがとう」
 急に女の子がしゃがんで謝る先に僕はいない。代わりにいたのは祖母の黒猫だった。「その猫、君の?」
 探りを入れる質問に彼女は首を横に振った。
「違う。ここの飼い猫」
「昼間もその猫に話しかけてたよね。猫と会話でも出来るの?」
「私はもう寝るから、あなたは家に帰って」
 猫を撫でていた彼女は、すっと立ち上がる。馬鹿にした訳ではないけれど、やはり怒ってしまっただろうか。
「家まで送るよ」
「いらない。今の時期、昼間でも森の近くに行かない方がいいと思う」
「吸血鬼に襲われるから?」
「その通り。おやすみ」
 僕は何か質問をと考えたが、咎めるような緑の目に怖じ気づき家へ戻る事にした。黒猫も一緒に招き入れ、そして窓を覗き込む勇気もなくベッドに横になる。
 このまますんなり寝られる訳にもいかず、携帯で吸血鬼について検索してみる。血を吸う、人を襲う。だけれど、ここで実際起きた事は後頭部を殴り、それでいて老人の血を吸う吸血鬼だ。大抵、犠牲になるのは若い女性の血だと聞く為あまりしっくりこない。
「名前、聞くの忘れた」
 携帯を置き、部屋の明かりを消しながら僕は呟いた。
 目を閉じて僕はあの子を思い出す。人形のような顔、緑の瞳。そういえばあの子と話をしている時、なんだかとても居心地が悪かった。
『私は呼ばれたの。――ごめんね、ありがとう』
 彼女は確かにそう言っていた。
 この田舎に一人で呼ばれる用事などあるのか、映画でいうようなヴァンパイアハンターか。そんな非現実的な事が果たしてそう簡単にあるのだろうか。
 妄想が妄想を呼び収拾がつかないまま僕はいつの間にかすっかり眠ってしまっていた。

 爽やかな朝ではなかった。
 というのも、朝一番、祖母に叩き起こされたからである。僕が「どうしたの」と聞く前に祖母はわんわんと泣きながら僕をきつく抱きしめる。あまりの勢いに一瞬呼吸の仕方を忘れる。
 散々泣いた祖母は、ようやく理由を語るが感情的で言葉が言葉になっていない。
 寝起きの回らない頭でどうにか慰め続けて、ようやく祖母が泣くのをやめた。
 赤い目を擦りながらニックが行方不明になったのだと教えてくれるまで相当な時間がかかったと思う。
「何か連絡は受けていない?」
 問われるがままに携帯を見れば、ニックからメールが来ていた。
 送信時間は夜。丁度僕が女の子と話をしていた頃のようだ。

〈あの女うぜぇ――!!!! 親父にチクりやがった。お前チクッたのかよ!〉

「駄目だったか」
 僕の携帯を見た緑目の女の子が溜め息交じりに呟いた。
 僕がニックの家に行った時、すでに彼女は部屋の中にいた。理不尽に彼女を責める人たちと「仕方ない」と宥める人たちが彼女を囲い場は混沌と化している。
 そんな状況下でも、彼女は相変わらずたいした反応すら見せず立っている。ショック、という訳では無さそうだ。何せ彼女の顔に表情がない。昨日も変わりなくお人形のような無表情と、爛々と輝く緑色の瞳があるだけだ。
 暫くの口論の後、家人は埒が明かないと大袈裟に肩をすくめて他の人が集めるリビングへと向かった。家人を落ち着かせる為に誰かが淹れたのだろう紅茶の良い香りが部屋に漂う。
 隙を見て僕は女の子に話があると声をかけた。家の中では説明し難いという僕の言葉を素直に聞いてくれて、こうして二人、庭で携帯を見ている。
 庭と言っても家の裏、日光で携帯の画面が見難いという事で日陰に身を寄せ合っている。
「やっぱり吸血鬼退治しに行ったのかな?」
「そうかも。森付近に彼の携帯が落ちてたから」
 携帯ありがとう、と僕に携帯を返してくれながら彼女はようやくそれらしい回答をしてくれる。携帯を受け取る際に触れた彼女の手はヒンヤリと冷たい。
 最初は人形だなんて冗談交じりに思っていたけれど、段々彼女が本当に人間か怪しくなってきた。
「君は森に行くの?」
「連絡するところに連絡してから」
 彼女はそう答えるが、とても声が小さかった。僕に言おうとした訳ではなさそうだ。
「危ないよ」
「平気。あなたは自分の事を心配して。目をつけられたら困る」
 誰に? と聞こうとした同タイミングで女の子はニックの母親に呼ばれてしまった。呼ばれた、というよりは声をかけるよりも早く彼女は振り返っていたと思う。それがなんだかとても不自然に思えて仕方なかった。

 祖父の家へ歩く途中、僕は居心地の悪さに襲われていた。
 誰かが僕を見ている、そんな気分だ。振り返ってみても後ろにあるのは相変わらずの田舎道、僕の右隣には森を隔てた白い柵がある。
 恐ろしい話を聞いたから、そしてニックが森に行ったことにより怖さに過敏になっているのだろう。それでも、足を止めると、パタ……と1つ遅れて足音がやんだ。
「誰かいるんですか?」
 振り返ろうとした瞬間、僕の目の前に星が散る。頭に鈍い痛みが走って、そのまま視界が真っ暗になった。
 誰か立っている。そんな気配がなんとなく伝わった。

 

少年と吸血鬼 

 体全身が痛かった。
 特に頭、何かで殴られたのか分からないが、ジクジクと痛みは止まない。
 ゆっくりと目を開けば、まず視界に入ったのは灰色の天井。地面に手をつけば、ヒンヤリと冷たい。触れたそれは土ではなくコンクリート。という事は、今僕は、コンクリートで出来た室内にいる。
 痛みに歯を食い縛りながら起き上がる。グワングワンと鳴る頭を抑えて周囲を見れば、捕まったのだと確信した。というのもここは単なる部屋ではない。
 全体こそ大きな四角いコンクリートで出来た部屋だが、僕の前には檻がある。並ぶ鉄棒の先には扉がある。しかし、当然のことながら鍵穴がある為、確認しなくとも施錠されているだろう。
 牢屋、と表現するのが適切だった。
 慌てて助けを呼ぼうと思いポケットから携帯を出そうとするが、外部との連絡を絶つ為かそれは無くなっていた。捕まったのだから当然の事か。
 部屋に照明はなく小さな窓から漏れる太陽光だけが頼りだった。ただ、その窓も逃げられないようにする為か木板で乱雑に塞がれている。
 窓に近寄ろうとした。けれど、後ろに引っ張られ僕は危うく転びかける。動かない右足を見れば、荒縄が牢である鉄の棒と僕とを繋いでいる。
 縄を解こうと弄るが、縛られた箇所はピクリとも動かない。簡単には解けないように何度も何度も固結びをされている。
 僕の他にも囚われていたのだろう、檻には切られた縄の残骸があった。切られているのならば、切る為に使った道具がそこらに落ちていないのだろうか。
 周囲を見渡すが、それらしい物は無い。捕まえられた側ではなく、捕まえた側がここから出す際に切っているのだろう。
 ココから出られないのだろうか。悲観にくれていると、陽光にキラリと何かが反射した。
 飛び付くようにその光に触れれば、小さなガラスの破片が落ちている。
 僕が使う前の人は不器用だったのか、それともそれ程に急いでいたのか。ガラスで指を切ってしまったのだろう、血痕が点々と床に落ちていた。
 血から目を離せないまま僕は縄を切る。ゴリゴリとガラスを押し付けてようやく縄がブツリと切れた。
 痛む足に疑問を感じ、ズボンをまくれば、縄と手の跡がくっきりと残っている。縛る際に足を押さえたのか、余程縄がきつく縛られていたのだろう。僕の足は赤く浮腫んでいる。
 僕の後に誰か捕まってしまったら……。
 不穏な事を考えたくはないが、ガラス片はあった場所に置く。きっと僕の前に来た人もそうしたのだろう。
 血痕は転々と移動し、最も暗がりにある奥の壁で不自然に途切れている。床と天井はコンクリートだったがここの壁はいやに脆い。木の板が何枚も立てかけられており、どれも血で汚れている。恐る恐る板を退けて壁を押せば、パタンと音と立ててほんの一部だけだったが壁が倒れた。
 大人では通れないが、僕ならば通れそうだ。匍匐前進で僕はその穴を通る。まるで脱出ゲームだな、なんて思ってしまうのは現実逃避をしたいからかもしれない。
 どうにかこうにか隣の部屋に来てみれば、そこも埃まみれの部屋だった。牢でないだけいいと思う。
 倒れた壁を直しながら僕は一呼吸置いた。
 まだ心臓がドキドキと忙しなく鳴っている。思えば祖父の家に来てからずっと驚いてばかりだ。そして、今本当に危ないのかもしれない。
「忠告、聞いてればよかったなぁ」
 自分の声は情けなく震え、暗い部屋に吸い込まれていく。

