見出し画像

[ 穴穴家電(その5)]~創作大賞2024応募作品

 五 

 

「また来たの?」〈椿姫〉が眉間に皺を寄せ、呆れ顔で言った。

「毎度、いらっしゃいませ」堀部のオヤジは上機嫌。出迎え方が好対照である。

 何にしてもわたしはまた穴穴酒処の暖簾をくぐってしまった。昨夜の〈るうずべるとさん〉の件が頭にこびりついて離れず、部屋に帰ってもろくに眠れず、腑抜けのように床に座り込んでいたのだが、朝陽が部屋に入る頃になって猛烈な眠気に襲われ泥のように眠り、目が覚めたら夕刻で例によって空腹でいてもたってもいられなくなり、気がついたらここに来ていたのである。腕時計を見ると午後六時。今日はしっかり腕時計を身に付けてきた。この店にいると時間の感覚がおかしくなるから時計は欠かせない。

 〈椿姫〉から軽蔑のまなざしを受けながらいつもの席に座る。当然、〈るうずべるとさん〉の姿はない。誰もいない席の向こうで金銀夫婦がなんやかんやと大騒ぎをしている。左奥には〈鴎外先生〉。いつも巨大な本に隠れてろくに顔を見せたこともない。何をそんなに一生懸命に読んでいるのかは知らないが、ここまで徹底されると読書家というよりは読書狂、いや読書魔といったほうがふさわしいだろう。

 一言も発しないうちに堀部のオヤジがビールと秋刀魚の塩焼きを持ってきた。

「速いね。電子レンジかい」

「まさか。丁度来られる時間かなと思って仕込んでおいたんですよ」堀部のオヤジは胸を張った。わたしも名実共に常連客の仲間入りってわけか。

「この店で来る時間まで読まれるようになっちゃ終わりよ」〈椿姫〉は相変わらず不機嫌そうだ。例によって顔の左半分をカウンターに押し付けたまま、唇を尖らせて右目でわたしを睨んでいる。愛想のないこと極まりないが、その一方で今日はいつにも増して魅力的だ。ほつれ気味の長い黒髪が洗い髪のように濡れて光り、口紅の異様な赤との対比が妖しく美しい。偶然の産物とは思えない、計算しつくされた絵画や映像のごとき絶妙の調和。

「何見てるのよ、馬鹿」食い入るように見つめるわたしの視線が恥ずかしいのか、〈椿姫〉は視線をそらした。気のせいか頬のあたりに赤みがさしている。そんな仕草ひとつでこの〈椿姫〉という変な女が可愛く思えてくるから人間というものは不思議な動物だ。しかしわたしが彼女に見入っていたのは単にその美しさに魅入られていただけではない。初めて会ったときから感じていた妙な親近感、いや一種の既視感を今日は一段と強く感じたからだ。わたしのような中年男がこのような美女と旧知の仲というのは信じがたいのだが、確かにどこかで会ったという確信めいた感覚が頭の片隅を支配したまま居座っているのである。それも一度や二度会っただけではなく、相当親しい間柄だったような気がするのである。多分他人の空似だろうが、誰であったか、それが思い出せない。思い出そうとすると例によって灰色の渦巻きの中に入り込んでしまって身動きがとれなくなるのだ。

「しかし、ひとり、ふたりといなくなって何だか寂しくなってきたね」わたしはとめどもない記憶の散策作業から抜け出るために無理矢理話題をひねりだした。

「まったくですね。寂しくなりました。お客さんは行かないでくださいね。末永くお願いしますよ」堀部のオヤジが哀願する。

「何言っているのよ。こんなところに末永くいてどうするのさ」〈椿姫〉がまた怒ったように言った。今日は何かと絡んでくる。よほど虫の居所が悪いのだろう。

「こんなところとはまた、ご挨拶ですねえ」堀部のオヤジが頭を掻く。ふたりとも〈るうずべるとさん〉のことは何一つ聞かない。わたしも昨晩あの後何が起きたか一切話さない。話す気も無い。〈鉄砲玉〉のときと同じだ。話しても誰も興味を示さないだろうし、堀部のオヤジも〈椿姫〉も〈るうずべるとさん〉がどうなったか、おおよその見当はついているだろう。ここはそういう店だ。

