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[ 穴穴家電(その2)]~創作大賞2024応募作品

                  二 

 

 目の前に白いおしぼりが一個あった。わたしはくの字型に曲がった小さなカウンターのほぼ中央に座っている。横目で右を見ると、すぐ隣にはくたびれた灰色のスーツを着込んだサラリーマン風情の男がひとりでちびちびと酒を飲んでいる。白髪がほぼ頭髪を占拠しつつあることと、痩せこけた頬をびっしり皺が覆っていることから相当の年輩者、五〇代後半、定年間際のサラリーマン、あるいは定年退職後の隠居生活に入った六〇代といったところか、いずれにしても背中から腰にかけての線が人生の黄昏時を感じさせる。さらにその右隣には、三〇代くらいの男女がわいわいがやがや騒ぎながら飲み食いしている。冬だというのに、男は半袖シャツ一枚に綿パン、女はタンクトップ姿の軽装で、ときどき嬌声をあげて抱き合ったりしているところを見ると、恋人同士かなにかだろう。酔っぱらった恋人同士は周りに気使うことなくふたりだけの世界を作り上げるものだが、彼らを包む空間がまさにそれだ。横目で左を見ると、ひとりの女が酔いつぶれる寸前なのか、カウンターに左頬をだらしなくつけて、どろんとした目でこちらを見ている。葬式から帰ってきたのかと思うくらい頭の先から爪の先まで黒ずくめ。長い黒髪、細面でなかなか整った顔立ち、要するに美形といっておかしくない「いい女」なのだが、泥酔状態では色気もへちまもない。時折ぶつぶつ何か呟いているうえに、目がすわっていて少し怖い。だが不思議と初めて会ったような気がしないのはなぜだろう。横顔に妙な親近感を覚える。

 さらにその左隣にはカーキ色のジャンパーの若い男がひたすら丼飯をかきこんでいる。よほど腹が減っているのだろう。丼茶碗に隠れて顔がよく見えないが、つるつるに剃り上げた坊主頭に髭面。余り目をあわせたくない世界の住人かもしれない。その向こう、壁際の席では椅子にあぐらをかいて黒縁の眼鏡をかけた青白い顔の青年が百科事典と見間違うような分厚い本を熱心に読んでいる。テーブルにはオレンジジュースのペットボトル。高校生だろうか。学生服に身を包んで本を読む姿は酒処だとひどく場違いに思えるが、本人は一向に気にしていないようだ。

「ご来店ありがとうございます」

 カウンター越しに正面から声がかかった。うつむき加減に席に座り周囲の観察に夢中になっていたわたしは一瞬驚いて顔を上げた。例のオヤジがニコニコしながらこちらを見ている。気がつくと、両手をわたしの方に伸ばし何やら小さな紙切れを握っている。

「わたしはこういうものです。これからもごひいきに」オヤジがそう言って軽く頭を下げた。よく見ると差し出された紙切れは名刺のようだ。わたしは反射的に自分の名刺を探したが、よく考えるとそんなものはない。つい最近まではあった気もするが少なくとも今はない。それに酒場の主人や旅館の仲居さんから挨拶がわりにもらう名刺とサラリーマン同士の名刺交換は違う。一方的に貰えばいいのだ。再びこの店に来るかどうかもわからないのだから。

 わたしは軽く会釈をして名刺を受け取った。名刺にはこう書いてある。

 

〈穴穴酒処 主人 堀部安兵衛〉


「堀部安兵衛?」わたしは思わず声を出してしまった。同姓同名か。それにしてはなかなか粋な名前だが、本名だろうか。

「オヤジさん、これって本名かい」と聞き返すわたしに、オヤジはまた例のごとく首を傾げると、何とも不思議なこと聞くものだという表情をする。不思議なのはこちらなのだが。

「本名? それは異な事をおっしゃる」オヤジは真面目な顔で言った。

「へ?」

「本名とはどういう名前のことでしょう」

「どういうといっても、本名っていうのは」わたしは言葉に詰まった。簡単な質問ほど答えづらいものはない。「人間が持って生まれた名前だよ」

「持って生まれた名前? 人も猫も犬も生まれたときには名前なんか無いですが」

 そりゃそうだ。オヤジは正しい。だけど、なんだか屁理屈のような気がする。負けてはいかん。わたしは堀部安兵衛という名前が本名かどうか聞いているだけなのだ。こんなところで言い負かされてはいかん。「いやつまりだな、オヤジ」

