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メタバース: As content, as a platform, as media

メタバースが激しくバズっている。
根拠のない期待が膨らみ過ぎ、来年あたりにはバブルが弾けるのではないか。
何も起きないまま、話題だけで地に沈むにはあまりに惜しい。
本稿は、今後も粘り強く挑戦してくれる方々のために、なぜ今メタバースが話題になっているのか、今後どのように推進すべきかにつき、少しでも解像度を上げることに貢献できればと思って書いた。
本質に迫るためには、ゲーム論を拡張するのが最も効率的と考える。
ゲーム業界の方は、これを純粋にゲーム論として読んでいただければ結構。
また、広くIT業界の方々も、どうかゲームなど無関係と思わず(内心バカにしてるでしょw)、メタバース解説として一読いただければ幸いだ。
だって、メタバースって、何者として議論すればいいかすら曖昧でしょ、少し付き合ってくださいな。
順を追って説明するので、暫し辛抱して読んでいただきたい。

全体を4章で構成する。
まずは、「インターネット+パーソナルコンピュータ(以下、ネットPC)」というメディアと、コンピュータゲームというコンテンツとの関係を論じ、現時点、誕生以来最大の転換点にあることを述べる。
次に、ネットPCの次のメディアがどのようなイメージであり、ゲームというコンテンツはどこに向かっていくかにつき言及する。
以上で、メタバースの現時点での立脚点がご理解いただけるようにする。
さらに、ゲームの観点からプラットフォームの変遷を述べ、メディアが流動化する中で新たなプラットフォームとしてどのような機能が要求されるはずかを考えてみる。メタバースといえば必ず出てくる FORTNITE の開発・運営主体である Epic Games がこのタイミングで注目を浴びるのは、決して偶然でないことに納得がいくであろう。
最後にメタバースそのものについて、私見を述べる。

1.メタバース: as content, as media?

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この図は、コンピュータゲームと音楽の消費額の推移だ。
音楽(右図)については、レコード盤、カセットテープ、CD、ネットと、旧メディア(これだけなら記録媒体でしかないが、実際には再生装置とセットになっているので、「メディア」と捉える)が新メディアに完全に代替されていっている。
なお、個人消費額のグラフなので、音楽利用の時間や頻度が落ちているとは結論付けられず、また、例えばコンサート等はここには反映されていないため、縦軸が小さくなっている事は、必ずしも音楽というコンテンツが衰退していることにはならないので注意して欲しい。
さて、左を見てみると、コンピュータゲームについては、デバイスの世代交代は完全には起こっておらず、地層のように堆積していっている。勿論、PlayStation2 から PlayStation3 といった代替はあるが、誤差とみる。

何故、完全に代替されないのか?
この問いを契機として、コンテンツとメディア、さらにテクノロジーとの関係について考えてみたい。

(1) コンテンツとメディアとの関係

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この図は、コンテンツとメディアとの関係を描いている。
コンテンツは触れる事が出来ない。物質ではないため形がない。小説、音楽、映画、ゲーム、なんだってそうだが、コンテンツはメディアによって初めて生命を得る。
ここでは形にすること、すなわち、定着させ保存することを「固定」と呼ぶ。保存形態によって伝搬方法が決まる。
小説で言えば、紙とペンがあれば表現出来るが、圧倒的な普及を可能にし、知の共有に貢献したのは、印刷技術だ。聖書に始まり現在の書籍の型に収斂し、書店の流通網を通して読者の手に届くようになった。つまり、小説は、書籍というメディアに固定され、伝搬(流通)していると言える。
メディアの機能は、コンテンツの固定と伝搬で、その時点でのテクノロジーに依存する。他方、コンテンツはメディアに規定される。これが両者の関係だ。
コンテンツはメディアがなければユーザーの手に届かない。業界の名称がコンテンツではなくメディアの名称になっている点に注目して欲しい。
先の例で言えば、文豪も、その書籍が読者に届かなければただの人。ノーベル賞作家であってもメディアなしには成立しない。従って、作家業界でも小説業界でもなく、「出版」業界と呼ばれた。
レコード業界、フィルム業界等、全て、そのコンテンツが普及した際のメディアの名前が業界の名称になっている。これはメディア「化」に価値があった事の証左だ。
コンテンツ産業の実態は、メディア・コンテンツ産業だったと言える。

コンピュータゲームというコンテンツの業界は、実態を反映すればメディアである「ゲーム機」の業界、すなわちゲーム機業界と呼ばれるのが自然なはずだった。
ところが、ゲームは、誕生時から、コンテンツとメディアとの相互依存が極めて強かったので、コンテンツとメディアが混然となった、あるいはコンテンツ寄りの業界名称になったのだろう。「ゲーム業界」と呼ばれた。
やや脇道に逸れるが、ゲーム業界ではパブリッシャーという単語を使う。出版者という意味だ。しかし、ゲーム・パブリッシャーはメディアには何の関りも持っていない。任天堂をパブリッシャーと呼ぶのは分かるが、スクウェア・エニックスがパブリッシャーと言われるのは非常に違和感があった。事程左様にコンピュータゲームではメディアの観点が抜け落ちているため、しばしば議論が混乱する。
コンテンツの「You」はダ洒落なのでスルーしていただいて結構。図に入れたのは、WEB2.0、UGCの重要性の備忘のため(SNSは、メディア/コンテンツの観点というよりプラットフォームとして議論するのが妥当だろう)。

メディアとテクノロジーについてざっと見れば(右半分)、19世紀は固定の革新、20世紀は伝搬の革新だったことが分かる。ちなみに、テレビは伝搬の革新の代名詞で「マスメディア」が誕生した。
20世紀末期になるとコンピュータとインターネットという、それまでの歴史をすべて塗り替えるメディアの革新が起こる。
デジタル処理できる範囲が拡張するにしたがって、コンピュータとインターネットは、インフラ、環境と同義になり溶けていく。本質の把握においては、メディアは「概念」として今後も重要であるものの、ビジネス、テクノロジーの観点では、議論の対象はプラットフォームにシフトしていくことになる。

ディズニーの歴史

ところで、コンテンツとメディアの関係の流れを見る上でディズニーの足跡は非常に象徴的だ。

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1923年に設立したディズニーは、基本的には、スタジオ、プロダクションといったコンテンツ制作側の社名を名乗っていた。
IP(著作権)をビジネスにしたこと、テーマパークを始めたこと等、ビジネス面のイノベーションもあったが、数十年低迷することになる。20世紀半ばまではメディアがまだ振動(後述、試行錯誤の過程で型が定まらず安定しない状態)しており、コンテンツ側から収益の主導権を握るのが難しかったのも一因だろう(いや、勿論トップの問題は大きいですけどね)。
84年、満を持して、マスメディア業界からアイズナーをCEOとして迎える。
彼は、ディズニーを総合メディア企業に変革すると宣言。
20世紀後半、フィルム、テレビといったメディアが安定し始めてからは、それまでに定着したエンタメは成長、成熟期に入り、産業全体が潤う。
20世紀はメディアの世紀だったのだ。
ところが、アイズナー政権初期は業績回復に成果が出たものの、後半、低迷に入る。20世紀も末期になると技術革新が進んだことから旧来メディアは精彩を欠き、単なる地主のような立場のメディア・コングロマリッドは利益を脅かさられるようになる。「コンテンツ・イズ・キング」と言われたのはこの頃だ。
ついに2005年、アイズナーはCEOを譲ることになる。
後任のアイガーは路線を大幅に変更し、次々とコンテンツ会社を買収する。その成果が昨今のディズニーの好業績に繋がる。メディアからコンテンツに主役が移っていた点に的確に対応したわけだ。
さらに、彼が退任する頃からは、ディズニーは、ディズニー+のローンチ、および Hulu の買収で、インターネットを基礎とするプラットフォームへの変容を開始する。新しいメディアとコンテンツとの関係を探り始めたようである。さすがにネズミの王はしぶとい。