「オヤジはいつからこの店をやってるんだい」わたしは前から聞きたかった質問をしてみた。どうせろくな答えは返ってこないだろうが。

「さあ、いつ頃でしたかなあ……」オヤジは腕を組んで首をひねり始めた。「一ヶ月前でしたか、もっと前でしたか。半年くらい前だったような気も」思い出すのがよほど困難とみえてそのまま座り込んで首をさらに強く振り始めた。

「おいおい、いつ開店したのかもわからないのかい」わたしは呆れ果てた。期待していなかったとはいえ、余りにもお粗末。一ヶ月と半年じゃ全然違うじゃないか。なぜ家電屋さんの中なのかということも聞いてみたかったのだが、到底答えられそうにないのでやめることにした。このオヤジも灰色の渦巻きにのまれたまま抜け出ることができない輩のひとりかもしれない。

「あんたは知っているのかい」仕方がないから〈椿姫〉に聞いてみた。「いつ頃開店したんだい、この店は」

「いつ頃開店したかって?」〈椿姫〉の右目が意味ありげに光る。「そんなことわかりきっているじゃない。あんたも知っているはずよ」赤い唇が歪む。

「どういう意味だ」

「開店したのはわたしが来た日」〈椿姫〉はおどけた調子で答えた。そして右手で髪をかきあげながら続けた。「あるいはあなたがここに来た日」

 こいつもか、とわたしは肩を落とした。どいつもこいつもまともな会話が出来るやつはいないのか。万事この調子だ。変すぎる。主人も客もまったく異常過ぎる。と嘆きながら、どこか〈椿姫〉の答えに安堵感を覚えている自分がいる。もし一ヶ月前とか三ヶ月前とか何月何日とか絶対値で答えられたらどうしようと心のどこかで怯えていた。そのことに気づいて愕然とする。わたしは絶対値を恐れている。なぜなのか。何を恐れているのか。

「じゃあ三本と三一分の五でいいんだな」右手から大きな声が上がった。叫んだのが金さんか銀さんかはわからない。声が歓喜に震えている。

「いいわよ。それでいきましょう。三本と三一分の五! それで決まりよ」やはり金さんか銀さんかわからないが、とにかく相手の女も声を張り上げた。思わず手を取り立ち上がるふたり。

 金さん、いや銀さん……いやとにかく男のほうが堀部のオヤジに叫んだ。

「オヤジいい。ついに話がまとまったぜ。手打ちだぜ。終わりだぜ。決まりだぜ、やっほう」男は足を踏み鳴らす。尋常な喜び方じゃない。

「それはそれは、おめでとうございます」堀部のオヤジがうれしそうに頭を下げる。このオヤジ、ちゃんとわかって言っているのか。甚だ疑問だ。

「はいよ、ありがとうよ。これでおさらばだ。ああ、長かった」

「ああ、長かった」相手の女も声をあわせて叫ぶ。

 男は千円札を数枚、テーブルに置いた。そして女と手をつないだまま、スキップしながら暖簾をくぐって出て行った。金銀夫婦のご退出である。呆気にとられて後姿を見送った後、カウンターを見ると堀部のオヤジが深く頭を垂れている。顔を上げると「また常連がひとり、いやふたり減りましたなあ」と呟いた。


「一体何だったんだ、あの夫婦は!」ひとりで納得している堀部のオヤジに怒鳴る。

「おっと」オヤジはわたしの勢いに鼻白んで二、三歩下がりながら答えた。「いやあ、わたしも先ほどようやく知ったんですがね」声をひそめながらまん丸の顔を近づけてくる。

「ひそひそ話す必要があるのかい。今ここにはあんたをいれて四人しかいないんだよ」

 堀部のオヤジは周りを見渡して「あれ」と呟く。なにが「あれ」だ。常連客が減ってへこんでいたばかりじゃないか。

「いやあのご夫婦はですね」ごほんと咳払い。「離婚の示談中だったんですよ。それがようやくまとまったってわけでして」

「離婚だって」わたしは目を丸くした。「おいおい、いい歳して今にもチークダンスでも踊りそうなあのふたりがかい」手をつなぎながらスキップを踏んで出て行った後姿が脳裏に蘇る。