「戸籍上の名前ってことですかい、お客さん」オヤジはため息をついた。

「あ、そうそう。それだよ」何だ。ちゃんとわかっているじゃないか、とは言わない。オヤジは明らかに次の口上を準備しているからだ。

「そりゃ愚問というやつですよ、お客さん。ここは酒処ですよ。役所じゃあるまいし、戸籍上の名前を語る必要なんかどこにもありません。芸能界だってそうじゃないですか。芸名しか意味を持たないでしょう」

「ううむ」

「酒処だって同じですよ。彼がA、彼女がBとわざわざ識別するのは印が無いとやり取りに不便だからです。ポチだろうがタマだろうが、それこそ電信柱でも茶碗蒸しでも構いません。名前は名前です」

「ううううううむ、確かに」

 せ、説得されてしまった。これ以上は聞けない。堀部が本名なのかどうか知りたい気がするのだが、こう理詰めで来られてはどうしようもない。わたしは諦めた。まあ良い。いつか聞き出してやる。堀部安兵衛め。

「そうだ。ここにおられる方々は常連さんなので、一応ご紹介しておきましょう」堀部のオヤジは、ポンと手を叩いた。

「あ、ちょっとその前に何か飲ませてくれよ」わたしは喉が乾いていた。今は丁度正午。昼飯時が終わるまでは主婦軍団が怖くて外に出られない。どうせ暇なのだから、昼酒もたまにはいいだろう。飯ついでに一時間ほど時間をつぶしていこう。

「あ、そりゃそうですねえ。気が利かなくてすみません。で、何になさいます」堀部のオヤジは頭をカリカリとかいた。

「とりあえずビールを一本くれ」

「あいよ」オヤジはすかさず冷蔵庫からビールを一本取り出すと、グラスと一緒にわたしの目の前に置いた。「でいくらにしますか」わたしの顔を覗き込む。

「はあ?」ビールに伸ばしかけたわたしの手が止まった。「いくらって?」

「品物の値段はお客さんに決めて頂くと言いませんでしたっけ」堀部オヤジの目がビー玉のように丸くなる。目が丸くなるのはこちらのほうだ。

「ここもそうなのか」呆れ果てた。そもそも電器屋さんの奥に飲み屋があること自体あり得ない話なのに、値段はすべて客が決めるなんて輪をかけておかしな話じゃないか。だがしかし、真剣な堀部オヤジの眼差しを見ていると値段を決めない限りビールを飲ませてはくれなさそうだから、何がどうあっても、好むと好まざるに関わらず、この目の前の美味いしそうなビールにありつくためには決断しなければならぬ。

「わかったわかった。大瓶一本かあ。三〇〇円でどうだ」わたしは怖々オヤジの顔色を伺った。

「どうだってのは困ります。それでいいって言ってしまうとあたしが値段を決めたことになっちまう。言い切ってくださいな」オヤジが食い下がる。また同じ展開だ。いつのまにかふたりはカウンター越しに身を乗り出して睨み合っていた。

「よおおおおっしゃあ。三〇〇円でいこう」わたしは唾を飛ばしながら大声で怒鳴り散らした。

「承りました! 三〇〇円で落札!」オヤジも負けじと怒鳴り返す。

 はあはあ、息を切らしながら席について右と左を確認する。あれ? 誰もこちらの様子を気にする者はいない。相当な大声だったはずなのだが。他人事には全く興味がないってことか。まあ良い。注目されるのは苦手だ。