 あの牢から出たらすぐに誰かと合流出来る。あの壁の先は外で、すぐに逃げられる。そんな甘い事を考えていた自分に心底ガッカリする。
 数分、実際には数秒だろか。絶望で動けなかった。それでも、少しずつここから出なければいけないという気持ちに駆られる。
 ここはまだ牢でないだけいい、状況的に見て一歩は前進した筈だ。
 手掛かりになる血痕や形跡はないのだろうかと、床に這いつくばって探してみる。けれど、血痕はここで途切れていた為、脱出のヒントとしてわざと血を出してくれたようだ。と、同時にここからは自分で考えなければいけないのかと気落ちする。
 この部屋は太陽光すら差し込まない。
 窓には全て遮光カーテンが閉められていた。そのカーテンの前には棚が置かれ、何が何でも暗さを保持したいという気持ちが見えた。女性が使うような家具はどれも埃が積もっていて使われた形跡はない。
 安心したくて窓に近寄り棚によって隠れきれてない遮光カーテンを少しだけ捲る。それだけで日光が差し込んできた。背伸びをして外を見る。ここは地下なのか僕の目線で丁度地面と人の足が見えた。
 人の足――……。
 それは、もしかしたら吸血鬼かもしれない。けれど、履き潰された白いスポーツシューズには見覚えがある。どうにか上を見ようと体制を変えて再度覗き込む。
 そこにいたのは、失踪したニックだった。
 夜中に出かけたといっても彼はパジャマ姿でない。森に入るというていで夏場だというのにあの長袖長ズボンなのだろう。そんな外着を見てメールの内容を思い出す、怒っていたとはいえ本当に一人で単独行動をするとは思わなかった。
 ニックの格好はボロボロで腕は怪我したのだろう、既に血にまみれている。その血の量から見るに、森に入って誤って枝で、葉で、皮膚を切ってしまったという訳ではなさそうだ。僕と同じくここに住んでいる吸血鬼に襲われたのだろう。
 彼はブツブツと何かを言っているようだ。が、あまりにも小声で聞き取れない。声をかけようにも僕がいるのは地下、彼よりも近い距離で吸血鬼に聞かれてしまっては堪らない。僕は逃げる場所も分からないし、ここでは袋の鼠なのだ。
 どうしたものかと考え込む僕を他所に、彼はこちらに気がつく様子もなく頼りない足取りでどこかへ行ってしまった。
 あんな状態でいたら危ない、追わなければいけない。
 反射的に部屋を出ようと扉を開ければ、ありがたい事に鍵はかかっていない。だが、ギイと軋む音が廊下に響いてしまった。
 体が凍りつく。
 僕が逃げたという事が分かってしまう。しかし、今せっかく出られた部屋に再度隠れてやり過ごすなんて事は出来なかった。
 音を立てないように細心の注意を払いながら廊下を走る。
 人はいない、ただ床は時折血で汚れ、気持ち悪さをより一層引き立たせていた。ヒントとして残してくれたぽたぽたと垂れる血とは違う、明確に血を流す《何か》を引きずった痕は決して一つではない。
 周囲を警戒しながらも、僕は隣の部屋に身を滑らせた。

 どうしてその部屋を開けてしまったのだろう。人間、本当に驚くと声は出なくなるようだ。そこは死体安置所だった。
 入り口から見える限り死体は最低でも四つ。二段ベッドにそれぞれ裸の死体が置かれており、どれも冷え切っている。冷え切っているというよりは凍っていると表現した方がいい。
 夏場だから腐臭を防ぐ為か、冷房が必要以上に効いている。その二台稼働してある冷房の強さは、この部屋に来たばかりの僕の体温も高速に奪っていった。これで死体を凍らせているのか。
 何故凍らせる必要があるのか。それ程まで新鮮な血を吸いたいのだろうか。……そうかもしれない、ここに居るのは吸血鬼だ。
 異様な光景に体が、脳が強い拒絶を示した。しゃがんで吐き気を堪える。僕もこうなってしまうのだろうかという、不安と絶望が胸や心臓、そして脳、全身を巡る。
 森に来るなという言葉は本当だった。どうして、何故僕がこんな事に……。そう悲観に暮れていると、突然近い場所から扉が閉まる音が聞こえた。
 見つかるかもしれない、そんな恐怖に駆られて半ばパニックで通路を走る。
 あの部屋はなんなんだ? 何の為に置いてある。どうしてその二つ隣に牢屋があって生きている僕をしまったのだろう。
 転げそうになりながら僕は階段を駆け上がる。混乱の中、誰とも会わず一階に出る事が出来たのは、日頃の行いが良かったせいか。
 一階に上がりすぐ陰に隠れて、呼吸を整える。怖さに歯の根が合わない。自分を抱きしめるようにしながらしゃがみ泣くまいと堪えるが、それでも急激に視界が歪み頬を伝うのは涙だろう。
 泣いている暇なんてない。どうにかニックと一緒にここから逃げなければいけない。シャツで涙を拭い僕は深呼吸する。
 死体安置所で聞こえた足音はまだ遠かったかのように思える。ニックは外にいたから彼ではない。一階についた、という事は玄関さえ分かればここから逃げる事は可能だ。
 心配性の祖母が僕が居なくなった事により僕以上に混乱しているだろう。早く戻って安心させてあげなければ。
 足音を殺しながら、まっすぐ進むと広い部屋の真ん中に少女が立っていた。少女はぼんやりした様子で一枚の肖像画を見ている。
 老婆を思わせる白髪は、ボサボサの長髪もあって亡霊に見えた。彼女はずっと逃げ回っていたのか着ている黄色のTシャツもズボンも汚れている。どちらの衣服も大きいせいでその女の子を益々小さく見せていた。
 彼女が一心に見つめている肖像画には何やら男性の絵が描かれている。ここの家具はどれも埃まみれ、埃が被っていない物は乱雑な扱いの物が多かった。が、その画だけは綺麗に飾られていた。
 少女は僕に気がつくと、人懐こい笑みを見せてこちらに寄ってくる。
「外は危ないのよ。マリアと一緒にいよ?」
 場違いの笑顔、場違いの発言。マリア――……この子も犠牲者なのだろうか。
 恐怖に逃げ出す事も出来なかった僕はよせばいいのに頷いてしまった。
 外は危ない。というのは吸血鬼の事だろうか。服の汚れ、髪の汚れ、不清潔な体臭。この子の捕まっていた時間は長いだろう。
 どうして今もなお無事かは分からないが、その代償に心が壊れてしまっているように思える。言葉も言動もたどたどしい。
「僕の他にも人がいるんだ」
「そうなの? マリアは今起きたから分かんなかった」
「ここは危ないよ。君は逃げないの?」
「守ってくれるよ」
 マリアは僕の腕を掴む。白い今にも折れてしまいそうな細い腕小さい手。そして彼女は人のいう事を一切聞かず、僕の手を強引に引っ張って走り出した。

 4

 周囲を用心もせず、マリアは走り出す。
 そんな彼女の足には靴が履かれていない、すでに足の裏は真っ黒に汚れている。彼女は勢いよく一階に存在するその内の一室に入るが、そこには誰も居なかった。
「いない」
 落胆する彼女とは反対に僕は安堵する。誰も居なくてとてもいい、居ては困る。
 彼女がいないと落胆するという事は、普段ここに誰か居るのだろうか。けれど、その人物が僕たちにとって良いのか、悪いのか、この少女からは結論付けられない。
 僕は今すぐマリアを放っておいて速く走って逃げたいのだが、この幼児退行した少女の機嫌を損ねて大泣きされては困る。ニックも探さなければいけない。
「ここには、誰がいるの? 君は知ってる?」
 マリアはとても困ったような顔を浮かべるので僕は慌てて止める。
「いいよ。僕も混乱してるから。外に出よう」
「危ないよ」
 と、マリアは大きな赤い瞳を不安げに揺らしながら呟く。
「そうだね」
 それなりのフォローを入れた時、マリアは初めて怯えの顔をみせた。その視線の先は僕ではない。僕の先の何かを見ている。
 マリアは小さく悲鳴を上げ、弾かれたかのように走り出してしまった。
 僕も彼女を追いかけようと思ったが、ふと後ろから足音が聞こえて総毛立った。重たいゆっくりとした足音は、そしてピタリとやんだ。
「ニック?」
 そうであって欲しかった。僕は恐る恐る振り返って、そして何故もっと早く逃げなかったのだろうと酷く後悔した。
 そこにいたのは、決して僕の友達なんかではなかった。僕より遥かに大きい男、けして筋肉質ではないその肥満体は身長こそないのに恐怖と重なって益々彼を巨人に見せている。
 大きな汚れた手には切れ味の悪そうな錆れた大きな包丁。黒の長靴に汚れて血の色が判断つかないエプロン。
 肉屋。豚や牛を解体するような作業員――……そんな言葉が最初に出て来た。
 男の目は焦点が合っていない、トロンとした優しい目だがその瞳はどこか違う所を映している。
 男はいたずらっ子のように繰り返し笑いながら、それでいて一体誰に言っているのだろう。あぶない、あぶないと何度もその単語を繰り返し、そして贅肉を揺らしながらこちらに向かってくる。夢うつつな幸せそうな顔で、一体何を考えているのだろう。
 