(2) コンテンツとメディアとの動的関係

次に、コンテンツとメディアとの動的な関係につき仮説を述べる。

・新たなテクノロジーにより、新たなメディアが誕生する。早晩、新たなコンテンツが産まれる。ポイントは、出発点がメディアであることだ。
・メディアは技術革新により落ち着きどころに辿り着くまで試行錯誤を繰り返す。いわば振動して進歩していく。
・コンテンツはメディアの規定を受けるので、その振幅の範囲内で振動する。コンテンツとメディアとの相互依存が高い状況では、どちらが主導か分からなくなる場合もある。後で述べるが、相互依存が激しく、犬と尻尾の関係が(例が悪いかw)判然としないのがコンピュータゲームだと思う。
・メディアの技術革新は、ビジネスの成功で加速され、いずれ収斂していき、メディアの型も落ち着いていく。メディアが受け入れられビジネスが軌道に乗ると、部品の量産、要素の改善が効き、より効率的に技術が進み、さらに市場を広げる。この良好なスパイラルが収斂に導くのだろう。
・メディアの型が収斂すると、コンテンツはその型にはめられ、成熟期に入る。
 ー次のサイクルー
・新たなテクノロジーにより、新たなメディアが誕生する。その際に新メディアに、最初に登場し、その普及を後押しするのは直前メディアで定番になった旧コンテンツだ。そして、早晩、そのメディアならではの新たなコンテンツが産まれる・・・以下続く。

仮説を辿るには、映画の例が分かり易い。
エジソンがキネトスコープを発表したのが1891年。箱を覗き込む形式からスクリーンへの投射に転換したのがリュミエール兄弟。最初の公開映画は単なる記録である「ラ・シオタ駅への列車の到着」(95年、50秒)。新メディアを瞬時で実感できる素材を考えたのだろう。
技術の向上により長尺が実現していくと、すぐにストーリーが入るようになる。「月世界旅行」はご存知の方も多いだろう(1902年、14分)。1920年代には既にチャップリンが活躍している。
以降、サイレントからトーキー、サウンドトラック、モノクロからカラーへと、着実に進歩していく。この過程で、際物も多く出ただろう。これがメディアの振幅に当たる。
一方、メディアが改良されると、その都度、映像作品が変容しながら追随していく。当初は旧コンテンツである演劇の移植だったが、それとは異なるフィルムならではの表現が完成されていく。ビジネスの観点からは30年代のハリウッド黄金期から第二次大戦をはさんで、劇場公開のビジネスモデルが確立し、フィルム業界が着地する。
メディアが収斂すると映画というコンテンツの型も固定してくる。
元々90~120分の尺は映画館の観客の回転を考慮しての結果だった。ところが、次世代メディアであるTV、ビデオでの収益機会を前提とする展開となっても基本的には単なる焼き直しでフォーマットは修正されなかった。現在に至り、焼き直しとは言えない NETFLIX の新作であっても概ね尺は同じ(ちなみにTVドラマタイプの作品もTVの尺のまま)。
もっとも、観方を変えれば、新メディアにおけるキラーコンテンツとしては堂々たる存在感で、なかなかオワコンにならないとも評価できる。
フィルム映画を脱皮し、映像コンテンツとして新たな型を試して欲しいとは思うが、旧フォーマットの収益が美味し過ぎて、なかなか挑戦が産まれない。ユーザーとのインタラクション(カメラ視点の操作等)、フィードバック(進行への影響)、外部情報との関連付けあたりは、アイデアとしてすぐに思いつくが、マネタイズするまでには至らないとの判断なのだろう。旧フォーマットに業者が満足するがゆえに進歩がない印象だ。隣接のゲーム業界からの侵略を期待する(ウソです!)。

音楽は、鑑賞の型(演奏会等)が出来上がってから科学的なメディアが登場した。コンテンツの型が既に落ち着いていたため、むしろ、その後のメディア側が合わせることになった。コンテンツ末期の展開だ(映画の例で言えば、メディアが何世代交代しても、そのままキラーコンテンツであり続けるイメージ)。
音楽家でもあったソニーの大賀社長がクラシックの尺に合わせてCDの録音時間を決めたのは雄弁な逸話。
音楽は、ネットPC時代になり、ユーザーが自由に作品を編集できるようになって、ようやく新コンテンツに脱皮しそうだ。

旧コンテンツが型を変えずに次のメディアにも持ち込まれ、新メディアならではの変更がなかなか成されないイメージを持っていただくために、手紙の小話を。
音楽と同じく、歴史が非常に長く、フォーマットが文化として定着してしまっていたため、メディアを変えたからといってコンテンツの型は簡単には変わらなかった。戦時中、電信においても手紙の文体を引きずったために敵国に暗号が解読されたのは興味深い話だ。私も外務省出向時代、電信の原稿に、「右」了承願いたい、といった縦書き文書を引きずる表現に驚いた記憶がある(電信の原稿用紙は横書き!)。e メールの文体も然り(メールと命名しなければ良かったかもね)。
ネットPCの双方向性にストレスが無くなって、ようやくチャットというニュータイプが登場した。SNSも新規。テキストのコミュニケーションにようやく手紙以外のフォーマットが加わったのである。

メディアは、コンテンツからの依存が極端に少ないと、新たに現れるメディアに容易に代替され、単なる機能、ツールとして認識されるようになる。第四の権力の中枢とまで言われたTVが、IT時代になって以降、常に存亡の危機とやり玉にあがるのはこのためであろう。TVは非常に幅広くコンテンツを乗せるが、TVでなければ不都合なコンテンツはほとんどない。
寓話としてUSB業界を仮定してみる。USBは特定のコンテンツとの依存関係はなく、デジタルであればなんでも構わない。逆にコンテンツ側から見れば、使い勝手が良いと言える。従って、記録メディアとしては存続するがUSB業界は成立しない。
USB、TVとも、「固定」の機能が限定的で「伝搬」にのみ強みを持ち、メディア機能の一部しか持たない点で共通している。

