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[ 穴穴家電(その6)]~創作大賞2024応募作品

 六 

 

 午前六時半。目覚し時計で目が覚める。いつも通りさわやかな気分。完全に眠りから冷め切らない脳の酩酊感を味わいながら寝巻き姿のまま居間まで歩き、素足に触れる床の感触を味わいながらカーテンを一気に開ける。春の柔らかな陽射しが窓から差し込みわたしの身体を包み込む。窓を開けて新鮮な空気をとりこむ。あくびをしながら窓から路地を見下ろすと鴉がゴミ捨て場を漁っている。最近は鴉が多くて困ると近所の人が言っていたのを思い出す。確かにゴミ捨て場だけではなくマンションから見える民家の屋根や電柱に多数の鴉がとまっている。まあしかし良いではないか。この雲ひとつない青空を見てごらん。鴉ごときどうということはない。路地は駅への道を急ぐサラリーマンやOLで一杯だ。わたしもぼうっとしてはいられない。洗面所に急ぎ顔を洗って髭を剃る。そういえばいつだったか忘れたが、随分と長い間髭を剃らなかったことがあった。わたしはもともと髭が濃いほうじゃないので普段は安物の電気髭剃り器で充分なのだが、あのときはとてもじゃないが剃刀じゃないと無理だった。剃り終わったあとの別人のような顔を見て自分の顔ながら驚いた覚えがある。

 玄関の郵便受けから新聞を取り出しテーブルに投げる。冷蔵庫から牛乳パックを取り出し一口、二口ほど飲み干すと、キッチンの棚からロールパンを二個取り出し電子レンジにかける。コーヒーを沸かしている時間はない。朝は牛乳とロールパン。そういう生活にもう慣れてしまった。電子レンジが終了の鐘を鳴らす。黒い重厚なデザインの電子レンジ。ロールパンを取り出し無理矢理口に詰め込みながら、電子レンジをしばらく眺めていると、なんだか無性におかしくなり思わず笑みがこぼれる。

 「穴穴家電」にはあれから行っていない。正確にいうとたまたま一度例の路地を通りかかったときに気になったので様子を見てみたことがある。しかしあの妙な電器屋があった家の表札は至極立派な作りの表札に変わっており、人の気配がしたので陰に隠れてしばらく覗いていると、玄関から見知らぬ夫婦と子供が出てきて庭いじりを始めたのだった。いかにも平凡で平穏な家庭の絵がそこにあった。いつからここに移り住んだのか、前の住人はどうしたのか、訊いてみる気にはなれなかった。急ぎの用事があったので結局そのまま立ち去った。実際のところ、わたしはもはやあの店に興味が無かった。記憶も曖昧で、覚えているのは妙なオヤジと常連客が数人いたことくらいで、最近では名前どころか顔すら思い出せなくなっていた。

 ロールパンと牛乳を胃に流し込み新聞に一通り目を通すと丁度良い時間になる。スーツをすばやく着込みネクタイを締めると戦闘態勢完了。今日も長く辛くそれでいて楽しい一日が始まる。左手首に愛用の腕時計を巻いて時間を合わせる。玄関に急ぎ靴を履きかけたところで忘れ物を思い出す。

 玄関の脇にある六畳の和室に入り、奥の仏壇に手をあわせる。遺影の女性が優しい目でこちらを見ている。半年前に病死したわたしの妻。器量は十人並みかもしれないが、大きな瞳としなやかなで長い黒髪が魅力的な女だった。気が強く口は悪かったが、心根のやさしい女性だった。和室がいくぶんかび臭いのは、ずいぶん長い間部屋を閉め切ったままだったからだ。この部屋に入ることが出来るようになってから一ヶ月以上経ち、換気を心がけているのだが畳にしみついた湿気はなかなか抜けてくれない。だがその湿気が抜けるのも時間の問題だろう。

「おっといけない」わたしは左手の腕時計を再確認した。早くしないといつもの電車に間に合わない。慌てて玄関に駆け込み靴を履き扉を開ける。そのとき、郵便受けから一枚のチラシがはらはらと落ちた。先ほど新聞を取り出したとき郵便受けの金具に引っかかりそのままになっていたのだろう。おそらく分譲マンションの広告かデートクラブの怪しいチラシだからと、わたしは無視してそのまま外に出ようとした。だが今日に限って妙に気にかかり足を止めた。チラシを床から引ったくり、廊下に出て扉の鍵を閉めた。チラシに目を落とす。


〈穴穴文具。凄い! 凄すぎる。まさに文具の穴場。穴穴文具をよろしく〉


 わたしはニヤリと笑った。あの妙なオヤジの顔が頭に浮かんですぐに消えた。チラシを片手で握りつぶすと廊下から空に向かって放り投げた。チラシは風に舞いながら路地にゆっくりと落ちていった。何気なく遠くに目をやると民家の屋根から一羽の鴉がこちらを見ている。わたしは「よう」と手を振り、急いで廊下を抜け階段を駆け降りると表へ出た。すかさず慌しく駅に向かう人々の行列に加わる。


 背中で鴉が笑った

(了)


これにて本作は終了です。読んでいただいた方ありがとうございました。

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