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帰宅

 ハンドルを握っている妻の表情がいつになく硬い。生真面目ではあるがいつも温和な彼女だから、余計に何かただならぬ緊張感が伝わってくる。
 車は直線の道路を走っている。午後の空は薄暗い曇天で、朧な日差しが傾いてきている。郊外型のディスカウントショップやショッピングモールが点在するエリアを過ぎて、道の両側は雑木林や畑、田んぼばかりになり、平家か二階建ての建物もぽつりぽつりあるが、どれも無個性で、何だか倉庫のように見える。時にはもっと粗末なトタン小屋みたいなものも通り過ぎてゆく。舗装道路の路面はやや荒れているようで、断続的に小さな振動が伝わってくる。妙に気を張りつめらせての単調なドライブをずっと続けてきて、妻も疲れてるんじゃないかな、と思った。
「ちょっと休むところはないのかな、車を停めて休憩しようよ」と俺は言う。
「急がなくちゃ」と妻は答える。
「のんびり休んでいたら間に合わなくなるから」
 何に?と俺は思う。それを訊くと妻の機嫌を損ねるのではないか、という気がして、俺は黙っている。俺はすごく忘れっぽいのだ。日頃から大事なことを忘れて妻を呆れさせることが多い。
 虫に刺されたのだろうか、右手の甲が痒い。その僅かに盛り上がって赤くなっている箇所に、俺は左手の爪でバツ印をつける。

 前方の信号の無い交差点のところに黒い人影が幾つか見える。5、6人いるようだ。道の脇に立っている彼らは黒っぽい服を着ているのか、文字通り影のようにみえる。そこにただぼんやり佇んでいたいのか、交差点を横断するのかしないのか、彼らの動きは各々ばらばらで目的が感じられず、まるで野生の猿の群れのようだ。
「危ないなあ」と俺が言い、妻も少しスピードを落とした。ゆらゆら揺れる複数の人影が、交差点の中に入りこもうとしている。車を阻止しようとしているかのようにも見える。
 車を止めたら連中に囲まれて、何かされそうな、そんな嫌な気がした。
 妻も同じことを考えたのだろう。ややスピードを落としながら、彼らの横をすり抜けようと妻がハンドルを切った。
 そのとき、軽い衝撃があった。
 車の後方、路上に幾つかの黒い影が横たわっている。2人倒れている。その影がどんどん遠ざかる。
 妻は前を見たまま黙っている。このままだと轢き逃げになる。これはまずい。止まらないと、という言葉を俺は飲み込む。いつだって妻は正しい判断をする。その妻がここで止まらないという選択をした。ならばその選択に異議を差し挟む前に、理解するべきなのだ、理由がある筈だから。
 そもそも衝撃は小さかった。正面から撥ねたのではない。車の側面に掠っただけだろう。数分後には彼らは立ち上がり、あそこから歩き去るはずだ。良からぬ企みが失敗したことにぶつぶつ文句を言いながら。物乞いをしようとしたのかもしれないし、集団当たり屋なのかもしれない。いずれにせよ彼らはしくじったのだ。

 ともかく一刻も早く現場から遠ざかりたい。そう思っているのは俺も妻も同じだろう。しかし妻は殊更にスピードを上げるわけでもなく、黙って車を運転し続けている。硬い表情は変わらないが、冷静さは失ってはいないようだ。
 妻の横顔を見て、少し躊躇してから、俺は言葉を口にする。
「さっきは止まらなかったけど、それでよかったのかな」
 妻はふう、と小さく溜息をついたが黙っている。
「あいつら、わざと車に飛び込んできたみたいだったね」と俺は付け加えた。
 妻はもう一度溜息をついてから、「だめよね」と言う。
「あれは止まらなくちゃだめだった」
「…じゃ、戻らないと」
「もう今戻ったとしてと立派に轢き逃げだよ。現場にはもう警察が来ているわよ」
「でも、このまま逃げてもダメでしょ」
「いや、でも間に合わなくなるから。仕方ないけど、このままいく」
「間に合わないって、何に?」と俺はとうとう訊いてしまい、しまった、と思う。
「飛行機に決まってるでしょ」と彼女は少し苛立たしげに答える。
「空港は近いけど、普通の道はもう間に合わないから、近道を行く」と彼女は決然とした調子で言う。
 飛行機に乗って、我々は一体どこに行くのか、家にいる子供たちはどうするのか。それに、轢き逃げ事故の通報がなされていたら、空港着く前に検問が張られているかもしれない。
 どうしてよいのか、わからない。