(3) ゲーム業界はネット PC 産業の切り込み隊長だった

コンピュータゲームはどう考えれば良いだろう。
ネットPCは、事務作業やコミュニケーションを想定して構想されたが、需要が盛り上がるまでにはしばらく時間を要した。一方、この面白いオモチャにエンジニアは夢中になり、コンピュータゲームを産みだす。メディアとコンテンツがほぼ同時に誕生した。
また、コンピュータゲームは複雑なアプリケーションであり、かつインタラクティブ性を特徴とするため、動作するための性能やUIの在り様を、コンテンツ側から要求する。
従って、ネットPCという新メディアの大きな流れと共振しながらも、ゲーム機という独自の下位メディアを多様に(大分類だけでも、アーケード、据置型、携帯型)生み出していった。メディアとコンテンツの相互依存が極めて強いと同時に、各々独自に激しく振動した様相は、チェーンデスマッチのようだ。

歴史を振り返ってみる。
下図は、アラン・ケイが、1972年に著した「すべての年齢の子供たちのためのパーソナルコンピュータ」の中の挿絵。この絵にあるダイナブックは、ほぼ現在のタブレットPCだ。

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90年央までをハードウェア中心のPC時代、それ以降をインターネット時代と分類するのが一般的だが、ここに見られるように、既に70年初にネット接続のタブレットPCがイメージされていたのである。
ネットワークとコンピュータは今後もインフラの主要な構成要素であり続ける。従って、その組み合わせ具合によって時代を区分するのも合理的と考える。
ここでは、ネットPCを「組み合わせその一」として、一流れとして捉えていただきたい(ちなみに次のメディアは、組み合わせその二)。
ここに向かって産業全体が試行錯誤し収斂していくと理解する。

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この図は、上段がネットPCの歴史。
「振動」をイメージしてみて欲しい。
・電卓、ワープロ等、コンピュータを活かした一部機能に特化したデバイスのパーソナル化が始まる。
・PCは、これら機能を徐々に取り込み汎用化していきハードとしては統一。windows95でソフト面でもほぼ統一され、安定する。
・90年代末期からは、通信機能を標準装備し、さらに小型化する事で、パーソナル化を徹底し、スマートフォンに着地していく。
・実はアラン・ケイ達が活躍したパルアルトでは、PCのイブである Alto が73年に製品として出ており、この時点で既にパソコンの構想は出来上がっていた。この点がネットPCの歴史の特徴的なポイントだ。

下段がゲーム機の移り変わり。
・ネットPCと異なり、ゲームには最終形のイメージはなかった。その都度、驚きを求めて技術の可能性の際まで試しにいく。
・アーケードゲーム第一号の「コンピュータースペース」が登場したのはPC構想とほぼ同時期。
・80年代初期、すなわち、ポケコン、電子手帳が話題になり始めた頃に、任天堂がゲームウォッチを出している。さらに、ワープロ(機能限定PCとして最も普及した)が出る数年前に、日本で家庭用ゲーム機が「普及」する。つまり、PCの歴史における、専用機の普及で、ゲームが先行していたのだ。
・また、そこからわずか数年後に、完全パーソナル化を実現する携帯ゲーム機が世に出る。ガラケーより10年先行するばかりか、普及しなかったパームトップPCと比べても早い。
・目を転じて通信についても、80年代半ばに、既にMMORPG(Massively Multiplayer Online Role-Playing Game)が始まっている(ちなみに、これがメタバースの原型)。
・さらに言えば、PC側としても、最初期のホビーパソコンのキラーコンテンツはゲームだった。日本の家庭用ゲームの黎明期を支えたのはホビーパソコンのプログラマー達だったのだ。
なお、図に加えたTK-80は、PC普及を促すためにNECがエンジニアに配った教育キットであり、結果としてホビーパソコンの基礎を作る。推進された方が後のコンピュータエンタテインメント協会の専務理事に就任なさったのも不思議なご縁だ。

振り返れば、ゲーム業界はパソコン産業の振幅の最大振れ幅を試しに行く切り込み隊長だったともいえる。

しかし、そうは言っても、メディアが収斂に向かう大きな振幅の中で動いていたことには変わりない。
・90年代後半以降、PCがデスクトップ形態についてはほぼ着地したあたりから、据置型ゲーム機も専用機からハイブリッド機となることで(PS2、Xboxは、ゲーム機+DVDプレイヤーのハイブリッド)、汎用機であるPCに歩み寄っていく。その後、PCの性能向上にさらに拍車がかかり、グラフィック処理を極端に強化していない通常のPCであってもゲームがプレイできるようになっていく。2010年代に入ると、ゲーム機同士での特徴の違いも無くなり、ほぼPCといえる代物になっていく。PS2は癖が強くて厄介だと言っていたゲーム開発者の愚痴も懐かしい(いや、ホントただの愚痴ですから。有難いマシーンでしたよ!)。
・さて、そんな中、2000年代半ば、任天堂がゲーム人口拡大を旗印に掲げる。時代の流れに抗うように、機能はゲームプレイに特化し、さらには他のどのデバイスとも一切互換性を持たない、ニンテンドーDS、Wii を発売する。俯瞰してみると、これがいかに勇敢な試みであったかが理解できると思う。第一ラウンドは任天堂がリスクを取った分圧勝するが、栄華は5年ともたず、直後に3年連続の赤字に転落する。そもそも任天堂でなかったら1勝することすら奇跡だったので任天堂の偉大さが分かるが、やはり大局の流れのエネルギーがいかに大きいかを見せつけられるエピソードだと思う。
これが、ゲーム機の反乱(vs PC)の最後となった。

コンピュータゲームという暴れ馬のコンテンツに伴走したゲーム機という用途特化のメディアは、ネットワーク+パソコンという上位概念のメディアの振幅の最先端を突く専用機として歴史を推し進めたが、徐々に歩み寄り収まっていった。

最後に、PCにはないゲーム独自のインタフェイスであるコントローラの歴史を見ることで再確認してみたい。
ゲームは、コントローラの範囲内でしかデザインできない。つまり、コントローラの型に嵌められるわけだ。

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写真では上に行くほど古いのだが、今見てみると、もう何の器具だか分からないね。
アーケードでは一台一ゲームなので、現在でもなおアーケードゲーム機の物理的 UI は、よく言えば多様、言い方によっては混とんとしているが、他方、家庭用ゲーム機のコントローラは、一台で複数ゲームがプレイできるように作られたものであり、汎用性確保が使命だった。それでもなお、これだけ、ゲーム機によって異なっていたのである。
ところが2000年代半ばあたりからは、どのゲーム機のコントローラもほぼ同じになっていった。最下段になると、据置型につき、PlayStation、Xbox、Nintendo Switch とデザインが全く同じである事が分かるだろう。
携帯型はスマホが吸収した。結果として、スマホのUIが、現時点最も普及している「ゲームUI」と言える(右上)。
現時点でのコントローラはこの二種類に収斂した。
なお、VRのコントローラは右下の矢印。Wii コントローラも似ている(左下)。視覚が使えないものについてはこの辺りに収斂していきそうだ。

最初の図を再掲する。

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この図には、両者の、そもそものコンテンツとメディアとの関係性の違いと、コンテンツ及びメディアのステージの違いが反映していたと言える。