 わたしはビールをグラスに注ぎ一気に飲み干した。「くああああ、美味い!」と思わず叫んだところで、オヤジが朗々と語り始めた。

「では常連さんをご紹介しましょう。お客さんの右隣の方が、あ、そのスーツの方ね。その方が〈るうずべるとさん〉」

 わたしは反射的に頭を軽く下げた。〈るうずべるとさん〉も軽くこちらに頭を下げる。視線はカウンターに落としたままだ。黙々と杯を重ねている。

「その右隣の方おふたりが、金さん銀さん。確かご夫婦とお聞きしました」

 〈るうずべるとさん〉越しに「どうも」と声をかける。しかし金さん銀さんご夫婦はお喋りに夢中でこちらに気づかない。どちらが金さんでどちらが銀さんなのかもわからない。

「続きましてえ」堀部オヤジの口調が結婚式の司会者のようになってきた。

「左隣の方が、あ、酔いつぶれている。え、大丈夫? まあ、ほどほどにねえ。彼女が〈椿姫〉さん。なかなかお綺麗な方でしょ。飲んべえだけど」

 わたしは顔をこちらに向けてカウンターにうつ伏している〈椿姫〉に軽く会釈をした。〈椿姫〉がニヤリと笑った。やはり見覚えがある顔立ちだ。

「その左隣の方が〈鉄砲玉〉さん。相変わらずよく食べなさる」

 〈椿姫〉がカウンターにのびているので〈鉄砲玉〉さんの姿はよく見えるのだが、相変わらず丼飯をかきこんでいて顔が見えない。とにかく何だか危険な香りのする男だから、声はかけないでおこう。

「最後に一番奥の席で本を読まれている方が〈鴎外先生〉です」

「〈鴎外先生〉? 学校の先生なのかい。あるいは作家さんとか」学生服を着た作家さんなどまずあり得ないと思ったが一応訊いてみた。

「いやあ、職業は知りません。名前が〈鴎外先生〉なんです」堀部オヤジが〈鴎外先生〉に目で合図を送ると、〈鴎外先生〉は分厚い本をカウンターに置き、黒縁眼鏡をきりきりと整えるとわたしの方を見て言った。「わたしが〈鴎外先生〉です。よろしく」

「はあ、よろしく」頭が痛くなってきた。とにかくビールを飲んで何か食おう。

「で、お客様のお名前は?」堀部のオヤジがニコニコしながらわたしに尋ねた。二杯目のグラスを半分まで飲んだところでわたしはビールを吹きそうになった。そうだった。紹介されたのだからわたしも名前くらいは話さないといけないのだった。とはいってもどうすればよいのだ。さきほども言ったように名刺はないし、車も運転できないので免許証もないし、保険証もないし、何も身分証明となるようなものは持っていない。そもそもわたしの本名って……。やばい。こりゃやばいぞ。

「お名前ですよ。お客さんの名前。あ、また変なこと考えているでしょう。あなた、四角四面だから」堀部オヤジが呆れたような顔をする。「四角四面だなあ」

 おお、そうだった。何も本名を名乗る必要はないのだった。そう言われたばかりじゃないか。何でも良いのである。適当な名前で良いのだ。

 「か、からす……」頭の中に突然電柱にとまっている鴉の姿が浮かび、自分でも気がつかないうちにそう呟いていた。「〈からすうたまろ〉です」

「ほう、〈からすうたまろ〉さん? なるほど、いいお名前ですな。皆さん、この方は〈からすうたまろ〉さんと言います。これからちょくちょく来られますのでよろしく」堀部オヤジはご満悦だ。馬鹿言え。今日だけだ。二度と来るつもりはない。こんな変な店。勝手に常連にするんじゃない。とは口に出して言えないから、わたしは愛想笑いを浮かべながら飲みかけのビールを飲み干した。とにかく早く飯を食って帰ろう。

「オヤジ、お品書きをくれ」そうである。さっきから密かに探しているのだが、品書きの帳面もなければ壁の貼り紙も無い。これじゃ何を頼んで良いかわからない。手際の悪い店である。

「はい、お客さん」オヤジはカウンターの陰にしゃがみこむと黄色い花柄の帳面を取り出しわたしに差し出した。さてさて何にするかなとお品書きであるはずの帳面を開いてわたしの首は数センチほど伸びた。何も書いてない。どの頁を開いても白紙である。厚手の紙をいくらめくっても真っ白だ。仕掛けでもあるのかと帳面を振ってみたが何も落ちてこない。ははあ、さてはまだ何も書いてない予備の帳面を間違って渡しやがったな。わたしはむっとして堀部のオヤジに向かって怒鳴った。

「何も書いてないぞ。こいつは未完成版じゃないのか。腹が減ってるんだよ。ちゃんとしたものをくれ」

「はあ」堀部オヤジがまた首を傾げて不思議そうにこちらを見ている。その表情は見飽きたぞ。何でもいいからお品書きを持ってこい、と言いかけたそのとき。「それがお品書きですが」グラスを探していた手が一瞬宙をさまよった。