 死ぬ。
 
 殺される。
 
 直感した。
 どこに逃げればいいのかも分からないのに僕は駆け出していた。マリアが怯えて逃げ出したのもこの男を見たからだ。
 あれが吸血鬼? 僕には狂った殺人鬼のようにしか見えない。吸血鬼が包丁……多分、あれは肉切り包丁だ――を何故持つ必要があるのだろうか?
 混乱する僕を馬鹿にするかのように、クスクスと笑い声が後ろから追ってくる。一体何が面白いのか。僕が混乱しているのがよほど滑稽なのか、それともこの状況に楽しんでいるのか。
 あまりの気持ち悪さに怒鳴り散らしたくなった。いや、泣き叫びたくも思うのはこの短時間で精神が尋常じゃなく削られているからだろう。
 それでもがむしゃらに走っていると不意に腕を誰かに掴まれ、そして強引に部屋に引きずり込まれた。

 

少年と魔女

 

 何者かに腕を引っ張られ、僕は今度こそ死を覚悟した。
 悲鳴の一つでもあげれば良かったのだが、もうそんな声も出ない。僕は引っ張られた勢いに負け、部屋の中に放り込まれ、その場でヘタリとしゃがみこんだ。
「静かにして」
 僕の腕を引っ張った人物がぴしゃりと言う。
 その声の主には覚えがある。顔を見たいが、いつ殺人鬼に見つかるか分からない恐怖に支配された僕は、通路側すら見る事は出来ない。それ以前に情けない事だが、腰が抜けている。
「あぶない あぶないよ なんじ? なんじですか?」
 誰に問うでもない、陽気な声が段々と近くなってくる。緊張、恐怖で心臓はバクバクと五月蝿い。こんなにも五月蠅かったら、きっとすぐに見つかってしまう。

 永遠とも感じる時間の末、殺人鬼が階段を使う音が聞こえた。
「もう大丈夫」
 僕の腕を引っ張ったのはやはり緑目の女の子だった。
 許可はあるのだろうか、手には拳銃が握られている。どうしてこんな場所でそんな物を持っているのだろうか。落ちていたのを拾ったにしては、あまりに都合が良すぎる。

 ――……吸血鬼を退治しに行くの?
 ――……やってはみたいけれど、吸血鬼って殺せるか? 少し調べたけれど、杭だの銀の弾丸だのあって準備でき……。

 銃を見ながら僕はニックとの会話を思い出す。
 吸血鬼は銀の弾丸で殺す事が出来る。もしそれが本当ならばこの女の子も僕の友人と同じように吸血鬼を殺す為にここに来ているのだろうか。
「コレは護身用。従兄弟がくれたの。発砲許可は貰ってる。アレは吸血鬼じゃないけど、危険なのに変わりはないから」
 銃から目が離せない僕に気が付いたのか、彼女はそう言って銃をベルトに挟んだ。護身用に従兄弟が銃を女の子に渡す? それも気になったが、他にも問うべき箇所がある。
「やっぱり殺人鬼、だよね」
 僕には、あの重度肥満の男が吸血鬼だとは思えなかった。
 まず吸血鬼の存在自体曖昧に思えているのにあの外見で吸血鬼と言われても納得出来ない。そして、どうしてもイメージしにくいのはそのおかしな言動だろう。
「殺人鬼じゃなくて。食人鬼、かな。鍋の中にあったから」
 緑目の子は、さらっとえげつない事を言い部屋の奥へ行く。僕も扉の近くにいたくないので彼女について行った。
 映画等で率先して動く事が多いのは大抵男だが、はたして今後、僕が率先して前に行ける事はあるのだろうか。彼女の方が遥かに勇敢だ。
 緑目の子は昨日とは違い黒いゴシックのスカートで頭には赤いバラの髪飾りを付けている。それでいてベルトには銃があるのだから、吸血鬼と同様現実味を帯びていない。
 鍋の中に何が入っていたの? と、聞くのは自分の精神衛生上やめ「怖くないの?」と代わりに問う。
「驚きはした。それより怖い物は見てるし」
 彼女はそう言いながら本棚の本を適当に読んではペラペラとめくって戻している。人が入っているであろう鍋を見てそれよりも怖い物を見ている?
「君は吸血鬼ハンター?」
「違う。でも、いずれやるんだと思う」
 今は違う、という訳か。
「君が呼ばれたのは、この殺人鬼をどうにかするため?」
「お喋り好き?」
 冷たい。あきらかに拒絶の色が混じった返事に僕は言葉を失う。
 一瞬、沈黙に包まれる。
 その沈黙が再び恐怖を呼び、僕は懸命に言葉を探す。安心が欲しいから話をしていたいのだが、この女の子は決してそうではないらしい。
「……そうかも。だって分からないよりは分かった方が良いから。……だって、君は僕の事を知ってるのに僕は君の事を知らないから」
 それらしい会話を繋げる事が出来たのと、ようやく彼女がこちらを向いてくれたことに再び安堵した僕は次の言葉を探す。
「ケイ」
 彼女は突き放すように言葉を紡いだ。まさかちゃんと答えてくれるとは思わなかった。僕は面食らう。
 今まですぐに会話が終わるように短い言葉を彼女は使っていた。質問にも曖昧に応えていた。だから、今つなげられる言葉は、一瞬都合のいい僕の幻聴かとも思えた。
「私の名前はケイ・アッシュホード。それで満足?」
 ケイ、それが彼女の名前。僕は言葉に出さず、忘れないように繰り返す。こんな状況下で名前を忘れて助け損ねた、助かり損なったなんてなりたくない。
「うん、ありがとう。それで、えっと……」
「今後どうすればいいか、でしょう? 逃げれば良いと思う。私は『無謀で勇敢なあなたの友達』を助けなくちゃいけないから」
 言葉の選び方に気を付けている間も彼女は口早に応える。嫌味は置いて僕の友人という事はニックの事だろう。
 ケイの表情こそ変わらないが嫌味が増えた分、忠告を聞かなかったことに対して不満があるようだった。当然か、ニックの両親は数分の間も彼女を激しく問いただしていた。
「何か手伝えない?」
「足手纏い。前に言った。役に立ちたいなら、すぐにこの場所から出て行って。人に安全な姿を見せた方が良い」
 言葉一つ一つが早口で攻撃的に思える。それに、僕の話が終わる前に彼女は話し出すからどうしても会話が円滑に出来ない。それでも、この状況下ではありがたい会話に思えた。
「ここにいるのは、吸血鬼じゃないってことも伝えて、だよね」
「吸血鬼だよ」
 ケイは読んでいた本をパタンと閉じて答えた。その弾みに本に積もる埃が舞った。が、彼女は表情すら変えない。表情筋が死んでいる。そのその言葉は彼女を指すのだろう。
「あの人達にとって、ここに住むのは吸血鬼。だから、あんな懸命になってバラで身を守ってる」
「でも、君は「吸血鬼じゃない」って、さっき言ったよね」
「本当は違う。だけど、作り上げられてしまったなら、吸血鬼に変わらない」
「僕は一般人だから、もっと分かり易く言ってくれると助かるんだけど」
 本質を言ってくれないケイの話方に嫌気を覚え、思わずきつい口調で問う。それでも彼女は、驚きも大きな反応も見せず、ただ伏し目がちに応えた。
「確証がまだ無いの、証拠も少ない。だから言えない。証拠を集めたいけど一緒に行動はしたくない、リスクが大きいから」
 遠くで悲鳴が上がった。反射的に走り出そうとする僕をケイが止める。
「罠かもしれない。私がここを出て二分たったら逃げて」
 彼女は再び銃を抜くと扉の方に行く。僕が止めるよりも先にそうして彼女は果敢にも廊下に飛び出し走って行ってしまった。