音楽
・アウトプットが単純なコンテンツであるため、メディア依存度が低い。
・さらに、コンテンツの型は、近代メディア以前に決まっていたため、むしろメディアがコンテンツに合わせに行くステージだった。
・従って、技術革新により新たなメディアが登場する度に、コンテンツは旧型のままメディアを乗り換えてきた。

コンピュータゲーム
・コンテンツは、インタラクティブであり、また、動作環境に極めて高い性能を要求したため、コンテンツ専用のデバイスへのニーズが常時存在した。相互依存が極めて高く、コンテンツ、専用メディア共、大きく振動してきた(ゲームは、ネットPCというメディアがなければ成立しないが、一方では、このメディアの進化における切り込み隊長だった)。
・ネットPC構想の誕生からスマホに収斂していく過程で、各々の振幅の極端で、専用機としてのゲーム機は多様な型を生み出し、コンテンツとしてのゲームをそのデバイスに応じて開花させていった。固有のゲーム体験を実現してきたため、都度新たなユーザーを市場に招き入れると共に、デバイス毎のユーザーも維持してきた。
ここまでが図に示してある「過去」だ。
・しかしながら、ネットPCの型が収斂したため、ゲーム機もその中に収まっていき、コンテンツであるテレビゲームも型にはまっていく。この流れは加速すると思われ、今後のグラフを描けば、単色に収斂していくであろう。つまり、ここまでの50年弱で、ようやく一週目が終わりつつあるのだ。

余談だが、私がこの図を初めて外部に提示したのは15年前だ。コンピュータゲームは一つの市場で、デバイスの違いはやがて収斂していくとの仮説を持っていたため。
当時は、家庭用ゲーム業界とアーケード業界とは全く別モノと認識されており、統計資料も別だった。携帯電話はまだ限界事例に過ぎず、PCについては日本では市場が小さ過ぎた。また、諸外国ではアーケードゲーム市場はほぼ壊滅しており、携帯電話についてはカジュアルゲームの特殊事例との認識で、ゲーム市場と言えば家庭用ゲーム市場を意味していた。
誰しもこの図を使うようになった15年後の現在が、その分析が無効になるタイミングだから面白い。

私は、過去数年、テレビゲームが重大なターニングポイントに来ていると訴えてきたが、発言をまとめた論考も書いているので参考にしていただければ幸いだ(2018年版、これも長いけどね)。

以下、予告編も含めたまとめ。

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ネットPCというメディアが当面の着地をしたのであれば、次のメディアは何になるか。
パーソナル・コンピュータから環境コンピュータになると考えるのが妥当だろう。
ネットとコンピュータの「組み合わせ1」が、全ての機能をひとつの箱に詰め込み、各ノードが主体となってインターネットで繋っていたのに対して、「組み合わせ2」では、コンピュータの機能をアンバンドルしてユビキタス化し、それらを各種通信で繋げることで、全体として大きな主体を形成する。端的に言えば、機能単位の範囲の違いとみる。
ここで定義を試みても、冗長になる割には確かな中身は示せない。Society 5.0、デジタルネイチャー等、昨今ではこのタイプの概念が随所で展開されているので、フワッとそんなものと思っていただければ本稿の理解に支障はない。

テレビゲームの進化が終焉したと言っても、市場がいきなり縮小するという事ではない。また、ネットPCと環境PCは、いずれも「組み合わせ」の違いなので、双方とも、どちらかに代替され消滅することはない。
テレビゲームが、今後、テクノロジーの最先端となることはないだろうし、全く新しい体験を提供し桁違いの大ブームになりもしないだろうということだ。映画の歴史をイメージすれば分かり易いと思う(分かりにくいでしょうが、ここ、映画をメッチャ褒めてますからね!)。
コンテンツが型にはまると、ユーザーからの足切りラインが上がる一方で(エントリー・コストが上がる)、飛躍はないので感動の上限は上がらない(アップサイドが限定的)。成熟期は資本力勝負にならざるを得ない。

(4) 「今見えているメタバース」とは何者か

この図はコンピュータゲームの系譜を書いてみたもの。
太さ等は勢力のつもり。右に向かって時間が流れていく。現時点は紫の個所と認識している。ネットPCをメディアとするコンテンツは、コンピュータゲームの中でもあえてテレビゲームと呼ぶ事とする。対して、新メディアにおけるそれはポスト・テレビゲームと名付ける(どのような姿になるか分からないのでいい加減な命名)。

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さて、ここで「今見えているメタバース」とは何者なのか考えてみたい。
縷々述べてきた理屈から言えば、メディアとは言えず、どちらかというとコンテンツなのだろう。
問題は、コンテンツと看做した場合の立ち位置である。

ゲームから俯瞰すれば、テレビゲーム時代の末期において、次のメディアで誕生するはずのポスト・テレビゲームに向けて旧テレビゲームが橋渡しの役割を果たすイメージ。テレビゲームとは言っても、型にはまった上にゲーム色が脱色され、ほぼUIと言えるほど抽象化された姿(メタバースの「操作」について疑問を持ったことがないですよね、これはゲームそのものとして考えれば不自然なことなんです)。
また、VRがメタバースと同時に語られるのは、VRが、環境コンピュータ時代になった際のデバイスの一つであるためだ。しかしながら、まだメタバースの橋は、ネットPCから建築が始まったところで、環境コンピュータという向こう岸に届いていない(向こう岸がまだ完全な陸地になっていないため)。
同じくネットPCをメディアとしていた各種インターネット・コンテンツ(≒サービス)においても似たような事情なのではないだろうか。
次の「・・・」(かっこ内には、SNS等、大概のものは入る)という表現がこれ。ゲームの事情から推すと、現メディア内での持続的変化ではなく、新メディアにおける革新を予感しているのだろう。ところが、肝心の次の メディアの姿が固まらないので、何やらモヤモヤした状況。

この段階で、少なくとも二点は指摘できる。

一点目:
肝になってくる「(ヒトが体験する)3D空間」の扱いはゲームの技術に依存する。
この分野で知見を持つ他の産業が現時点で稀少なためだ。また、今後も当分の間、メタバース固有のビジネスが技術革新を負担できるまで発展するとは期待しずらいので、ゲーム業界の技術がメタバースの機能を規定するだろう(テレビゲームは今後も儲かるから)。なお、GAFAM は要素技術を大きく進歩させるだろうが、3D空間の統合的処理について貢献するとは、(少なくとも当分の間は)信じ難い。

過渡期である現在と、テレビゲームがネットPCメディアでの切り込み隊長となった時とは、環境コンピュータのイメージが明らかでない点において異なる。
しかしながら、懸け橋のメタバースもゲームの技術が切り拓いていくからには、コンピュータゲームが次世代メディアの斥候になる可能性は極めて高い(ゲーム業界の諸君は、IT業界人と仲良しになって励んでください)。