「これがお品書き?」わたしはもう一度、手元の帳面をぺらぺらとめくってみた。白紙に間違いない。「何も書いてないんだよ。ちゃんと見ろよ。オヤジ」と白紙のお品書きを開いてオヤジに見せる。

「だからお客さんが書くんですよ」オヤジの怪訝な表情は相変わらずだ。

「客が書く?」

「もおおううう。何度も言っているじゃないですか。お客さんも困ったおひとだ。お客さんが全部決めるんですよ。お客様は神様です」堀部のオヤジが自慢げに言った。最後の台詞が決まったと思ったのだろうか。

 わたしはと言えば、白紙の帳面を右手で高々と掲げたまま、固まっていた。言葉が出ないというやつだ。堀部のオヤジが冗談のつもりで言っているにしてもうまく切り返す言葉が見つからないし、受け流すこともできないし、第一オヤジが冗談ではなく掛け値なしの本気で言っていることは内心わかっていた。

「まあ、手をおろしなさい。〈からす〉の旦那」〈るうずべるとさん〉が徳利を横に倒して言った。すかさず「堀部さん、もう一本つけてよ、一〇〇円でね」とオヤジに声をかけると、ほぼ食べ終わった焼き魚に未練がましく箸をつけた。「あいよ」と堀部オヤジが返す。

 わたしはお品書きをカウンターにそっと置いた。変だ。変すぎる。変だ変だと思っていたがあんまりだ。異常だ。狂ってる。いんちきだ。とんちきだ。非常識だ。理不尽だ。思わずわんわん泣きたくなった。しかしそれは余りに格好悪い。ここは長居すべきではない。よく考えると周りを見渡してもおかしな連中ばかりじゃないか。ひょっとすると精神異常者の集まりかもしれん。その代表が堀部のオヤジだ。絶対まともとは思えない。このままじっとしていると何をされるかわかったもんじゃないぞ。あ、そうだ。ぼったくり居酒屋ということもあり得るな。何でも好きな値段でどうぞなんて言っておきながら、後で莫大な請求が来るとか。そもそも電子レンジを五〇円で買ってそれで帰るはずだったのに、いつのまにかここにいてビールを飲んで飯を食おうとしている。ここで数万円ぼったくっておけば電子レンジのお代が安くても帳尻があう。そうだ、そうに違いない。うまいことはめられたのだ。早く逃げ出さなきゃ。

「ああ、わかった、わかった、オヤジさん。これがお品書きね。わかってるって、ちょっと聞いてみただけだ」わたしは気にかけていない振りを装い作り笑いを浮かべながら思案した。かといって何か一品くらいは頼まなければならんだろう。ビール一本じゃあ、かえって何を言われるかわかったもんじゃない。因縁をつけられるのはご免だ。あの〈鉄砲玉〉とかいう男なんか、いかにも危なそうなやつだからな。ここの用心棒かもしれん。あんなのと喧嘩になったら半殺しにされてしまう。ここは一品だけ安めのものを頼んで帰ろう。何がいいかな。かけそばかうどんあたりが無難か。いや待てよ、ここの常連さんが食べているものを頼めばいい。出来るだけ安そうなやつを。

 わたしは〈るうずべるとさん〉が食べている焼き魚を見た。

 あれは何の魚だろう。見たところ秋刀魚だが、いささか季節はずれだし確認が必要だな。とんでもない高級な魚だったら堪らない。

「あ、あの、〈るうずべるとさん〉。その魚、美味しそうですね」

 〈るうずべるとさん〉は答えない。一生懸命焼き魚の骨の間に残った身をつついている。一片の身さえ残さないぞという強烈な気迫が漂っている。魚料理を食べている人はときに魚と格闘している風に映るが、今の〈るうずべるとさん〉はまさにそんな感じだ。「なんて魚ですか? 秋刀魚ですか?」とわたし。

「え?」〈るうずべるとさん〉はようやく魚との格闘を終えてわたしを横目で見た。格闘の直後だからか少し息を切らしている。「ああ、そうですよ。秋刀魚の塩焼きですよ」

 よしそれにしよう。秋刀魚なら値段も手頃だ。そう吹っ掛けられることもないだろう。

「オヤジさん、秋刀魚の塩焼き、オレにもくれ」わたしはわざと横柄に言った。小心者と思われたらまずい。足元を見られる。

「あいよ。でお値段は」〈鴎外先生〉の注文を受けていたオヤジがわたしの方を振り返った。

「あ、そうだった、そうだった、一〇〇〇円で頼む」

 そのときである。場全体の空気が一瞬凍り付いた。「頼む」の「む」を言い終わるやいなや、カウンターの客全員がわたしに視線を向けたのである。余りの圧力に寒気さえ覚えたわたしは、怖々〈るうずべるとさん〉の表情を見た。正面を向いたままなので横顔しか見えないが口をぽかんとあけて今にも泡をふきそうだ。左目は眼窩から飛び出しそうに見開かれている。左手に一合徳利、右手に杯。徳利を傾けたままの姿勢で固まっている。

