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同志少女よ、敵を撃て/逢坂冬馬 ★★★


 大概の大きな書店では、入り口近くにこの本がドカンと平積みにされているのがいっときやたら目についたものだ。今でもスペースは幾分少なくなったが、まだまだ平積みされている。言わずもがなの大ベストセラーにして本屋大賞受賞作。
 読書好きな私の友人など、この大量の平積みを見、かえって読む気が失せた、と言っていた。確かに、ブームに乗せて売りまくりたいという書店の商売心が露骨に透けて見えるし、しかもこの本が刊行されたのはロシアがウクライナに侵攻する三カ月前だったにもかかわらず、内容的にドンピシャだったため、まさにロシアとウクライナの戦争に乗っかって売れている本、というイメージでとらえられてしまった。
 逆に読もうとする気持ちが萎えるのも、まあ、わからないでもない。

 だが、それでも敢えて言う。この本はやっぱり、今、読まれるべきだ。

 以下ネタバレ書評を。
 この物語の主人公は、ロシアの片田舎に住む、セラフィマという女の子。住んでいた村をドイツ兵に焼かれ、親を殺されたセラフィマは、復讐のために狙撃兵となる。同じような境遇の女性狙撃兵仲間たちと共に、彼女が戦火の中をどのように生き抜いたか、というのが大まかなストーリーである。

 実際に、旧ソ連では女性の狙撃兵チームが編成されていた。ノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」にも女性狙撃兵の話が出てくる。歩兵よりも死亡率が高く、肉体的、精神的に最も過酷な狙撃兵として、実際に独ソ戦では1800人あまりの女性が従軍していた。
 地理学、化学、物理学などの座学、そして狙撃術、白兵戦の戦闘術を身につけ、体力選抜と国家試験ををくぐり抜けた彼女たちは、250mから1kmも離れた、動くもの静止しているもの全ての標的を射抜く技術を身につけていた。

 作者が書きたかったのは戦場に身を置く人間が晒される狂気とは如何なるものか想像してほしい、ということだろうと思う。
 戦場で殺し合うのは野蛮な男の専売特許であって、女性は銃後を守り、命を産み育む側、というステレオタイプの価値観を粉砕する、主人公=女性狙撃兵という設定が、戦場の狂気をよりいっそう鮮明に浮き上がらせる。

 ところで、ベトナム戦争を題材にした、ティム・オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」という短編集の中に「ソン・チャボンの恋人」という、一度読んだら忘れられない、ちょっと身の毛もよだつような短編がある。
 以下、こちらもネタバレになるが、粗筋を紹介しておこう。
 ベトナム戦争の最中、メアリ・アンという可愛い女の子が、恋人と会うために輸送機で前線キャンプにやってくる。キュロットスカートとピンクのセーターに身を包んだ彼女は,部隊のマスコットみたいに可愛がられ、はじめのうちは恋人と毛布に一緒にくるまって眠ったりしているが、ある時からグリーンベレーの特殊部隊の兵士たちの偵察に同行してジャングルに入っていくようになり、徐々にキャンプに戻ってこなくなる。やがて久しぶりに兵士たちの前に現れた彼女は、敵のゲリラの舌を切り取って作ったネックレスを下げている。静かな口調で恋人に別れを告げた彼女は、キュロットスカートとピンクのセーターのまま、再びグリーンベレーの男たちと共に密林奥深くに消えていく…。

 「ソン・チャボンの恋人」のメアリ・アンと同じようにセラフィマも戦場の狂気に染まってゆく。狙撃兵としてめきめきと頭角をあらわした彼女は、狙撃で初めて敵を斃し号泣するが、やがて無残な死を目にしても全く動じなくなる。狙撃の職人芸をひたすら磨き、斃した敵兵のスコアを増やすことに喜びを見出すようになる。挙句の果てには狙撃中に笑い、セラフィマを狙撃兵として育て上げた冷徹な上官イリーナから「楽しむな」と注意される。