二点目:
新コンテンツ/サービスを目指すとは言え、新メディアがまだ明らかではない以上、旧コンテンツ/サービスの強みで梃を働かせなければ壁は突破できない。
現段階でのメタバースはコンテンツであるとの自覚がなく、現実世界をデジタルにコピーすれば足りると考え、ほぼ丸腰で向かおうとしている勢力には一過性の話題で終わるリスクを感じる(そもそもコピーなどできないのだが、「現実はコピーはできない」の意味はゲーム開発したか否かで理解が大幅に異なる)。


2.新しいメディアにおけるゲームの新たな展開

テレビゲームは成熟期に入るが、今後も存在感を維持するであろう(タイタンの殴り合いに参戦したい方はどうぞ)。

ここでは、新メディアを意識した際の、コンピュータゲームの新たな展開につき簡単に触れてみる(まともに論究すると長くなるので、本稿ではサワリ程度にする)。

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一つは、メディアは新旧いずれか問わないが、ネットPCで定着したコンテンツの延長として、ユーザーとコンテンツとの関りに革新を起こす方向。
もう一つは、次のメディア(環境コンピュータ)のコンテンツに進化していく姿。これをポスト・テレビゲームとする。

(1) ノン・プレイヤー市場の成長

ノン・プレイヤー市場から説明する。
まずは、価値の源泉の遷移を見て欲しい(何度も話しているので聞いたことがある方は飛ばしてください)。

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図の一番左。ワープロを例にすれば、まずは一体型ハードが出てくる。東芝ルポなど一世を風靡した(古い)。しばらくしてPCが普及しソフトとハードが分離する。すると、どこのPCでも構わないが、どうしても「一太郎」がほしいといった状況になる(これも古いかw)。つまりソフトにこそ価値があると認識されたわけだ。
次に優れて会計ソフトソフトがリリースされても、会計固有の作法を反映したデータがなければただのスプレッドシートにしかならない。ゲームで言えば、アルゴリズムもさることながら、グラフィクスや音楽というデータにより価値が認められるということだ。ソフトが要素に分解できた時、コードからデータに価値が移る。
さらに次の段階。同じゲームタイトルをプレイしても、ユーザー毎に体験が異なる。販売しているディスクよりもセーブデータの方がユーザーにとってはかけがえのないモノと言える。既成データよりもユーザーデータの方に価値が移っていく。
さらにマルチプレイが普及すると、フレンドとの共通体験こそが最高の価値になる。一人では成立しないコミュニティ、さらには一度きりしかないという意味でライブへ。
つまり、「経験価値」に向かって価値の源泉が推移していくという主張だ。
私はこの図も15年程前から使っているが、最近一アイテムを加えた。右上の Physical 体験だ。ここまでテクノロジーが進歩するとPhysical な世界とDigital な世界が呼応するようになる。別々に存在した価値が共鳴していくイメージを持ってほしい。

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コンテンツとユーザーとの関係につき、コンピュータゲームは非常に広範に設計しうると考えている。ノン・プレイヤー市場のポテンシャルの大きさを信じる根拠の一つだ。
おそらく二つの要因が関係していると思う。一つは、コンピュータゲームがインタラクティブなコンテンツであるという点。
もう一つ、こちらが遥かに重要なのだが、ゲーム世界はもともと世界が丸ごと人工的であるために、ユーザーとコンテンツ、ユーザー間の環境を自由に設計、実装できる点(メタバースにおいても重要な論点)。

ゲーム「を」プレイするのではなく、ゲーム「で」プレイする市場と言える。

既に実例は出始めている。
・ e-sports とゲーム実況は、一般経済紙でも取り上げられるまでに認識されるようになった。
観戦については市民権を持ったが、残念ながら今に至っても、あくまで通常ゲームの二次利用になっている。ゲーム開発当初より、この市場も含めたゲームデザインとマネタイズプランを考えれば、大きく飛躍するのは間違いない。
・「視聴」から「参加」に一歩踏み込んだ挑戦もある。
MILE(Massive Interactive Live Events)を提唱する Genvid 社が先駆的だ。
勇気ある挑戦にエールを送りたい。

・さらに進んで、ユーザーが開発行為にまで及んでしまう実例も出てきている。Minecraft、Roblox は、いずれも世界中の若年層を魅了している。
これまでもセミプロ、あるいはプロの余暇としてMOD等(modification、既存のゲームのコードに改変を加えること)の活動はあったが、かくも広範に「ゲーム開発(勿論、サワリにしか過ぎないが)」が普及したのは初めてだ。文字通り、世界中の低年齢層が同じ体験をしているのは驚異的だ。次世代メディアを考える際、看過できないポイントになると考える。
ホビーパソコン時代に雑誌に投稿していたティーン達が、日本のゲーム黎明期に果たした役割は大きかった。今回は、それ以上のインパクトがあるだろう。

最後に一言。
ノン・プレイヤー市場のコンテンツ/サービスデザインは、コンピュータゲーム以外にも展開が可能だ。

スポーツ、音楽、さらには広義ゲーム(チェス、さらにさらに日常的な賭け等、対象は無限)のプレイヤー、ノン・プレイヤーに関わる仕掛けは、プレイ空間をデジタル化すればコンピュータゲームと同等の設計が出来る(社長のままだったらオリンピックで実験してたね、残念)。
そもそも私がこの発想を得たのは、Physical な野球と将棋からだ。両者とも、「楽しみ方」が極めて多様。

(2) 次世代メディアのイメージ

二つ目の、ネットPCの次のメディアで成立するコンテンツにつき述べる前に、前提となる環境コンピュータについて概観してみる。
ノン・プレイヤー市場については、論理的に展望できるが(タイミングはともかく、何が起こるかは分かる)、環境コンピュータがどのような姿になるか、ましてや何時そうなるかは予測できない。

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これは、次世代メディアを構成する要素だ。
各々が革命主役級の破壊力を持っている上に、全てが影響し合いながら進歩していく。無限の組み合わせがあるにも関わらず、この世界では、たった一通りしか実現しない。複雑系、三体問題、どう捉えていただいてもいいが、予測不能である事は自覚すべきだ。

テクノロジーの行方だけでも予測ができないのに、そもそも社会の変化は極めて複雑だ。

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テクノロジーとビジネス、制度、文化/価値観が相互に作用して世界は変わっていく。この点については、未来の予測というより、未来の変革に関わっていく際に留意しておくべきだと思う。
相互に影響しながら全体が固まりかかると、そこを踏み台にしてまた要素の可変部分が影響しあい、次に登っていくイメージ。
テクノロジー、ビジネスに通じている人材も、驚くほど、制度や文化/価値観を軽く考えているので要注意だ。全体を視野に入れるべし。

最後に、未来への対応を検討する際、インパクトについてのイメージが重要だという点にも触れておく。かなりいい線を突いたとしても、これを間違えると対応を誤る。
スマホを例に述べる。
「スマホが流行ると予測できなかったオジサン達」と、自分は別と言わんばかりにディスる者がいるが、iPhone が電話ではなくPCであり、またネットと常時接続であり、ガラケーは当然に駆逐されるくらいのことは、少し気の利いたビジネスマンなら理解できていた。現に私も社内では相当早くスマホシフトの号令をかけていた。ところが、(私もその一人だが)以下の二点、つまり、有力な選択肢ではなくスマホ・ファーストになることと、経済先進国だけではなく世界の隅々までほぼ一瞬にして普及することは想像できなかった。実務的には、この点こそが重要だったのだ。

さて、未来予想への楽観論を挫いたところで、どのようなスタンスで臨むべきかにつき一言(萎えていても仕方ないからね)。

私は、預言者を気取るつもりもないし占い師に転職しようとも思っていない。私が未来を展望するのは、ことの本質を見極める上で、思考実験としての未来予測が最も有効だからだ(予測できないと主張する立場なのに考える意味)。

見極めた上でどうするか。アラン・ケイの至言を借りる。
" The best way to predict the future is to invent it."