 二分。
 携帯も、腕時計も無い、それでいて恐怖に支配されている中で数える二分。それはとても難しい話だった。
「三六、三十七、三十八」
 足音が聞こえないか耳を澄ませながら、それでいて脳内では数を数える。
 逃げる前に聞こえた悲鳴は、ニックだったのかもしれない。最悪の事を考えれば、殺人鬼はあの男はだけではないだろう。
「三十九、四十、四十一」
 ケイは確かに「吸血鬼ではない」と言ったのに突然「吸血鬼である」とも言っていたのも気になる。
 作られた吸血鬼というのは、一体なんだろうか。フランケンシュタインのように、人工的に作られたのならば「吸血鬼ではある」けれど、純粋な者ではない。しかし、それはあまりにも非現実的だ。
 いや、まず吸血鬼がいると考えている時点で、僕の頭は既におかしいのかもしれない。
「四十二、四十二、四十三……四十一……」
 マリアは無事なのか。あの細すぎる体でちゃんと逃げ切る事が出来るのだろうか、でも、もしあそこで誘拐されていたのならば、祖母は僕が来ることを止めるはずだ。
 そうだ、こんなにおかしい話があるのだから普通は孫を歓迎しないだろう。皆グルなのだとしたら? 他所から人を呼んで犠牲にしていたのならば?
 いや、それはない。
 あんなに必死にバラばかりを育て、それでいて森に近寄ろうとするのならば注意をしてくる。それでは矛盾してしまう。混乱で頭痛さえしてくる頭を抑えながら僕は二分までの永遠とも思える数字を呟く。
「四十五、四十七、五十一……」
 そういえば、ケイは何を読んでいたのだろう。
 僕はソロソロと音を立てないよう、再度部屋の奥に戻り本棚を見た。
 ケイが読んでいた本は、他の本とは違い埃が払われていたので簡単に見つける事が出来た。何かの詩集だろうか。厚めの本にはリアルで可愛げの無い白黒の挿絵が載っている。ページをペラペラと捲っていると、ヒラリと何かが落ちた。
 落ちた紙を捲ってみれば、それは古い写真だった。
 スカートを穿いている被写体が一人……女性だろう。ただ、被写体の顔はズタズタに裂かれており、顔は全く分からない。
 写真の裏を見れば、約九十年前の日付が記載されている。
 ここにいるのが食人鬼、だとして殺しの理由は怨恨だろうか。けれど、写真の裏に書かれていた日付はとうの昔のもので、あの食人鬼がこの被写体の子供、ではなさそうだ。
 不意に銃声が響いた。
「ケイ!」
 僕は数を数えるのもケイの忠告をも忘れ、本を投げ捨てて廊下に飛び出した。

 食人鬼の姿は、見えない。
 第一、あんな体格であんな独り言が大きかったらすぐに分かる。周囲に気を付けるという事よりも遥かにケイが心配だった。
 銃は持ってもやはり成人男性とまだ十代女性の力の差は大きい。彼女も僕と同じくらい危険なのは変わらない。
 廊下を歩くと階段が見える。さっきマリアとはぐれた僕は、いつの間にか二階に駆け上がっていたようだった。となると、ケイと一緒に部屋に隠れていた時に聞こえた、ドタドタと階段を使う足音は食人鬼が階段を下りるために使ったと予想出来る。
 一階に下りようとした手前で今度はマリアを見つけた。
 銃声に驚いたのだろう。元々白い肌をより一層青白くさせ、彼女は自分の腕で自分を抱きしめている。それでもガタガタと体が震えている辺り、心身とも限界なのが見て取れた。
「大丈夫」
 そう宥める。マリアはコクコクと頷く。必死に落ち着こうとしているのだろう。たどたどしい僕の言葉に耳を貸している。
 マリアの震えが収まった頃合いを見て、僕たちはこっそり階段を下りようとした。
 ザリザリと嫌な音がした、何かを引きずる、そんな音だ。
「あぶないよ。もり、もりにおにげ、おにげ。おにげ」
 例の独り言とドスンドスンという足音が下から聞こえる。血の気が引いた。
「マリア、僕の後ろにいて。見ちゃダメだよ」
 階段の手摺りに隠れて下を見る。独り言と足音、そして何かを引きずる音はちょうど真下だ。
「なんじ、なんじ。あぶない」
 変わらない先程と同じようなエプロン、黒いゴム長靴、風呂に入っていないのだろう。体臭が汗の匂いと混じり悪臭を放っている。その食人鬼は、人の足を掴んでいた。足を持たれた誰かは抵抗も見せず、ただただズリズリと引きずられている。
 それは血に汚れたニックだった、
 ニックはまだ生きているのか、胸元は少し動いている。ぼんやりとした目で僕を捉えると何かを話たげに口を動かしている。

 ――……ここにいるのは、殺人鬼?
 ――……食人鬼、の方が近いかな。

 頭痛。吐き気。
 僕は、耐えられなかった。
 口を押さえ、呼吸を整えようと何度も深く息を吸う。その度、悪臭が鼻と喉を焼き益々吐き気を催した。
「どうしたの?」
 覗いたマリアは僕の制止もきかず彼らを見、悲鳴をあげた。食人鬼はこちらを見るとぼんやりとした顔を輝かせた。
「まいあちゃん!」
 舌っ足らずで上手に発音出来ていない。男の興味対象が変わったのだろう。もう口すら動かさないニックを乱暴に放り投げて、ドタドタとこちらに走ってくる。
「逃げて!」
 僕は震えるマリアの腕を掴み、強引に走り出した。

 息が切れるまで走る、走る、走る。
 マリアは泣きながら必死に僕についてくる。赤い瞳には、今にもこぼれそうな涙が溜まっている。きっと視界が涙で歪んで見難いだろう。僕もついさっき体験済みだ。
 縺れる足で一生懸命走るのは、僕も同じ。
 日頃の運動不足、過度の緊張、理由ならいくらでもある。
 それでも二階のいずれかの部屋に逃げ込み扉の後ろに隠れるまで、僕たちは一度も振り返りもしなかったし、転びもしなかった。
「アレは、なに?」
「分からない。でも、良くない人、だと思う」
 ここで殺人鬼、食人鬼それでいて吸血鬼だよ等と言ったらマリアは絶対に泣くだろう。今もこんなにガチガチと歯を鳴らし僕の腕に抱きついてくる。
「パパ、パパを呼ばなくちゃ」
「遠いよ。僕も呼べるなら呼びたい。携帯、持ってる? 僕、捨てられちゃったみたいで」
 マリアは首を横に振る。やはり被害者は皆連絡手段を絶たれている。
 
 ――――ドォン。
 
 発砲音でこそない。が、再び大きな音が響く。
 その音でパニックになったのは、僕の隣にいるマリアだけではない。廊下に、恐らく近くにいたのだろう。あの食人鬼の混乱した声が廊下に響き渡った。支離滅裂で何を言っているのか……。けれど、困惑して怒鳴っているのは分かる。
 おうおう。と、何かを立て続けにあがる叫び声。発砲音がした場所へと駆ける騒がしい足音
「ケイが危ない!」
 声には出すけれど、マリアに腕を捕まれる。
「行かないで。パパが来るから」
「ねぇ、聞いて」
 僕はその場にしゃがみマリアの肩を掴む。マリアは思った以上に不健康に痩せていて、今にも肩が折れてしまいそうだ。
「僕たちは捕まったんだよ。逃げないと、ここには誰も来ない。分かるだろう? 森に行っちゃダメって言われてるから」
「そんな事ない!」
 マリアは涙も拭かず僕の手を払いのけた。その勢いに気圧されて僕はただ驚いて彼女を見張る。
「迎えに来てくれる! 今は夜だから寝てるだけ!」
 マリアはそう叫ぶと僕の静止も聞かず走って行ってしまった。
「夜中?」
 僕は遮光カーテンの隙間から差し込む日の光を見ながら呟く。その強さから丁度昼頃だ。

 ――……僕の他にも人がいるんだ。
 ――……そうなの? マリアは今起きたから分かんなかった。

 

少年と真実 

 どうして目前に走る女の子に追いつけないのだろう。
 マリアは部屋の構造を知っているのか、スルスルと走る。簡単に僕は彼女を見失った。
 あの大きな独り言も聞こえなくなり、僕は一番近くにあった部屋に逃げ込む。そこの部屋、真ん中に一つ人影が見えた。大きさから見るにあの食人鬼では無いらしい。
「逃げないの?」
 冷ややかな声。相手は怯えの表情一つ見せない。相変わらず人形のような顔。何かあったのだろうその洋服は汚れて見えた。
 僕は声の主の名を呼ぶが、ケイは返事の一つもせず、ただただ僕を見ている。何も語らないが、その緑目が怒っているのだろうか、僕を見透かすかのように爛々と不気味に輝いている。
「あと一人生存者がいて……」
 僕の言い訳がましい言葉に、ケイは「白髪の子?」と応える。
「知ってるの?」
「うん。……助けたいと思うならそれは間違い。助ける必要は無いと思う」
「どうして?」
 僕は思わず言葉強く彼女に聞いた。
 あまりにも冷たいケイの姿勢にカッと頭に血が上る。
 助ける必要がない? こんな状況下でよくもそんな非情な事が言えるのだろう。それでいて何も表情を見せない。ニックを助けるとか言いながら彼女は何もしなかった。
 ニックがああなっても彼女はこんな風に黙って見ていたのだろうか。その化け物のように光る緑目できっと今のように冷ややかに、僕の友達が死ぬ直前まで……。そう思うと益々胃の中がグラグラしてきた。
「君はどうしてココにいるんだ? 助けるとか言いながら何もしていないじゃないか。それに何も教えてくれない。僕がこうなってるのを笑ってるのか?」
 嗚呼、これではニックの両親と何が違うのだろうか。追われている事さえも忘れて僕は自分を抑える事も出来ず、こうも惨めに感情を爆発させる。
「吸血鬼がいると言われた。私は、真相解明を依頼されたの」
 駄々っ子のように文句を言っていると、ケイが静かに応えた。
 感情を爆発させている僕と、何も反応を見せないケイ。言っても無駄だ、自分がとても馬鹿らしく思える。
「でも、君はヴァンパイアハンターではないし、ここの吸血鬼は、吸血鬼であってそうじゃないんだろ? 僕の疑問はそこじゃない。君は何者かって事だよ。曖昧に応えてばかりで混乱させたいのか?」
 あまりに強いヒステリックな言い方に自分で驚く。ケイは真直ぐ僕を見たまま「魔女」とだけ、今にも消え入りそうな声で言った。
「は? 魔女?」
 今度こそ僕は落ち着いた。というか、呆れすぎて思わず言葉を繰り返すしかない。
「魔女の集会に入ってる。私はその一人」
 ケイは相変わらずの無表情で答える。
「だから呼ばれたの? 危険な事を君に? 君は呪いでも出来るの?」
「呪いは法律で禁止されてる。けど、それ相応の力は持っているつもり。詳しくは言えない。仲良くないし」
 ケイは吐き捨てるようにそう言って、しかも「仲良くない」をわざわざ強調しながら部屋の奥に向かった。
「あの子は、ここから逃げた。外に出られると思う」
 そう言いながら壁にかかっていた布を捲れば、そこには小さな扉があった。
「ニックさんは、残念だと……申し訳ないと思ってる。だから、一人でも助けたい。助けを呼んだから私たちは逃げるだけ」
「君も逃げるの?」
「そう。これは管轄外だから。真相が知りたいなら歩きながらでも教える」
 だから、と扉を開け僕を招くケイを断る事は出来なかった。