「人は見かけによりませんですよ。あのふたりはずっと示談金の話で言い争っていたんです」したり顔のオヤジ。

「示談金? じゃあ、あの本とか枚というのは……」

「そういうことですよ。ああ嫌だ嫌だ。金の話でもめるのはねえ」

「もめるっていうか、盛り上がってたじゃないか。なんだか楽しそうだったぞ」


「だからわからないってんですよ。本当に楽しかったのかどうかはねえ。わたしら他人にはわかりませんよ」

 不愉快である。あんな楽しそうで仲の良い絵を周りに見せておいて実は離婚の示談金で争っていただと。他人をこけにするにもほどがある。しかも三本だとか四本だとか、博打じゃないんだからもう少し普通の言い方があるだろうが。まあ確かに離婚の示談話だと知ったところで我々がどうこう口を出せる話じゃあないよ。そりゃそうだが、これだけの常連客に囲まれているんだ。それをだますような真似をしちゃいかんよ。世間の常識ってやつがあるだろうが。ぶつぶつぶつぶつ。

「世間の常識ねえ」堀部のオヤジがわたしの顔を覗き込んでいる。あれ、つい口走ってしまったか。

 くくくと含み笑いをしてオヤジが背を向けた。冷蔵庫からビールを取り出すと、わたしの前に置いた。「相変わらず四画四面だねえ。これはサービスですよ」

 なんだか腹が立つがわたしだけああだこうだ言っても仕方がない。ここはビールをぐいっと行って嫌な気分もろとも飲み干してしまおう、とグラスにビールを注ぎ、一気に飲み干そうとしたそのときである。

「よっしゃあああああ」と今度は左奥の席から奇声が上がった。わたしは口に含んだビールを思わずを吹き出してしまった。「汚い……」〈椿姫〉が、わたしの醜態に目をそむける。冗談じゃない、わたしのせいじゃない。

 声の主は無論〈鴎外先生〉である。百科事典のような分厚い本をテーブルにどんと叩きつけると荒らぶる声を張り上げた。「読破読破読破読破あああああ」

 黒縁眼鏡が異様に目立つ細面の顔が歓喜に歪んでいる。両拳を思い切り振り上げているので、いくぶん小さめの学生服が今にも破けそうだ。喜びを抑えきれないと見えて金銀夫婦と同じく椅子を蹴って立ち上がると何度も飛び跳ねる。

 さすがの堀部のオヤジも事態をよく飲み込めないらしく、ぼんやり〈鴎外先生〉を眺めている。だがさすがに店の主。すぐに気を取り直して、飛び跳ねる若者のそばに駆け寄る。

「どうなさいました、先生」

「ああ、オヤジさん。やってしまいました。わたしはついにやってしまいました、ははは、ひひひ」〈先生〉は半狂乱だ。

「何をでしょう。何をやられたのでしょう」オヤジも興奮している。

「読み終わったのですよ。この本を! この大作を! くくく、ききき。全部読んでしまったのですよ。理解してしまったのですよ」とテーブルに置いた巨大な一冊の本を指差す。

「なんと、それは素晴らしい」オヤジは敬意のまなざしで〈鴎外先生〉を見た。

「もう無敵です。最大最強、完全無欠です」

 〈鴎外先生〉はそう言うと眼鏡の位置をきりりと整え、颯爽と歩き出した。「それでは失敬」と我々に一礼すると、ぎゃはははと大笑いしながら暖簾をくぐってそのまま立ち去ってしまった。堀部のオヤジがまたまた深々と頭を垂れる。