上品過ぎてニュアンスが伝わらないので超訳しておく。
「将来予測が確かかなどと聞かれても分かるわけないだろ。確実に言えるのは、始めなければ、ここに示した未来は永遠に来ないということだ。ゴタクを並べていないで、とっととプロジェクトにゴーサイン出しやがれ!」

step1 本質の理解
step2 ビジョンと情熱でチャージ
step3 断行!!
これしかない。

身もふたもないので、少しだけ道標らしきものを指摘すると、今回の変化は通信(5G、6G)から目を離さないのが賢明だと思う。
ネットPC時代のように、IBMがいきなり外部に研究成果を晒すようなことは期待できないし(これが水平統合モデルの起源)、そもそも単独企業で構想できる代物ではない。しかしながら、唯一、通信だけが全要素と接続する必要がある。他の要素とは独立して、かつ「インターネットとは別に」追いかけると良いだろう。

以下はご参考。


では、気を取り直して。

次なるコンピュータの世界を概念的にまとめると下図のようになるのだろう。
概念図は簡単に書ける。
各種センサーが長日の進歩を遂げ、AI の digital への翻訳能力が向上し、5G以降の通信技術は機能のアンバンドルを可能にする。
世界においてデジタルデータで処理できる範囲が飛躍的に拡大することから当然に帰結する姿だ。

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あらゆる情報が共通言語であるデジタルに翻訳されるようになれば、世界も、それを認識する人間(brain)も、神経が繋がってしまう。

最下段、人間と書かず、brain と書いたのは、人間と外部との境界が必ずしも身体ではなくなるため。
インプット、アウトプットとも、身体+拡張デバイスで機能する。総じてこれらが Human Augmentation(人間拡張)。
また、接続先は、Physical 世界とDigital 世界が同等になる。
さらに、Physical 世界と Digital 世界とは、相互に(かつ自律的に)情報を交換し、動いていく。
これまでの境界線があいまいになる。先程、ネットPC時代と環境コンピュータ時代の違いは、機能単位の範囲の違いであると述べたのは、この状況を基礎としている。

微妙にゲームをイメージしながら、軽く概観する。

インプット

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インプットについては各種センサーが人間の知覚の構成要素に加わる。
視覚を例とすれば、「見える」範囲は可視光線以外にも広がってくる。赤外線カメラなどは身近だが、拡張するとはどのようなイメージか。
天体写真を例にすれば、ハッブル宇宙望遠鏡で撮影した美しい写真は、我々が認識できる色彩に変換して処理した結果であり、実際に天体があのように発色しているわけではない。可視光線以外の波長も人間が知覚できる工夫を施せば大きく拡張される。
また、このような「翻訳」すら不要になるかもしれない。人間の脳の開拓余地は、底知れないようだ。
これは、五感全てにおいて当てはまる。

アウトプット

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この写真は二人陣羽をVRで実行したもの。二人の一体感が感じられるとか(やったことないけど)。
また、人間は第三の腕を操作することも出来る。
これも実際には脳の問題なので、身体に直接接続するのも、遠隔とするのも、双方のデバイスがありうる。

攻殻機動隊を組織するのに30年はかからないだろう。

VR
新しいタイプのインプット、アウトプットについては、既に簡易デバイスが普及し始めている。それが VR のヘッドマウント・ディスプレイだが、提供価値として「没入感」しか謳っていないのが気になる。影響は遥かに深いと自覚して推進すべきだ。
ここでは三点だけ指摘しておこう。

一点目:
人間が思考する際に基礎とする次元は、ツールによって変わる。
議論、口伝は1次元、書籍も1次元だろう。板書(& バンカーが良く使うペーパーナプキン)は2次元。
私見では、PCによって2次元思考が深化、普及したと考えている。端的にはスプレッドシートだ。30年前、自然にあのイメージで計算できていた人は稀少だった。グラフについては19世紀から普及しており現代人の大半が読めるようになっているが(作れるようになったのはPCのおかげ)、スプレッドシートは最近だ。
目下、スマホになり、思考が1次元化しているように思われる(マルチウィンドウではない、画面が小さいため能動よりも受動のウェイトが高いであろう等の点で、PCとは異なる)。
VRは3次元の表現を本格的に考えるべきだ。
現在の2次元プレゼンの表現そのものが、思考を制約している。4象限で整理したり、グラフも平面。「縦横斜めでちゃんとチェックしたか」なども2次元思考。
将来、学校やビジネスで日常的に3次元空間を使った表現をするようになれば、思考は進化するはずだ。

二点目:
デバイスがパーソナル化する流れで、どんどん「ながら」が排除されていっている。時間の奪い合いがテーマになっているのは、その証左。
ところが、VRの世界に入ると、五感の相当部分を占拠するので、逆に「ながら」を演出しうる。本気で考えれば可能性は広がるはずだ。

三点目:
視覚以外の感覚の開拓余地が大きい点も自覚すべき。
視覚的な没入感ばかりが語られるが、聴覚のインパクトはさらに大きいはずだ。また、追加的なデバイスを使えば、五感に広げる事もできる。実はこちらの方が新規分野で影響が大きい。

Physical 世界とDigital 世界
Physical 世界とDigital 世界とが融合してくるイメージが掴みにくいようなら、既に存在する事例のグラデーションをスポーツを例に見てみよう。
左端が生身の人間、右端が人工物。パラリンピックは競技用補助具を装着して競技され、超人スポーツはこれにデジタル的な補助も加えて身体拡張をして競技を楽しむ。AR/VRを利用したゲームは既に一般向けに販売されており、テレビゲームのスポーツゲーム・ジャンルは、いまや実際の選手にしか見えないキャラクターを操作し、同時に全体指揮もとるデザインになっている。

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下図は、Physical 空間とDigital 空間をどのように連携させるかを説明したもの。"SimCity"(都市建設のシムレーションゲーム)の多層構造を説明した図を彷彿とさせる。

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Digital 世界にフォーカスして話題になっているのがメタバースとすれば、Physical 世界の革新として語られているのが、スマートシティとスマートモビリティだろう。データ構造を視覚化すれば、ほぼゲーム開発画面と同じで面白い。