 その古くて薄い扉の先は相変わらずの暗闇、一歩入れば異臭が鼻を突いた。
 既に暗闇には慣れている、足元を見ればネズミや虫の死骸がそこらに転がっていた。初夏、死骸の腐敗速度も速いだろう。
「抜け道……?」
「こうした道を使って密会した、と言われてる」
 ケイは僕の後に抜け道に入ると、音をしないように細心の注意を払いながら扉を閉めている。扉を閉めても先程いた場所と然程変わらない暗闇が僕たち二人を包み込んだ。
「じゃあ、ここの吸血鬼って何?」
「可哀想な人、の末裔、かな。三人、親子で住んでる。あなたは、そのうちの二人を見たはず。あの大きな男と、そして白髪の子。もう一人は見ていないと思う。私が部屋に閉じ込めたから」
「閉じ込めたの?」
 ギョッとして振り返れば、ケイはやはり無表情だった。もう無表情に関しては気にもしていないけれど、その外見とは真逆の行動にはやはり僕は驚かされた。
 
 ――……呪いは法律で禁止されている。けど、それ相応の力は持っているつもり。

 確かにそうは言っていたけれど……。
「昔はね、偏見が強かった。魔女だってただの疑心で沢山の女性が火をくべられ犠牲になった。魔女は今でも呪い殺すだの祟るだの言うけど、本来は誰かを幸せにし、その知識で体を治すような事をしてた。人に会うのが苦手だから少し離れた所で住んでる。たったそれだけの理由で魔女と呼ばれる。今でいうインドアなのに。それでいて色で人間を判断するんだから酷い話だよね」
 僕はただ黙って彼女の説明に耳を傾ける。
「【先天性白皮症】を知ってる?」
 僕は首を横に振る。
「通称アルビノ。メラニン色素の欠乏で生まれつき髪も肌も白い人の事を指す。瞳孔も毛細血管が透けて見えるから赤目に見える。紫外線にとても弱いの、肌だけではなく視界もそう。少しの光でも眩しいと感じてしまうみたい」
 白い肌、白い髪、赤い目。僕はそれに該当する人物を知っている。
「マリア?」
 僕はそう言われて思い出す。

 ――……部屋に照明はなく小さな窓から漏れる太陽光だけが頼りだった。ただ、その窓も逃げられないようにする為か木板で乱雑に塞がれている。
 ――……この部屋は太陽光すら差し込まない。窓には全て遮光カーテンが閉められていた。そのカーテンの前には棚が置かれ、何が何でも暗さを保持したいという気持ちが見えた。

 牢屋、そして牢屋から出てずっと僕は太陽の光を少ししか見ていない。見る事が出来たとしても、遮光カーテンの隙間、ほんの少し差し込んだものだ。
「アルビノはその美しさから神格に扱われる。差別も受ける場合だってある。変わらない人間なのにね。……そう、それは昔々の話。あなたの友達が誇らしげに見せた日記が書かれた頃」
 ケイはそう言って声を低くボソボソと話し始めた。

「昔々、あの村に一組の家族が引っ越してきた。両親はとても明るく面白い友好的な人だったけれど、一人娘は部屋から出る事も、人との交流すらも頑なにしなかった。その娘は老婆のように白髪で赤紫の瞳を持っていた。それだけではなくて、太陽光を嫌い、外に出るのは決まって雨か夜だった。
 住人たちは、そんな彼女を吸血鬼と言い出した。きっと最初は『悪魔憑き』や『魔女』だったかもしれない。とにかく、そんな理不尽な理由であそこの住人は、その一家を襲った。娘だけは、森に逃げた事が出来たけれど……」
「そんな事って……」
 思わず話を中断してしまう僕にケイは怒りもせず僕の代わりに「最低な行為ね」と続けてくれる。そして、彼女は一呼吸すると再び話をし始めた。
「閉鎖的で、思考に偏りのある場所で、一人だけ理解者がいた。あなたのお友達、……ひいおじいさんおじいさんの兄弟。弟か兄かは分からない。だけど、彼は彼女を追いかけた。恋人だったみたい、既に彼女は身籠もっていたようだったから。
 きっとその男性は誰にも言わずに彼女を追いかけたのね。村は「吸血鬼に攫われた」とパニックになった。男性を改心させる為、詮索し強引に連れ戻し教会に軟禁した。心配で見に来た女性を捕まえて磔刑に、日光の元魔女のように火で焼いた。男性はすれ違いに森へ帰って行った」
 そんな事があっていいのだろうか。同じ人間なのに、どうしてそんな酷い事が出来たのだろうか。言葉に詰まる僕を無視してケイは続ける。
「その女性は捕まる前に既に子供を産んでいた。その女の子は、男性がここの家に匿い育て上げる。食べる為に村の作物を荒らした中で、人に目撃され殺した。それだけじゃない、証拠隠滅を図って森に引きずり込み死体を隠した。それが森に殺された最初の被害」

 ――……お前、ヘンリーおじさんを覚えているか?
 ニヤニヤ顔をどうにか殺しながらニックは言う。
 ――……うん。畑いじりの好きな人だよね」
 ――……先々週、森の付近で死んでたんだ。こっそり聞いたら頭をブン殴られてたみたいでさ。警察は、転んで頭を打ったんだって言ってるが、ここいらでは『森にやられた』って言ってんだ。
 ヘンリーおじさんは知っている。去年、僕がこっそり森を覗こうとした際に注意してきた人だ。畑の作物が一部荒らされていて怒っていたのを覚えている。
 ――『また』だって言ってるヤツもいるから、これが初めてじゃねぇんだ。

 酷い頭痛がする。それは決してここの湿気と気温や異臭からではない。
「村人は吸血鬼がまだ生きていると思い込み、恐怖のあまり吸血鬼が苦手とするバラを育て始める。……人間にバラの囲いを、塀を作っても意味がないのにね。
 その男性は恋人を火炙りにした主犯、そして彼女を捕まえた人を殺していった。冷害があって作物が荒らせなくなった時、森に隠していた死体に手を出した。人を食べたのね。そのせいで彼らは殺人鬼じゃなくて食人鬼にもなってしまった」
 目前に、上から差し込む日光が見えた。
 暫くの無言、その間歩き続ければようやく外に出られた。やはりここの道にも血は、死体を引きずった様はこうもくっきりと残っている。古い扉を開けて僕たちは家から少し離れた森に出た。
「アルビノの女性が産んだ子は、女の子だった。偶然ここに探索した人間と恋に落ち、そして子供を宿すけれど、父親に見つかり男性は殺される。
 女の子は知らないまま、親の言いつけを守って彼の迎えを待っていた、そして産んだ男の子を二人が育て、繰り返す。その頃には既に人肉を食べるのが普通になっていたのかもしれない。村の人間をあまり襲わないのは足がつくからね。
 学がついて村の人たちも外部には漏らせない恥だと事件はここまで隠される」
 再び沈黙が僕たちを包む。あまりにも酷くむごい話に何と言えばいいか分からない。それでも僕はこの静けさを畏れて尋ねてしまう。
「あの大男は?」
「人食いと近親婚の繰り返しで生まれた子。あなたかあなたのお友達はマリアのお婿さんでしょうね」
 もう我慢が出来なかった。
 気持ち悪さに僕は地面に膝をつき吐くのを堪える。それでも、空の筈の胃が締め付けられ、涎が口から垂れていく。気持ち悪い、それしか言葉が出てこない。
「彼らは確かに理不尽に追い詰められた、けど、これはあまりにも酷い。彼らは法で裁かれるべきだし、彼らを追い詰めた人たちはそれを恥だと知らさないと」
 ケイはそう言ってしゃがむとポケットから白いハンカチを貸してくれた。僕はそれを受け取りはしたが、どうしても汚してしまう申し訳ない気持ちが邪魔をして口を押さえる事は出来ない。
「立てる?」
 ケイの問いに僕は首を横に振る。彼女は恐怖の為に震える情けない僕の両足に気が付いたのだろう、僕の背中をポンと叩いた。突然、足の震えが止まる。
 手を引かれ、僕はすんなり立つ事が出来る。気持ち悪さこそ抜けてはいないが、動けるだけでもありがたい。どうして急に立てるようになったのか、僕にはさっぱり分からない。
「魔法?」
「全部魔法にしないで」
 ケイが初めて冗談っぽくそう言った時、怒号が、そして僕とケイのすぐ隣で大きなノコギリが振り落とされた。目を血走らせフーフーと荒く呼吸をする、おそらく三人目の食人鬼だろう、そんな中年の男が立っていた。
「先に逃げて」
 ケイは僕を押して男との間に立つとベルトに挟んだ銃を抜く。そして銃口を空に向けると引き金を引いた。
「合図。助けはすぐそこまで来てる。私はちゃんと話をした、信頼してくれるでしょう?」
 迷いはあった。置き去りにしていいのだろうか、被害者であるマリアの事も心配だった。けれど、意志強い緑の目に気圧され僕は頷いて走り出した。
 走り出した先すぐあの大きな男が立っていた。男は、涙や鼻水で汚れている顔を益々クシャリと憤怒に歪め、そして僕に向けて包丁を振りかぶる。
「おにいちゃん!」
 と、同時に僕の元へ、丁度僕と大男の間に入るように、現状に気が付いていないであろう笑顔のマリアが割って入った。