 オヤジに目を移した。オヤジのほうはいつもの調子だ。首を傾げながらじっとこちらを見ている。そして言った。「四角四面だねえ」しばらく間があって思い出したように「あいよ」というと手元の魚をさばき始めた。周囲の絵も少しずつ動き出す。会話が一瞬止まっていた金さん銀さん夫婦も再びやかましく喋り始めた。〈鉄砲玉〉の顔が再び丼茶碗に隠れて見えなくなった。時計が再び回り始めたのである。

 何だ何だ何だ。今のは一体何だ。わたしの背中を冷たい汗がつたっていった。何なんだ。一〇〇〇円がおかしいのか。何でなんだ。少し高いかもしれないが、そんなにおかしな値段じゃないし、第一安過ぎるならともかく高い値をつけて驚かれる筋合いはないじゃないか。わからん。しかし気になる。何だかすごい失態を演じてしまったようなそんな気がする。これは聞いてみるしかないな。

「あの、〈るうずべるとさん〉?」

 〈るうずべるとさん〉は、また酒をきゅきゅきゅとやっていた。テーブルには既に徳利が四、五本並んでいる。かなりの酒好きと見た。

「はいはい、〈からすうたまろ〉さん、何ですか」

「何でさっきみんなあんなに驚いたんですか」皺だらけの顔に赤みがさしている。〈るうずべるとさん〉の表情をじっと下から覗き込む。

「ああ、あれね」きゅきゅきゅと杯を重ねる。「そりゃ驚きますよ。一〇〇〇円でしょう? 一〇〇〇円。そりゃ犬でも猫でも驚きますよ」

 犬や猫は驚かないと思うのだが、と言いかけてやめた。だからその一〇〇〇円が一体何でそんなに驚きなのかがわからないんですよ。

 わたしの心の中を見て取ったのか、〈るうずべるとさん〉がぽつりと言った。

「最高値ですよ。この店のこれまでの注文の中で最高値。しかも秋刀魚の塩焼きにね」

「最高値? 一〇〇〇円が、ですかあ。じゃあ、〈るうずべるとさん〉のその塩焼きはいくらなんです」

「これですか。五円です」〈るうずべるとさん〉はまたきゅきゅきゅと杯を重ねた。

 わたしはといえば頭の中が真っ白である。ご、五円だとお。

「ふ、ふざけやがって……」と小声でつぶやく。わざわざ声量を落としたのはおそらく、いや間違いなく、この酒場では〈るうずべるとさん〉が当たり前であって腹を立てているわたしのほうが非常識だと推測されるからだ。あんたがふざけてんだよ、と言われるのが目に見えているのである。なんと言っても〈るうずべるとさん〉も他の客も常連、わたしは新参者、酒場にはその酒場ならではの常識が、文化が、マナーがあることくらい、わたしも知っているのであるからして、ここはぐっとこらえるしかない。第一、わたしはここの常連になるつもりなどないのだ。ビールと一〇〇〇円の秋刀魚の塩焼きを食ったら出て行く一見客に過ぎないのだから。

「くわばらくわばら」と何気に一言呟くとカウンターに左頬をつけたままの姿勢で〈椿姫〉が唇を歪めながら皮肉っぽく言った。

「なにがくわばらなの」

 まさか酔いどれ女に聞こえているとは思わなかったので思わぬ不意打ちに驚いたわたしは少し身体を引き気味に構えて〈椿姫〉を見た。改めて見てみるとやはりなかなかの器量である。年の頃は三〇前後。上目遣いにこちらを見る目は異様に大きく黒く、紙切れのようなはかなさを感じさせる青白い顔に肩まであろうかと思われる長い髪がかかり、髪の毛の隙間からのぞく唇は肉感的で、ニタニタ笑いは癖なのだろうが妙にその表情が似合う。妖艶というか凄惨というか白い着物を着せて墓場に立たせたら「美人お化け」として名をはせること間違いなしだ。

