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言葉で人の未来を縛りたくないし私の未来も縛られたくない。

私は人を縛りたくないと言う気持ちがある。
無意識的なところで私が枷になって、本人の好きな選択ができていないのではないか、と思う。

私のために起こしてくれた行動は私にプレッシャーをかける。

人の期待に応えられるほどの技術・能力を私は持っていない、と感じているからだ。また、期待に打ち勝つ精神力も持ち合わせていない。

期待に応えられない自分が嫌になるから期待されるのが苦手なのかもしれない。

私の言葉が人を縛っていないか?という不安が湧き出る瞬間がある。
例えば「ありがとう」
ありがとう、って伝えているから〜〜してくれるよね?という圧に感じられないか?

人が私のために何かしてくれた際、お礼を言うが、「ありがとう。」「ありがとう。」と、あまり言い過ぎるとなんか悪い気がしてくる。

「ありがとう」の言葉の免罪符をかざして、人に義務感を負わせて何かさせてしまっているかもしれない怖さを感じている。もちろんそんなつもりはないし心から感謝しているけど変な風に受け取られたら嫌だなあ、なんて考えている。

これ人のせいにしてるけど私がありがとうって言われすぎると感じることだよな。何かしなきゃって思っちゃうんだよな。

感謝の伝え方はこちらも行動で示すのがベストなのだろうか。わからない。


もうひとつ。
「〇〇(人物)はやさしいね。」
何気なく言ったことある言葉。
わたしは〇〇に“やさしい”という期待を張り付けて、〇〇は期待に応えようとしてやさしくしなければ裏切ってしまうと思い、やさしく接してくれるのではないかと危惧している。

本心でないやさしさはお互い気を遣って苦しいだけではないのか。

やさしいことを褒めたい時、主語と述語の構成ではなく、修飾語を入れようと思った。終わった行動や考え方を話せたら良いなあ。

過去になったその人の行動や考え方について感想を言っているだけで、その人の未来はド怒り人間になろうが、晴れの日の縁側のような人間になろうが、私は期待しない。

言葉の呪いにかかっているのは私な気がする。

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