 この物語の終盤、セラフィマは、自分の母親を撃った宿敵であるドイツの狙撃兵イェーガーと対決する。このイェーガーの造形がまたとても素晴らしい。
 そこからの怒涛の展開は息をつかせない。
 セラフィマが最後に斃した敵は誰か、そして、最後にセラフィマを最大の窮地から救った人間は誰か。
 この大どんでん返しが、この物語の最大のクライマックスとなる。ここは流石に伏せとこう。

 物語中には、実在した伝説的女性狙撃兵リュドミラ・パブリシェンコが登場する。彼女の狙撃スコアは三百を超え、敵将校で百人、狙撃兵で三十六人を数えたという。
 キエフで歴史学を専攻する大学生だった彼女は、ごく若い時に自ら過ちだったという結婚をし子供ももうけている。その後、戦場でも同僚の少尉と結婚したが、戦闘中、目の前で夫を失っている。自身の回想録中で、彼女は、親交を結んでいたルーズベルト大統領夫人エレノアに「照準器を通してはっきり顔が見えた相手を射殺するなんて、理解し難い」と言われ、「私のライフル照準器を通して見えた顔はすべて、夫を殺した敵のものなのです」と答えている。
 戦場において任務を遂行し、生き延びていくためには、余計な想像力など、邪魔なだけなのだろう。
 だが、彼女の代わりに、我々はちょっと想像してみてはどうか。
 彼女に頭を撃ち抜かれた兵士の中には、まだ10代の若者もいたはずだ。両親に愛されて育った彼は戦場でホームシックにかかっていたかもしれない。
 戦争に疑問を抱き、相手に向けて引き金を引くことに常に躊躇いを感じていた者がいたかもしれない。
 恋人との結婚を夢見ていた者、ひたすらスポーツに熱中していた者も、文学や芸術を愛していた若者もいたかもしれない。
 彼らは、無限の可能性を、将来を、たった一発の弾丸で打ち砕かれ、死体になって地面に転がり、彼女の誇るスコア、ただの数字になった。

 またちょっと話がそれるが、前述の「戦争は女の顔をしていない」の著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの作品「亜鉛の少年たち」が今月、刊行された。こちらは旧ソ連アフガニスタン帰還兵のインタビュー集である。彼らの戦場における、そして帰還後も続く、狂気に満ちた地獄の日々が、余すところなく書かれている。
 泥沼の戦争を戦った末に敗れ、祖国ソ連に帰還した彼らは、直後、今度は自国の崩壊に直面することとなる。無意味な戦争を強いられた挙句、守ろうとした祖国を失った彼らは、アフガン帰り、と呼ばれ、人殺しのレッテルを貼られた。「戦争は女の顔をしていない」でインタビューされた女性兵士たちには、大祖国戦争といわれる独ソ戦を戦い抜いて祖国を守ったという誇りがあったが、こちらにはそういう救いが微塵も無い。インタビューを受けたある兵士は、俺たちは独ソ戦争の時のドイツ兵の役回りだった、と自嘲する。そして、この兵士の言葉は、今、ウクライナにいるロシア兵が、何年かして口にする言葉かもしれない。

 今、この時も、ウクライナでは人々の血が流れ続けている。
 戦場を支配している狂気から人々を覚醒させるために必要なのは、戦場にいて、あるいは安全な場所から戦争のニュースを観ながら徐々に麻痺していく一人一人の想像力の回復だと思う。

 色々と脱線してしまった。「同志少女よ、敵を撃て」に話を戻そう。この本を純粋にエンタメ小説として読み始めたっていい。だが読み終えて本を閉じる頃には、今、現実に起きている戦争への様々な想いがいやでも脳裏を駆け巡っているはずだ。

 だからこそ、繰り返しになるが、この本は、まさに今読まれるべきだ。




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