 それは一瞬の出来事だった。
 恐怖のあまり笑いそうになる。今、自分がどんな顔をし、彼女を見ているのか分からない。男の一撃はマリアの肩に直撃し、彼女は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
 飛び込んできたマリアの表情は笑顔からそして不意に背後からきた強烈な痛みに驚き、そして苦痛に歪み、大きな瞳から涙が零れる、そんな一連の動きを僕は目の前で見るしかなかった。
 ドサリと彼女が倒れたあと悲鳴は2つあがった。痛みに泣き叫ぶマリアと、彼女を間違って傷つけてしまった大きな男。
 二人は同じように困惑しながら「どうして。どうして」と同じ台詞を吐く、片方は耐え難い痛みに、片方は予期せぬ出来事に。僕は素早くマリアの手をとり、逃げようと促したが彼女は痛いと叫ぶだけで動こうともしない。
 大男は頭を抑え唸り、不可解な言葉を何度も何度も繰り返している。
「マリア!」
 僕の背後で銃声が一つ、緊張した空気を裂く。
 その音に男は今度こそパニックに陥ったのだろう。ヨタヨタと後退し、そして弾けたように森の中を走りだしてしまう。
「マリア!」
 泣き叫ぶマリアの白い肌が血で赤に染まっていく。
 照り付ける夏の日差しが彼女の肌を焼いていく。日光に弱く普段から外に出ていないであろうその肌はより敏感に太陽の日差しを受け取ってしまう。
「マリア!」
 こう何度も彼女を呼ぶのは、彼女を宥める為か、自分か落ち着きたいのか分からない。名前を幾度となく呼びながら、涙で歪む視界の中僕は止血を試みる。
 Tシャツの裾を引きちぎろうとするが、ひ弱な僕の力では手が赤くなるだけでシャツは裂けそうにない。恐怖もあるのだろう、手も、足もこんなに情けなく震えている。
「パパ」
 マリアは泣きながらようやく一つの言葉を発した。涙で、汗で、鼻水でグシャグシャの顔のまま彼女は一点を見つける。
 その先には、ケイが足止めしていた筈の中年の男が立っていた。
 呼吸が荒いのは、撃たれたのだろう。足を引きずりながら僕たちに近寄る。土で汚れた手には、しっかりとノコギリが握られている。
 彼は僕とマリアを見比べ、そして思ったのだろう。僕が彼女をここまで傷つけたのだろうと。
 雄叫びが、森に響く。
 相当怒り狂っているのだろう、目は血走り、歯を食い縛りすぎたのか、口からは血が、ツバと共に吐き出される。
 僕の隣でマリアが怯えた目で父親を見ている。けれど、彼は気が付かない。もはや言語など無くしたかのように男は叫び、怒りを露わに突進し――……。

 再度、銃声が響いた。
「ケイ?」
 一拍遅れて、どうと男が前のめりに倒れる。横から頭を撃たれたらしく破壊された脳がボタボタと散っていく。
 吐き気を堪えながらも音がした方を見る。
 そこにいたのはケイではなくFBIのジャケットを着た男だった。当然といえば当然だが、男はこの惨状の中一つも動揺も、恐怖も見せることなく「見つけた。救護班を」と僕たちを見据えたまま、おそらく後ろに仲間がいるのだろう声をかける。
 男は緩やかな斜面にでも身軽におり、僕とマリアの元にくる。
 ケイと同じような緑目の男は、負傷でもしたのか片目は眼帯に覆われている。そして、この白髪は――けれど、うっすら茶色が見えるあたりマリアと同じではないのだろう。素人ながらも現実逃避としてそんな余計な事を考える。
「あなたが……。ケイが呼んだ……?」
 ケイは確か助けを呼んでくると言っていたし、拳銃で場所を知らせもしていた。だが、男は一瞬だけ困ったような顔をし、その後すぐに「あぁ、それが俺だ。……ノア・アッシュホードだ」と付け加えた。
 あの躊躇いは、どういう意味だろうか……。それに同じアッシュホードという事は身内なのだろうか、と考えあぐねている僕をよそに、その男は意識の無いマリアの脈を確認している。
 この短時間でも彼女の出血は酷かった。黄色の汚れたシャツが見る見るうちに赤く汚れ、そして黒ずんでいく。
 すぐに救護班が駆けつけ、男の代わりにマリアの様態を見ている。彼女は助かるのだろうかと顔を窺っているが、どうも分からない。
「あの子は……、ケイはいるか?」
 不意に声をかけられ僕の意識は、マリアからアッシュホードさんに移った。それは僕も聞きたい、あの男が生きているのにケイがいないという事は……。
「います」
 息を切らせながらケイが駆けてくる。
 服はボロボロ、髪はボサボサだったが、どこも怪我はしていないようだった。アッシュホードさんは、すぐケイに駆け寄り何かを話した後、他の救護班を呼んでいる。
「どこか痛みは?」
「無いです。……マリアは?」
 救護班に声をかけられながら、僕は動かないマリアを見る。担架を持ってきて運ぼうとしているが、山道に四苦八苦しているようだった。
「死んだ、の……?」
 僕の問いにきっと何か答えてくれたのだろう。けれど、周囲の音が、声がすべて他人ごとに、まるで違う世界のようにぼんやりと霞んで、そして視界も徐々に暗くなっていく。
 気絶するんだ、とボクは知る。
 狭い視界の中、アッシュホードという姓を持つ彼、彼女の緑色の目が僕を捉えていた。

 引き取り先のないマリアの死体は誰も来ないような場所に葬られたという。
 マリアに重傷を負わせ逃げた大男は酷く錯乱しており、駆けつけた特殊捜査官に襲い掛かり警告後規定通り射殺。
 彼らの住み処を探索すれば、冷凍保存された人間の死体と食べる為加工された人肉、そして骨が大量に転がっていた。
 三世代にわたり食人を続けていた。被害は多い。狙っていたのは浮浪者だった為、今まで通報も行方不明も扱われることは無かった……ということだ。
「通報はあったかもしれないのにね」
 マリアの墓に見立てた簡素で粗末な木の十字架を前に僕は隣にいるケイに言う。
 あれから僕は気絶し、翌日、目が覚めた。
 祖母の号泣と警官の質問攻めに半日を費やした。ケイが帰るというので、適当に理由を付け、こうして二人きり話す時間を設けてもらった。
「『かも』の話して楽しい?」
 相変わらず食いつくようにケイが言う。正論だが一々彼女の言葉は心に刺さる。
「マリアは……、最後まで被害者だったんだね」
「世間が全部ハッピーエンドで終わるわけじゃない、と思う。理不尽だってあるし」
 言葉を選んでいてくれているのだろう。ポツリポツリと言葉を紡いでいく。
「魔女の人たちに説明するの?」
「いいえ。魔法の要素は無かったから」
「僕たち、また……」
「もう会わないと思う。そっちの方がお互い良い筈でしょう?」
 冷たい言葉だった。けれど、ケイとまた会うというのは、こういった事件絡みでしか逢えないのだろう。彼女は僕が理解したのを確認するかのように見た後、クルリと背を向けた。
「帰る。ヘリを待たせているの」
 視線の先にはヘリが一機とケイと同じ緑目で隻眼の男性が立っている。
 アッシュホードさんは僕を見て一度エシャクをするとケイに向かって何やら話しかけ背中を叩かれていた。轟音と強い風と共にケイを乗せたヘリは空にあがっていく。