革新を失ったテレビゲームというコンテンツが、革新的な次なるメディア、例えばAR、VR に移っていく懸け橋になっているのがメタバースかもしれない。
他方、デジタル処理がようやく本格的に始まったのがスマートシティ。ここにはメタバース「的な」ノウハウが極めて有用だ。
この両極端が出会った地点に、環境コンピュータが少しイメージできるかもしれない。

最後に、恐ろしい側面も指摘しておく。

インプット、アウトプットにつき以上見てきたような状況は、要するに人間の知覚がハックされ認識のありように大きな影響を受け始めるということだ。
認知障害は、認知が劣っているのではなく、認知特性が異なるとの見解がある。「これからの人間の多様性」は現時点で想定しているよりも遥かに富んでいるはずだ。倫理、常識も変わらなければ、社会の軋轢は高まるだろう。

また、コンピュータゲームではないが、代替現実ゲーム(Alternate Reality Game)というジャンルがある。町の標識、ポスター、電話等で断片的にユーザーに情報を与え、謎を解いていくもの。
Physical と Digital が交錯した世界にあっては、いともたやすく演出できてしまう。
テラスハウス問題などというレベルではなくなる。
何が現実で何が虚構かの判別がつかなくならないように、ゲームへの導入ルールも決めた方が良いかもしれない(魔法のお城に行くまでの細くまがった坂道や催眠術の導入・暗示のような仕掛け。太陽を二つにしておくとかね)。

(3) ポスト・テレビゲームの創造

社会現象になるようなヒットタイトルは、新興メディアならではの驚きを体現している。
ゲーム機はネットPCの(概念的)下位メディアとは言え、刷新される度に象徴的なコンテンツが出て節目となり、業界全体の成長を促進してきた(以下、日本のユーザー視点で列挙)。

1972年 ポン(ゲームセンターに登場した簡易卓球ゲーム)
 TVの中を動かせる! これでゲーム業界が誕生した。
1978年 スペースインベーダー
 ICチップの性能が上がったことでアーケードゲームの表現力が格段に上が
 り、コンピュータゲームがエンタテインメントとして市民権を得た。
1986年 ドラゴンクエスト
 家庭用ゲームは、データをセーブ出来たのでゲームプレイ時間が劇的に増
 え(アーケードゲームの1,2分から一挙に数十時間)、ゲームがストー
 リーを持つようになった。
1997年 ファイナルファンタジー 7
 記録メディアがCDになりデータ容量が劇的に増加+マシーンの処理能力が
 向上し3D描画が可能になった。これ以降、「映画のようなゲーム」が目標
 とされ、映画、音楽、ゲームのユーザーが融合し、ゲームはエンタテイン
 メントの主流になっていった。
2004年 ニンテンドーDS、Wii
 タッチパネル、Wiiコントローラでカジュアル層にもアピール(ゲーマー= 
 コントローラの使い手、に対するアンチテーゼ)。
2005年 モンスターハンター・ポータブル
 インターネットで仮想的につながるのではなく、実際に集まって声をかけ
 合いハントする気軽さからヒットし、日本にマルチプレーを普及させた。
2009年 怪盗ロワイヤル
 常時接続(ガラケー)ゆえの油断ならない展開が新鮮で、ケータイゲーム
 ブームの火付け役に。特にFree to Play(以下 F2P、基本無料のアイテム課金)を違和感なく浸透させ、モバイルゲーム時代のビジネス的基礎を確立したのは重要。
2009年 アングリーバード
 スマホのタッチパネルならではのパチンコのゴムを引っ張るような操作と
 端末性能向上により可能となった2次元物理演算のリアルな動きで、ケー
 タイからスマホへの移行のきっかけになった。

残念ながら、次世代メディアについて完成形のイメージはまだ持てないので、変化を梃にするコンテンツ戦略は取れない。
辛うじてデバイスの変わり目をうまく活用する戦術はありうるが、あくまでデバイス止まりなのではタイトルの広がりは限定的になるだろう。
ポケモンGOやドラクエ・ウォークは、GPS機能を使った位置ゲームで成功したが、一要素の活用に過ぎないので広がりがなく、ひしめき合ってタイトルが続くようなことにはならない。
VRも、今後ヒット作は出るだろうが、まだ決め手に欠ける。

分からないとはいえ、勿論、まずはこれらを狙いに行くのが筋ではある。
しかし、もっと前進するためのテーマはないのか。

いっそ原点に返って、コンピュータゲームの定義を再検証してみる。
私は「コンピュータゲームとは、コンピュータによって形成されるルールを基礎とするエンタテインメント(テレビゲームもポスト・テレビゲームも、この定義の中)」と定義する。

「コンピュータによって形成されるルールを基礎とする」
これは環境コンピュータ時代になれば、エンタメ以外のあらゆる分野でみられることになる。新たな世界では、人間の知覚が拡張され、環境が人工的なアルゴリズムとして社会に関わってくる。つまり、世界全体がゲームのように構成されるようになる。
テクノロジーが先⾏して、⼈間が未消化なまま世界が歪に出来てしまえば、事後的に修正するのは事実上不可能だろう。従って、コンピュータゲームが、社会実装される前に「体験」そのものを提供し、世の中に未来をシミュレートしてもらう機会を提供する役割を果たしてはどうだろう(勿論、ここで⾔う未来のシミュレーションとは、未来を題材にしたゲームという意味ではない)。おそらくその場合の digital 世界の実験場は、メタバースだ。

SFは⽂章で未来を⾒せてくれた。
シド・ミードのようなアーティストはデザインで未来のリハーサルをしてくれた。
これからゲーム業界が目指すべきは、未来の体験のシミュレーションを提供することではないだろうか。

2章のまとめ

メディアとしてのコンピュータを振り返った時、ネットPCの初期時点で既にゴールのイメージがあったことは先述の通り。その際、暴れ馬のゲームが極端を突きに行くことにいい意味で振り回されながら、歴史は正しい着地に向かった。
ところが、次世代のコンピュータの最終イメージはない。
観方を変えれば、これまで以上に、暴れ馬としてのゲームが果たす役割が大きいのではないか。
コンピュータゲームが、未来のシミュレーションの場となることで、次のメディア、ひいては社会の「型」の形成に深く関わると考える。


3.メタバース: as a platform

コンピュータとインターネットがあまねく浸透した現在では、もはやメディアというより、インフラ、環境と表現された方が実感と合う。
若干なりとも粒度を細かくしたものがプラットフォームなのだろう。
ここで、プラットフォームとは、あるメディア(あるいはメディアをまたいで)において複数機能の有機的統合を行う事で、情報の交流を滑らかにするものと定義する。そしてネットワーク効果をその本質的力とする。
メディアが発信者と受信者を繋ぐものとすれば、プラットフォームは機能の意味ある繋がりと言える。

(1) プラットフォームの提供価値

プラットフォームがどのような機能を担い、価値を提供し、対価を得ているかは、状況によって異なる。コンピュータゲームの歴史に照らせば、目下が新たな「層」のプラットフォームが産まれるタイミングかもしれない。

手数料と提供価値

下図は、プラットフォームが徴求する手数料とその提供価値を表したもの。
FORTNITE 紛争により、アップルの要求する30%が暴利だと話題になったが、歴史的に見て妥当か否か考えてみて欲しい。