 店内にはぎゃははという高笑いがいつまでも反響を続けていたが、〈椿姫〉の一言で狂気じみた空気がいつもの空気に戻った。「でその本はなんなのよ」

「そうだ、その本はなんなんだ。図体がやたらでかいが」口火を切った〈椿姫〉本人がぴくりとも動こうとしないのでわたしは立ち上がって〈鴎外先生〉の席まで歩いていった。テーブルの上には例の巨大な本が置かれている。よく見ると本には表題も著者名も何も表示されてない。ただ赤茶けた無地のカバーに覆われているだけである。外から見ただけでは何の本やらさっぱりわからない。わたしはテーブルに置いたまま本を数頁めくってみた。目が点になった。

 その本には何も書かれてなかったのである。何枚めくってみても真っ白。文字どころか頁番号すら振られていない。メモ書きもない。驚くほど清潔で染みひとつない白い頁がどこまでも続いていた。わたしは半分までぱらぱらめくって本を閉じた。無言で自席に戻る。堀部のオヤジは素知らぬ顔で包丁を研いでいる。〈椿姫〉は眠っているのか目を閉じている。わたしは席に座り込んで腕を組む。そして考える。〈鴎外先生〉は何を読んでいたのか。あの白紙の本は何なのか。

 〈鴎外先生〉が狂っているとはなぜか思えなかった。彼は確かに読んでいたのである。白紙の頁をぼんやり眺めていたのではない。彼の行動をつぶさに追っていたわけではないが、ときおり相槌を打ったり頭を抱えてみたり何かを思い出す仕草をしてみたりじっくり擦るように頁をめくってみたり、必死に本を追いかけていた。わたしにはただの白紙に見えても彼にとってはそうではなかったはずだ。一体彼は何を読んでいたのだろう。あの白い本には何が書かれていたのだろう。

 腕組みから頬杖に姿勢を変え、グラスのビールに口をつけることもなく、何分、いや何十分とわたしは考え続けた。見かねたのか、オヤジが声をかけた。

「秋刀魚の塩焼き、もう一匹いきますかい」

「え」

「秋刀魚の塩焼きですよ。肴がないじゃありませんか」

「あ、ああ。そうしてくれ」

 そう、考えても仕方がないのだ。頭の中で何度も反すうした。この店で起きることをいちいち考えるのがいかに無駄であるか承知しているはずではなかったか。あれはただの白い本だ。何も書かれていない空白の本。ひとりの青年がそれを読んでいた。ただそれだけのことだ。

「とうとう、おふたりだけになってしまいましたなあ」コンロの煙を手で追いながら堀部のオヤジが言った。後姿が心なしか小さく見える。

「寂しいのかい」とわたしは何気に答える。

「そりゃあそうですよ、毎度のことですがね。常連さんができて時がくれば去っていく。わかってはいるんですが、やっぱり寂しいもんです」

「考えてみれば昨日までみんな揃っていたんだもんなあ」そう考えれば感慨深いものがある。〈鉄砲玉〉が壮絶な最期をとげたのは昨日の朝のことだ。昨日の今日である。なのに今カウンターに座っているのはわたしと〈椿姫〉だけだ。

「言ったでしょう。こんな店に長居するもんじゃないって」目を覚ました〈椿姫〉がぶっきらぼうに言った。「それに客には困らないでしょうに。すぐまたふらふら集まって来るわ。オヤジさん、わかってるくせに」