「そのひとに余り深入りしないほうがいいわよ」〈椿姫〉の唇が動いた。他には指ひとつ動かさない。長い首はカウンターに載せたままだ。まるでろくろ首。

「そ、そのひとって」わたしはろくろ首に向かって言った。

「そのおじさんよ」〈椿姫〉の黒い瞳が動いて〈るうずべるとさん〉を見た。真綿を濡らすように〈るうずべるとさん〉の身体に視線が染みとおる。〈椿姫〉の瞳が少しかすんでいるように見えた。泣いているのだろうか。真っ黒な目の玉はすぐに強い光を取り戻すとわたしのほうをぎょろりと見て「昼間から酒ばかりくらってる情けない人。そうやってどんどん何かを失っていくことに気がつかない」とため息をつく。

 昼間から飲んだくれているのはお互い様だろうと言いかけたがやめておいた。大きく見開かれていた〈椿姫〉の目が次第に光を失いながらゆっくりと閉じていき薄紫の瞼に完全に覆い尽くされるとそのまま眠ってしまったからだ。

「完食ううう」誰かの奇声が店内に響き渡った。どうやら〈鉄砲玉〉のようだ。丼茶碗を高々と頭上に掲げている。「おやじい。うまかったぜ」〈鉄砲玉〉はご満悦だ。

「ありがとうございます。それで結局のところ何杯食べなさったんで」

「二十一かな。いや、二十二かな。途中まで数えていたんだが忘れちゃった。とにかく自分の歳の数まで食うのが目標だったんだけど、それはクリアーしたはずさ」

「二十二杯だとお」とわたし。

「二十二杯ですな」と〈るうずべるとさん〉。

 もはや驚く気力もない。どうやらいつのまにか免疫ができつつあるようだ。

「じゃあ行ってくるぜ」〈鉄砲玉〉は空の丼茶碗をカウンターに叩きつけるように置くと、意を決したように立ち上がり、使い込んだカーキ色のジャンパーのファスナーを胸元まで一気に引き上げた。ジャンパーを通してたくましい胸の筋肉の隆起が透けて見える。剃り上げた坊主頭に血管が浮き出ている。大量のカロリーを摂取して体内の血液が沸騰しているのだ。〈鉄砲玉〉はカウンター越しに堀部のオヤジに小銭を手渡すとジャンパーの懐から迷彩色の野球帽を取り出し目深にかぶった。ゆっくりと入り口に向かって歩き出す。

「いってらっしゃいませ」堀部のオヤジが馬鹿丁寧に額が膝につくかと思うほど深くお辞儀をした。〈鉄砲玉〉は振り返ることなく、癖なのか両肩をくいっとすぼめて首を数回ひねる仕草をしながら「おうよ」と威勢良く言葉を返し、そのまま暖簾の向こう側に消えていった。

「仕事に行くのかな」わたしは〈鉄砲玉〉の背中を見届けると正面を向いて堀部のオヤジに話し掛けた。オヤジはまだ深々とお辞儀をしたままだったが、わたしに話し掛けられてもとの姿勢を思い出したらしい。慌てて顔を上げると返事をせずに「おっと失礼」と呟きながら背後のガスコンロから焼き物を取り出しおろし大根を添えて皿にのせるとわたしの目の前に置いた。

「秋刀魚の塩焼きでございます」

 おお、そうだった。すっかり頼んでいたことを忘れていた。薄く焼き目のついた秋刀魚の姿形と立ち昇る香ばしい匂いで口のなかに唾液が一気に噴出する。思わずよだれが出そうになり慌てて大量の唾液を飲み込むとわたしは一口、二口と塩焼きを味わった。ついでにビールをもう一本注文した。

「仕事でございますよ。体力をつけるんだと言っていつも大量の丼物を食べなさってからああやって出かけるのでございます」堀部のオヤジが思い出したようにわたしの問いに答えた。