「理不尽か」
 僕は十字架に触れる。マリアの先祖が追いやられたのも、僕が、ニックが襲われたのも突然であまりにも理不尽だった。
 十字架を撫でる僕の指に痛みが走る。見ればトゲが刺さっていた。みるみるうちに血はぷっくりと玉をつくり、そして玉は崩壊され、血は指を伝う。
 この痛みは、血の温かさは僕が生きていると教えてくれる。
 致命傷を負った時のマリアの表情が忘れられない。
 彼女もきっと、まだ生きていたかっただろう。もし、彼女が生きていたら……。
 その気持ちが、僕の心の隅に残り、そしてそれが半年後怪奇を引き起こす原因となる。何てこと、僕はまだ知らなかった。

END

 

番外編 魔女


  1

 黒猫が、金色の目を輝かせて私に問いかける。
 その猫は悲しそうにも怒っているようにも思えた。いくら手で払っても逃げようとはしない。最後のお別れでもしたいのか、そう思って私は棺の蓋を開ける。
 その遺体の顔は、本来写真で隠されていた。それがどうして今外されているのか、幼い私には分からなかった。
 ――その顔は、体は……。

 吸血鬼がいると依頼されてこうして来たけれど、まさかこんなに聞き込みが必要だとは思わなかった。それにココの人達は、私に依頼したにもかかわらずとても非協力的である。
 この村には外部に漏らしたくない事が共通して存在する。
 それは昔の事で尚且つ特定の人、もしくは祖父母と一緒に暮らしている人のみにしか伝えられていない。ココに越して来た人はまず理由さえも教えて貰えず、そして気味が悪いとまた村を出ていく。
 私に依頼をしたくせにここの連中はそれが何かすら教えてくれない。
『話をしても無駄だ』
 息子が行方不明になって尚、この人たちは沈黙を守る。いや、この人たちも教えて貰っていないのだろうか。
「どうして」
「話をしても無駄だ」
 思わず漏れた私の声に、神経質な声が返ってくる。
『何もないと言っているだろう』
 答えは分かっているけれど、やはりどうしても口が動いてしまう。いや、口を動かすから視えるこの結果なのだろう。
「何故?」
「何もないと言っているだろう」
「教えて貰わないと解決は出来ません」
 大方の人は私の話し方が気にくわないとすぐに腹を立てる。
『大丈夫なの? 危ないわ』
 気を付けてはいるけれど、声は同じなのだから仕方がない。
「大丈夫なの。危ないわ」
「いいです。私、行ってきます」
『でも、女の子よね』
「でも、女の子よね」
「呼んだのはあなたたちです」
 私はこの五月蠅すぎる空間から逃げ出した。
 声が、動きが、気配が全て五月蠅い。視たくもないのにこの両目が視てしまう。
 森に入ろうとし、ズリズリと何かを引きずる音に私は身を隠した。この音が本来なるのはもう少し先だけれど、身の安全の確保が大事だ。
 そして規定通り、その音は聞こえ。少年を引きずる大柄な男の姿があった。巨体、低身長ではあるが結構な肥満だ。息を荒げ少年を背負い、ようやっとといった具合で柵を乗り越え森の中に消えていく。あの少年は確かロイといったか、私の忠告を聞かなかったのだろう。
「吸血鬼、にしてはイメージがだいぶ違うけど」
 吸血鬼避けとしてつけてきたバラのヘアアクセサリーも十字架のネックレスも、もしかしたら必要ないかもしれない。そう思いながら私は後を追った。

 2

 気付かれないように細心の注意を払いながら吸血鬼(には決して見えない)を追いかける事数十分。川を越えた辺りで漸く目的の場所が見えた。
 家にしてはとても豪華だが、屋敷としてはやや小さい。石造りの簡素な家がそこにはあった。一見ボロで荒れているようには見える。が、玄関だろう扉の前には申し訳程度に植木鉢が置かれている。
 私は許可が無いと入れない吸血鬼ではない、堂々とその正面から入る事が出来る。ただ、招かれてはいないから玄関からは入れない。
 手が、ベルトに挟んだ銃に触れる。借り物という事もあるが、出来れば使いたくはない。人の死は恐ろしい、しかもそれが予期せぬものならば猶更。
 どこから入ろうか周囲を警戒しうろついていると、幾つかある窓のうちの1つ厚いカーテンが風に揺れているのに気が付いた。どうやら窓が開いているようだ。
 周囲を警戒しながら中に入る。部屋の中は薄暗く、今の所音はしない。
 棚、本棚、本には厚い埃が積もっている辺り益々私の中で存在する吸血鬼のイメージから遠のいていく。ただたんに私が、ファンタジー小説の読み過ぎかもしれないけれど。
 そっと扉から廊下を覗けば、右奥に階段が見えた。上ってもいいけれど鉢合わせになるのは避けたい。悩んでいると左手側から物音が聞こえた。ノシノシと体重のある歩き方は多分あの吸血鬼まがいの男だ。
 銃を抜き、扉のすぐ後ろに隠れる。この部屋に入ったら、すぐに私が出ればいい、それでも危なくなってしまったら……。けれど、足音は私を通過して遠のき、地下があるのだろう。階段を使う音が聞こえた。
 深呼吸をする。まるでかくれんぼか鬼ゴッコだ。笑えたものではない。それでいて攫われた二人も助けなければいけないのだから、益々難しい。
 この部屋にあるのはとても古い手製のようだ。そろそろと廊下を抜けて耳を澄ませる。先程とは違う足音が聞こえる。それに、すぐに見える景色にはあの傲慢で忠告を聞かないニックと呼ばれた男性が来る筈だ。
 彼は無謀ともいえる勇敢さで森には入ったが、きっとすぐ彼に捕まったのだろう。その証拠に、彼の格好はボロボロで不安に揺れた瞳が私をとらえてさっと恐怖に変わった。
「あなたを探しに来た。逃げて」
 私の一言に彼は恐怖から怒りに表情を変える。大股でこちらに来て胸倉を掴んでくるあたり、まだ元気はあるようだ。今に至るまで一睡も出来なかったのだろう、血走らせた目がギョロリと動いている。
「てめぇがもっと早くどうにかしてればよかったんだ」
「どうにかってどうすればよかったの? 手がかりである日記も見せない、忠告すら聞いてくれなかった」
 事実を伝えればニック項垂れて私を掴む手を放した。怒鳴る元気はあるが、相当疲れていたのか手に力は込められていなかった。
 お蔭で息が詰まる事は無かったし、痛くも何ともない。ただお気に入りのリボンがクシャクシャになってしまったけれど。
「アレは何なんだ。これからどうすればいい?」
「まだ分からないけど、何かしたいなら逃げて。私はあなたの友達を助けなくちゃいけない」
 ニックは顔を青ざめる、よくもまぁこんなにコロコロと表情を変えられるものだ。私は彼を見習った方がいいかもしれない。
「ロイが……。こいつら、死体を保存してるんだ。俺は見たんだ……血を吸うためか? 冷凍保存してあった。俺もあぁなるのか?」
「断言は出来ないけど、生かされはしないと思う。だから先に逃げて。今度こそ私の言う事を聞いてくれる?」
 ニックは小さく頷いた。当然か、ここで駄々をこねても状況は悪化するばかりだから。呆然とする彼の手を引き先程入ってきた窓の開いた部屋に案内する。彼がのそのそと緩慢な動作で出て行くのを確認してから私は再度屋敷の中に入った。

 3

「冷凍保存された死体、ね」
 そう呟きながら、今度は違う部屋に入る。冷凍保存された死体がある、もしそれが儀式として使われるのならば私を呼んで正解だったかもしれない。
 入った部屋は食堂だろうか、冷蔵庫こそなかったけれど台所と思わしき空間だった。右側の壁には流し、ガスコンロ、それに置かれた鍋がある。けれど、こうして違和感を持たせるのは部屋の中央に置かれた大きな木製のテーブルに置かれたものだった。金づち、杭、そしてのこぎりが置かれ、どれも汚く錆びている。
 ガスコンロの上に置かれた、大きくもない鍋もやはり扱いは乱雑なのだろう、底は真っ黒く焦げている。鍋に手を近づければ、まだほんのりと暖かい。何を温めていたのだろうと蓋を開ければ悪臭が鼻腔をついた。
 赤。
 鍋の中には赤いスープが入っている。そこに大小様々に浮いているのは決して美味しい物ではない。爪さえも剥がされていない数本の人の指が具材として鍋に放り込まれていた。他に浮いているのは、舌だろうか。
 眩暈に、嫌悪にクラクラしながら蓋を閉める。
「いつの間に、吸血鬼は手の込んだ料理をするようになったの?」
 冗談を言うのは気を紛らわせる為だ。人肉を見て吐きをしないのは既にこの光景を『視ている』。
  改めてこの力をありがたいと思えた。死体は儀式ではない、食べる為だ。ゴミ箱を覗けば肉をそぎ落とされた骨が転がっている。