「そりゃそうなんですがね」堀部のオヤジが焼きあがった秋刀魚を皿に盛った。慣れた手つきでおろし大根を添える。

「問題はこのひとよ」〈椿姫〉がわたしを睨む。

「わたしですか」

「そうよ、問題はあんたよ」責めたてるような表情の中にどこか哀しさが見え隠れする。わたしの胸をまたふっと懐かしい思いがよぎった。

「自分のことを棚にあげて」苦し紛れの抗弁。

「わたしはいいのよ。あなた次第だから」〈椿姫〉は意味ありげな薄笑いを浮かべた。

「あいよできあがり」オヤジが秋刀魚を持ってくる。すぐさま箸でつつく。話題に窮したときには食って飲んで笑ってごまかすのが一番だ。

「ところで今何時だい」秋刀魚と格闘しながらわたしは訊いた。ここにいるとすぐ時間を忘れてしまう。来たばかりのような気もするし、何時間も経っているような気もする。

「あいにく時計は置いてませんので」

「そうかい。いいや」今日は腕時計を身に付けてきた。箸で秋刀魚をつつきながら左腕の時計を確認する。

「え?」

 すべての景色が止まった。あらゆる音が消えた。灰色の渦が静かに周囲を飲み込んでいく。

「あなた!」〈椿姫〉の叫び声で再び時が回り始めた。堀部のオヤジが駆け寄ってくる。

 腕時計があるべきところになかった。

 凍りついたわたしの右目の片隅に、ベルトを留めたままテーブルに転がっている腕時計が映った。腕時計を狙ったはずのわたしの視線は空振りし自分の膝元を捉えていた。

 ――左の手首から先がそっくり消失していたのである。

 わたしは思わず立ち上がった。大声で叫びたかったが恐怖の余り声も出ない。時が動き出すと共に思考も動き出す。頭の中を記憶の断片や怒りとも悲しみとも似つかない感情がうねるように駆け巡る。わたしは〈椿姫〉を見た。いつのまにかテーブルから顔を上げ両眼でわたしを正視していた。これまで見たことのない顔の左側を曝している。わたしは彼女が誰であるかを理解した。彼女の大きく見開かれたふたつの目はわたしに何かを求めていた。いや何かを迫っていた。それが何かわたしは知っているはずだった。とても重要なことなのだ。絶対に忘れてはならないことだ。しかし思い出せない。

「何しているの、早く!」〈椿姫〉がわたしの右手をつかんで揺さぶった。何度も何度も揺さぶった。わたしは呆然と立ち尽くしたまま動けない。どうして良いかわからなかった。頭の中ではまだ灰色の渦巻きがとぐろを巻いていた。何かをしなければならないという焦りは確かにあった。しかし同時に何もしなくても良いという気持ちもあった。カオスの嵐が吹き荒れる中でふたつの感情がぶつかりあっていた。

「早く早く!」〈椿姫〉がさらに強くわたしの右手を揺さぶる。わたしははっとした。必死にわたしの手を振る〈椿姫〉の大きな黒い瞳が次第に白くかすみ始め、ついにはその瞳からいくつかの透明なしずくがこぼれ落ちていた。〈椿姫〉が泣いている。涙はとめどもなくあふれ出て白い頬をびっしょりと濡らしていった。ひたすら「早く早く」と狂ったように叫びわたしの腕を揺さぶる。

 〈椿姫〉の涙を見た瞬間、わたしの中で何かが爆発した。身体の至る箇所に滞留していた不純物が一気に溶け出し、長い間解けないでいた様々な疑問が一気に氷解し始めた。先ほどまでぶつかりあっていたふたつの感情は争いをやめ、わたしはひとつの結論に達していた。早く早く。そう、早く探さなければならない。

 わたしは〈椿姫〉を抱き寄せるとそっと左頬にキスをした。彼女の涙がわたしの唇を濡らした。暖かく懐かしい涙。〈椿姫〉は白く細い手でわたしの髪の毛を撫でると優しい笑みを浮かべて席に崩れるように座り込んだ。わたしはジャンパーの襟を立てると急いで出口に向かった。「おっと忘れ物だ」暖簾に手をかけたまま、カウンターを振り返ると堀部のオヤジが深々と頭を垂れている。「オヤジ、ありがとう」カウンターに戻り一〇〇〇円札を数枚テーブルに置いた。オヤジは無言のまま顔を上げようとしない。わたしは一気に暖簾をくぐり抜け、駆け足で店を出た。外は満月。路地を全速力で駆け抜ける。これから探さなければならない。大事なわたしの左手首。難しいことではない。どこにあるかはわかっていた。すぐに見つかることも。そしてこの店に二度と来ることがないことも。

 駆け足のまま夜空を見上げた。今にも振ってきそうな巨大な満月。空に向かって吼えた。凱歌が冷たい夜の空気を切り裂いた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?