「何の仕事だい」塩焼きの味は格別だった。皿の上の一品はあっというまに骨だけになった。残った骨を未練がましくひとしゃぶりしてからビールを一杯ぐいと飲み干す。

「さあねえ。仕事の内容までは知りません」とオヤジ。

「あのガタイだ。肉体労働だな」とわたし。

「身体を張る仕事だといわれてましたが」とオヤジ。

「あの強面だ。やばい仕事かもしれんな」とわたし。

「仕事があるだけ幸せというものです」と〈るうずべるとさん〉。

 わたしは〈るうずべるとさん〉を見た。ビールでほろ酔い加減になったせいか、秋刀魚の塩焼きで空きっ腹が楽になったせか、初対面の人間に接したときに必ず感じる胃の中がもぞもぞするような不快感が薄れてきたわたしは、改めて冷静に右隣に座っているこの初老の男を観察してみた。相変わらず一合徳利と杯で熱燗をちびちびと飲んでいる。くたびれた灰色のスーツの皺とたるみから、覇気に欠けた痩せた体躯は容易に想像がついた。細い首、薄い胸、丸くすぼまった背中、小さな尻……。

「あっ」わたしは思わず声を上げた。〈るうずべるとさん〉が一瞬振り向きかけたがすぐ横顔に戻りきゅっと杯を飲み干した。

「あ、足が……」

 なんと、〈るうずべるとさん〉の左足が無かったのである。大腿部からごっそり無い。灰色のスラックスは腰の少し先からだらりと下に垂れており、地に付いているのは右足ただ一本だったのだ。

 気がつかなかったのだろうか。この酒場に入ってこの席に座ってからそれなりの時間が流れているが、隣席の男性の左足がないことに今まで気がつかなかったのだろうか。右足なら死角になって見えないこともあるだろうが、左足である。わたしの席に近いほうの足である。しかも他の常連客とは異なり〈るうずべるとさん〉とは何度か言葉を交わしている。それなのに気がつかなかったというのか。どうも合点がいかない。

「し、失礼。足が悪かったのですね」わたしの胸のつかえは降りなかったが、ここは一言かけておくべきだろう。覚えはないが、気がつかないうちに何か失礼なことを言った可能性もある。詫びておくにこしたことはない。

「足?」〈るうずべるとさん〉が怪訝そうな顔をした。わたしの顔がひきつっていたのだろうか。わたしの視線を追いかけて到達した先、自分の膝元をうつむき加減に見た〈るうずべるとさん〉が一瞬ぎょっとした顔をした。そのまましばらく自分の存在しない左足を見つめていたが、何事も無かったような温和な表情に戻ると再び杯を重ね始めた。そして呟いた。

「堀部さん。今度は足だよ。片足が無くなっちゃった」ため息をつく。

 堀部のオヤジがカウンターから見を乗り出して〈るうずべるとさん〉の腰から下を覗き、少し悲しそうな表情をして呟いた。「今度は足ですか」

「足だよ。参ったなあ。これじゃ歩けない。堀部さん、松葉杖とは言わないが、杖くらいあるかね」

「何か支えになるものを後で探して持ってまいりましょう。なあに、心配ご無用。何なりと都合はつきますよ」

 わたしは思わず割って入った。「どういうことですか。もともと足が不自由なのでしょう?」正直余り答えは聞きたくなかったのだが、聞かずにはいられない。頭蓋骨の中で脳みそがぐらりと揺れた。

「もともと? ありましたよ。さっきまであったんですが」〈るうずべるとさん〉が鼻で笑って言った。「初めから無ければ杖くらい持ってきます」

「ど、どういうことですか」答えは本当に聞きたくないのだが自分に歯止めがかからない。

「左足は、今日、いやさっき、ここで無くしたんですよ。いつのまにか……」

「……」

「いえいえ、よくあることなんです。無くすのはこれが初めてじゃないので。ただ足というのはいささか不自由ですねえ。ちょっと予想外でびっくりしました。堀部さん、もう一本つけて」へえと堀部のオヤジが返す。〈るうずべるとさん〉は横顔のまま左目でわたしをちらりと見た。

「よくあるって……」聞くな。聞くんじゃない。心の中から叫び声が聞こえる。

「よくあるんですよ。二、三日前だったかなあ。これもね……」〈るうずべるとさん〉が、皺だらけの顔をゆっくりとわたしに向けた。〈るうずべるとさん〉の顔を初めて真正面から見た。背筋が凍りついた。

 ――〈るうずべるとさん〉の右の眼球が無かった。ただぽっかりと真っ暗な空洞があるだけだった。暗い空洞はどこまでも深く長く続いていた。


以降は数日後に公開予定です。

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