 ――……一番怖いのは人間よね。

 昔、母が葬式で呟いた言葉がフラッシュバックした。鯨幕が目を疲れさせる中、ふと聞こえたのがその冷たい言葉だった。
 まだ包帯の取れない従兄弟は、憎悪を孕んだ緑色の目で葬儀に犯人が来ていないか見定めている。嫌な記憶だ、思い出したくもない。首を振って私は今の事に専念する。冷凍保存された死体を確認しなければいけない、きっとあるのは地下だろう。
 通路を戻っていると、人影が見えた。白い、老婆のような髪色に心臓が痛くなる。けれど、そこにいたのは痩せこけた少女だった。少女はこの暗闇のせいだろう、壁に手をつきながらフラフラと歩いている。
 大丈夫、と私が声をかける前に、その少女は壁に飾られていた肖像画を見上げた。その顔に恐怖の色は見えない。血を吸ったような赤い瞳が、やけに気になった。
 声をかけるのはまだよそう。彼女に見つからないように後ろの階段を使う。
「外は危ないのよ。マリアと一緒にいよ?」
 声が聞こえて私は足を止めた。身を隠しながらも声の主は先程の白髪の少女だろうと検討する。そろそろと階段を下りて様子を窺う。
「僕の他にも人がいるんだ」
「そうなの? マリアは今起きたから分かんなかった」
「ここは危ないよ。君は逃げないの?」
「守ってくれるよ」
 もう一つ聞こえる声に私は聞き覚えがある。先程、携帯を見せてくれた後あの肥満児に連れていかれた少年。ロイ、で間違いないと思う。けれど、会話は悲鳴でかき消された。
 二人の視線の先にはあの肥満の男がいる。見つかったのだろう。ロイは泣きそうな顔でこちらに向かって走ってくる、それを追いかけて男もドタドタと足音を鳴らしながら追いかける。
 私は二階に駆け上がる。真ん中の部屋に入り、そして少し遅れてやって来たロイの腕を強引に引っ張った。

 4

 誰に問うでもない陽気な声が段々と近くなってくる。銃を使う準備は出来ている、いつでも引き金を引ける。けれど、足音は階段を使い下に降りて行ったようだった。
 情けなく腰を抜かしているロイに出来る限り優しく「もう大丈夫」と立たせてあげても、彼は恐怖に顔を強張らせたまま、私が持つ銃ばかりを見ている。
「これは護身用。従兄弟がくれたの。発砲許可は貰ってる。あれは吸血鬼じゃないけど、危険なのに変わりはないから」
「やっぱり殺人鬼、だよね」
「殺人鬼じゃなくて。食人鬼、かな。鍋の中にあったから」
「怖くないの?」
 いちいち聞いてくるあたり、元気になったのだろう。流石に鬱陶しく思える。
「驚きはした。それより怖い物は見てるし」
 出来るだけ会話を短く切りながら私は本棚の本を調べる。
 何かの詩集だろうか。厚めの本にはリアルで可愛げのない白黒の挿絵がのっている。本の間には古い写真がしおりの代わりに挟めてあった。
 スカートを穿いている被写体が一人……女性だ。ただ、被写体の顔はズタズタに裂かれており顔は全く分からない。それでもやけに肌は白く思えた。
 写真の裏を見れば約九十年前の日付が記載されている。この被写体はきっと先程の日記の持ち主でありアルビノの女性だろう。九十年前まだ偏見や差別は強い、いや今もだろうか。
 考えている私を他所に、逃げる気配も、協力する気も無い質問好きの少年が執拗に話を持ち掛けてくる。適当に名乗れば彼は微笑んで礼を言うあたり、ちょろい、お人好しの男だなと思った。
 こんな状況でどうして本名を言う必要があるのだろうか、多分そんな事も考えないだろう。これはビジネスの関係だ。それでいて何も出来ないのに紳士ぶるから余計に疲れてくる。こうして聞こえる悲鳴にも、反射的に走り出そうとするのだから益々。
「罠かもしれない。私がここを出て二分たったら逃げて」
 私は銃を抜くと廊下を走り出した。時計も無いのに指定の時間を待て、というのは厳しかっただろうか。
 駆けつけると、あの肥満の男がニックを殴っていた。執拗に腹を殴りながらそれでいて笑っている。咄嗟に近くへ転がっていた花瓶を掴む。私と、彼らと逆の方向に投げて注意を引けば、案の定、男はハッとした顔で音の方に走っていった。けれど、肝心のニックは私が駆け寄るよりも先に森の中に入っていく。
 もう大丈夫だろう。私は近くの部屋に入り扉を閉めた。他の部屋とは違い、鍵がかけられるようで、そっと後手で鍵をかける。
 誰かの寝室だろうか。ベッドに机。その机の上に本が数冊。どれも汚れて今にも本のページが割れてしまいそうだ。
 そんなに時間はかけていられない。後ろから流し読みをしているが、それはあまりにも簡単だった。
『彼との子は私が守らなくちゃいけないけど、でも、どうしても彼を一目見たい』
『私の髪は白く、目は血のように赤い。私の肌は太陽を嫌い、外に出れば焼けてしまう。それこそ吸血鬼のように』
『私が何をしたの?』
 白髪、赤目の女性は子供を産んでいる。村人に恐怖の対象とおいやられ、家族を殺され村に恋人と一緒に逃げ込んでいる。彼を一目見たい、そんな文章が終わっているところを見るとどうやら捕まって二度とここには戻れなかったようだ。
 髪が白く目が赤い、私はそれが何故かを知っている。あの少女を見て1つ仮定をたてていた。
 ガタンと、背後で物音がし、それと同時に男が襲い掛かってきた。

 5

 音がして、男が私に襲い掛かってくるのも私は既に視(し)っている。だから、銃を抜いてその足に発砲するのは簡単に出来たし彼がこちらに向かって倒れる場所も分かっていた。
 案の定男は床に倒れて、それでも尚私に向かって支離滅裂に罵倒の言葉を繰り返す。発砲音もあるけれど、あの男を呼ばれても適わない。
 私は日記を持ち去り部屋に鍵をかけ素早く廊下に出て二つ隣の部屋に逃げ込む。
 逃げ込んだ先で日記を見れば、村を追いだされた女性の恋人が書いたのだろう。彼女が火炙りにされた後の恐ろしい出来事が書き殴られていた。近親婚、食人。消えない復讐心は潰れたペン先から伝わってくる。
 ここに居るのは、吸血鬼ではない。人が人を追い詰めた結果、復讐に巣くわれた殺人鬼だ。
 連絡を、助けを呼ばなければならない。
 これは私の管轄外で、彼らは法によって裁かれるべきだ。けれど、私を信じてココに来てくれる人物は、私に銃を貸してくれた彼しか思い浮かばなかった。
 震える手で私は電話を繋げた。彼が追い込まれた時助けもせず息の根を止めたのは私。だというのに、こういう時にだけ頼るのはなんて都合の良い話なのだろう。自分に嫌気がさして目を瞑る。
 線香の臭い。黒猫。死体。怒りに燃え、幸せな家族に嫉妬狂う緑目の少年。私はあの目がとても怖くて嫌いだった。
 嫌な記憶は、どんどん私の中で溢れかえる。
『もしもし?』
「殺人鬼に捕まった……。死体を食べてる人に捕まって、私……」
 聞こえた声に私は一瞬言葉に詰まった。そして、助けてとだけ言えばいいものを、ペラペラと現状を伝えてしまう。こうも冷静に説明したら悪戯だと思われるだろうか。場所を告げるまで従兄弟は一言も言葉を発しない。
『怪我は?』
 私がようやく話を止めると、緊張した声が返ってくる。声量を下げているのは、犯人に私が電話を話していることを気取られないためか。
「私はない。けど、他に二人、捕まってる。犯人は三人。……多分、行方不明者事件に関連してると思う」
 震える声で言葉を探る。この人だけ言葉は重複されない。それは、当然か私がこうなってしまったのは彼と彼の父親のせいである。
『分かった、すぐに向かう。……おかしな質問だと思うが、それは人の形をしていたか?』
 不意に投げかけられた質問に全身の血が引いた。彼は私の仕事を知っているのだろうか。
「し、してない。人間。ただお兄さんと同じ髪色で……赤い目もしてる」
『分かった。それ以上深入りはするな。出来れば安全な場所にいてくれ。チームと一緒にヘリで向かう。両親には……』
 悲鳴が聞こえた。
 私の名前を呼ぶ従兄弟を無視し、私は携帯の通話を切る。心臓が止まりそうな程にバクバクと鳴り、足が竦むのは、あの悲鳴ではなさそうだ。
 携帯をしまって、代わりに銃を抜く。
 女性(おそらく白髪の少女。部屋の閉じ込めた男の娘だろう)の悲鳴に反応したのか、部屋に閉じ込めた男が暴れだしたようだ。ドアに体当たりする音が響く。それでいてオウオウともう一つ声が聞こえるのだからあの肥満男もパニックになったのだろう。
 視界の隅で白髪の少女が泣きながら部屋に入り、壁にかかった布をめくって隠された扉の先に走っていく。
 閉じ込めた男、肥満の男、そして白髪の少女は吸血鬼と追い出された女性の末裔だ。そして、人を襲っているのは食べる為と、――……きっと復讐もあるのだろう。
 誰一人として教えてくれない人たちの顔を思い出しながら、少し遅れて部屋に入ってくる少年に尋ねた。

「逃げないの?」

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