 いつの間にか車は荒涼とした草原の中を走っている。道の脇には建物の影も形も見えない。前方を見ると、舗装された道は左右に分かれていて、右はカーブした緩やかな上り道、左手の道はものすごい急角度で真っ直ぐ上っていく。道路標識のようなものはない。いずれにしても空港は相当に標高の高いところにあるのだろう。そこに向かう左の道は、車一台がぎりぎり通れるほどの細い道幅で、長大なスキーのジャンプ台のように反り返り、上の方は垂れ込めた灰色の雲の中に消えている。急坂というよりも途中から完全に垂直にそそり立っていて、車では絶対に上れないのは一目瞭然だ。大体、上の方のあれはもう道ではない。中空を天に向かって伸びるアスファルトのリボンだ。幅からみてUターンも不可能だ。見ているだけで鳥肌が立ち、全身が竦む。左に行けば、間違いなく途中で失速し、その地点から屋根を下にして真っ逆さまに墜落することになる。
「左、行くの?」と俺。
「うん」と妻。
「あれを?」と俺。
「うん」と妻はまた言う。その声の調子で俺は悟る。ああ、わかってるんだ。このまま死ぬしかないと。彼女は腹を括っている。いつも正しい判断をしてきた彼女が、ついさっき犯した決定的な誤り。それを黙って見ていた俺も同罪だ。そしてその罪を2人で贖うために、彼女は自分が取るべき正しい行動をしようとしている。彼女なら確かに、そうするだろうな、と思う。そして俺には彼女に従う以外の選択肢は無い。そこに迷いは無い。
 胸が苦しくなった。死ぬ。遠い将来ではない。あと数分後、確実に。
 分かれ道のところに来た。妻は全く躊躇うことなく左の道に入った。草原の中を走る道幅がだんだん狭くなる。妻はアクセルを踏み込んだ。坂に入っても更に加速してゆく。ガタガタと車体が細かく振動し、背中がシートに押し付けられる。斜度がみるみるきつくなる。エンジンが耳をつんざくように咆哮する。
 前方の視界が路面と、その両側に広がる灰色の空だけになる。
 怖い。
 でも妻と一緒に逝く。じたばたしないで目を閉じて、ぐっと腹に力を入れて耐えるのだ、一瞬で終わる。
 怖い。やはり怖い。
 あと数十秒で全てが終わる。俺は息を吸った。あと何回呼吸できるだろう。

 軋む音が聞こえ、前方に投げ出される感覚とともに、一瞬無重力の感覚があり、その後シートベルトで引っ張られて再び背中からシートに押し付けられた。
 墜落ではない。妻が急ブレーキを踏んだようだ。離陸直後の飛行機よりも急な角度で車が停まっている。

「戻る」と妻が言った。
「ああ」と俺は答えた。

 坂道を慎重に真っ直ぐバックし、道幅が広くなったところでUターンした。来た道を引き返す。行きと同じように、妻は黙って硬い表情でハンドルを握っていた。
 事故を起こした現場の交差点まで来た。人影はなく、何の痕跡も残っていなかった。

 帰り着いたときには日が暮れていた。家は灯りがついていて、中から人の声が聞こえてくる。警察?と一瞬どきりとするが、玄関を開けて中に入ってみると、子供が何か叫んでいる甲高い声が聞こえる。うちの子ではない。もっと小さい子のようだ。複数の大人が笑っているのも聞こえた。どうやら大勢で集まって何かお祝いをやっている様子だ。あまり馴染みのない親戚やら、普段は挨拶程度の交流しかない近所の人やら、大勢の人が大広間に集まって談笑している。主賓はこの家の主である我々ではない、他の誰かのようだ。うちの子供たちの姿も見えない。内弁慶な彼らは他人の群れに辟易して子供部屋にいるのだろう。ところで俺たちの家はこんな豪邸だったか?という疑問がわく。だが、家はここしかありえないのだから、そうだったんだなと納得するしかない。改めて、で、これは何のお祝なんだっけ?と思うが、妙に気後して誰にもそれを訊けないのでわからない。今日はそもそもわからないことばかりだ。妻は知っている様子だが、流石に事故のことで頭が一杯とみえて、広い玄関ホールの隅に険しい顔をして黙って立っている。彼女と少し離れたところに立っている俺も、その場所から動く気がしない。繋げられたテーブルの上には色んな料理や瓶ビール、コップなどが並べられているが、全く食欲もわかない。

 死ななかった。死ねなかった。死ぬのは途方もなく恐ろしかった。だが、彼女と一緒なら死んでもよかった。

 警察は来るだろうか。事故現場で検証が行われていたような様子はなかった。ひょっとしてばれないんじゃないか、と思う。
 いや、来る。来るに違いない、と思う。現場にいて事故に遭わなかった数人は間違いなく通報しているはずだ。それに交差点だからカメラがあるかもしれない。途中にはNシステムもあるかもしれない。
 ピンポン、と飛び上がるくらい大きな音で、玄関のチャイムが鳴る。
 ああ、と思う。咄嗟に言葉が出てこない、
 お客さんだよ、誰か出て、と後ろから誰かの声が聞こえる。
 俺は玄関を開ける。

 警察官が2人立っている。そしてその後ろの暗がりに、顔を血まみれにした、黒い人影が立っていて、俺を指差す。
「病院に運ばれた方の1人は、たぶんもう助かりませんよ」
 警察官の1人が言う。
 俺は警察官が立っている前にのろのろと歩いてゆき、路上に正座し、頭を地面に擦り付けて腹の中から声を絞り出した。
「すみません、すみません、すみません」
 妻が俺の横に座り、土下座した。俺と一緒に、すみません、と叫ぶ彼女の声は悲鳴のようだ。そうだ、こんなに取り乱しながらも、妻はどこまでも正しいのだ。微かに安堵を覚えた。
 背後の玄関で人々が騒ついている。甲高い子供の嬌声と、それに続いての皿だかコップだかの割れる音と、母親らしき女性の怒声が聞こえた。
 終わった、これで全てを失った、と思った。両親が捕まった後の子供たちはどうなるのか、と思う。しかし、そもそも、俺と妻の間に子供たちはいたのだろうか、とおぼつかない気もする。

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