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下段はテレビゲームの初期、物理的マシーンがプラットフォームだった時代。この頃の手数料は公表されていないため、根拠はインターネットのブログ等から拾った。

任天堂時代は記録メディアがマスクROMであり、非常に高価だった。スーパーファミコンでは小売価格が1万円以上だったと思う。
内訳の第一は、ROMの製造原価と「ゲーム機メーカー=プラットフォーム事業者(この場合は任天堂)」に払うロイヤルティ等で30%以上。容量や相場(当時ICチップは品薄だった)によってはかなり高くなる場合もある。
物流費も高かった。
嵩張らないとはいえ、いわゆる水物。初期時点ではゲームソフトは広く認知されていなかったので、任天堂のおもちゃ流通に乗せていた。言い換えれば、プラットフォーム事業者はバリューチェーンのかなりの範囲に対してコミットしていた。
それにしても高い。開発会社に残るのは全体の4割を切る。実際には、ROM製造のリードタイムは2か月程度で在庫の責任は全て開発会社が負う、しかも前金制。需要予測が異常に困難。コンサバに出して売切れれば、2か月後の需要に賭けて再発注。アグレッシブに発注して売れなければ在庫の山。これらの広義コストも勘案すれば、さらにゲーム開発会社の手残りは少なかった。

ソニーの PlayStation 時代になると保存メディアは CD、後にDVD、ブルーレイ等、光ディスクになる。製造原価が劇的に下がるだけではなく、リードタイムが2週間程度に短縮された。
ソニーの方針が素晴しかったのは、この利益をユーザーと開発会社に還元し、市場を押し上げたこと。小売価格は半値近くの5800円程度になった。内訳は図の通りだが、開発会社の取り分は4割以上に向上。

では、この時代のプラットフォーム事業者(ゲーム機メーカー)の提供価値を見てみよう。
この時のテレビゲームはゲーム機の上でしか動作しなかったので、ゲーム機あってのゲームソフト。また、ゲーム機の仕様を理解しなければゲームソフトは開発できないので、ゲーム機メーカーは、陰に陽に開発会社をサポートしていた。勿論開発機材の購入を義務付ける等、一方的な部分もあったが、とにかく開発会社独力ではゲームソフトは実現できなかった。
他方、マネタイズ、流通については、ゲーム機メーカーの下支えがあったとはいえ、個別タイトルに何かしてくれるわけではなかった。
また、マーケ、コミュニティの観点では、ユーザーから見れば、ゲームソフトより、まずは何のゲーム機のソフトかが問題になるので、ゲーム機メーカーに対する依存が大きかった。ネットワーク効果は、インターネット時代になる前からプラットフォームには重要な要素であり、常に鶏と卵の議論になっていた。PlayStation がローンチされる際、ソニーの担当者が某ゲーム会社にタイトル開発の依頼に行った際、「100万台になったら出直してこい」と返されたのは有名な逸話(真偽のほどは分からないがw、これを受け、ソニーは「行くぜ100万台」をローンチ時のキャッチコピーにした)。
ユーザーに視点を移せば、この時代にユーザーが支払っていたメディア費はゲーム機(メディア)+個別タイトル(保存メディア)の代金ということになる。

次に中段を見て欲しい。プラットフォームの実態が、物理的なゲーム機から、ネット上に移行してきた状態。PS、Xboxの*印は、各々のネットサービスという意味。これらはゲーム機でもあるので、動作、開発については下段と同等の価値を提供し、これに加えて流通機能も担ったことになる。
上段の Steam(Valve社の提供するサイト) は、乱暴に言えばPC上のゲーム販売サイト(元々は自社タイトルのベータテスト参加、あるいはダウンロードのためのサイト)で、ゲーム機のような貢献(動作保証等)は何もしていない。ただし、単純ECサイトでもなく、ゲーマー・コミュニティの維持管理には価値がある。
ゲーム機+ネットサービスと純粋なネットサービスとでは全く機能が異なるので、双方とも取り分が約3割と同等な点には釈然としないが、なぜかネット・プラットフォームの相場として3割程度が落ち着きどころとなってしまった(誰か、この時点で抵抗しとけよ)。
他方、マネタイズと流通については完全に彼らのシステムに依存する事になる。
この場合にユーザーが支払ったメディア費は、コンソール代とデータ通信費。ゲーム機はブルーレイ・プレイヤーとインターネット端末機能も持っていたため、ゲームプレイ固有の費用は若干減少したとは言える、一方PCはそもそもゲームのために購入するわけではないので埋没してしまうが、この時期にゲームをプレイしようと思えば高価格なものが必要だったので、両者引き分けか。
ちなみに大きな声では言えないが、中国のプラットフォームの取り分は、こんなものではない(私はまだ中国出張の道は残しておきたいので、皆さんご自身で調べてください)。

閑話休題。

2000年代半ば、これらだけではなく、世の中の流れに従い、ネットを基礎とするサービスがゲーム関連でも多く出始めた。大部分はコンテンツを束ねるだけのアグリゲーターだったが、日本でいえばハンゲーム等、ユーザー間のコミュニティ管理に一工夫する業者も出てきた。ネットが基礎となったことからマイクロペイメントが可能になり、F2Pのビジネスモデルが普及し始めたのもこの頃だ。

この後、モバイル全盛時代に突入する。
ガラケー最初期は、3G を梃に日本が先行し、通信事業者がプラットフォームの役割を担う。データ通信を管理するのは当然として、その端末も実質支配し、さらに i-mode 等、ネット・プラットフォームも実現する。メディア全体を押さえた垂直統合で、ゲーム業界からみれば、ほぼ、ネット以前のゲームコンソールと同じ価値だった。
上段を見て欲しい。ところが、「ソーシャルゲーム」が日本でガラケーに移植され、DeNA、GREE が、コンテンツの大ヒットを射止めるや、通信事業者をすり抜け、一気にネット・プラットフォームを立ち上げる。メディアとプラットフォームとが、別概念として綺麗に分かれた瞬間だ。
SNSの文化がPCから持ち込まれ、受発信のハードルが大幅に下がった事で飛躍する。この際の提供機能は、マネタイズ、流通と、マーケのかなりの部分だ。ビジネスモデルはF2Pが主流なので、ユーザーに対する価格はゼロから無限大。
旧来のゲーム会社では、このスピードは出なかったので、他業態参入の面目躍如たるところだろう。また、多くの新規参入業者を産んだ点で、業界成長に対する貢献は極めて大きかった。
ところで、ゲーム業界ではかなり以前からプラットフォームという単語を日常的に用いていて、そのイメージはソニーや任天堂だった。他方、インターネットが普及するにつれて IT 業界でプラットフォームという単語が使われるようになっていった。この場合にイメージされるのは、ゲーム業界的に言えばモバゲー、グリー型だ。なんとなく話が嚙み合わないのは、この辺りの原体験の違いからだろう。
さて、いよいよスマホの時代に入る。時系列の表になっていないので、今度は中段を見て欲しい。
4G になり動画のやり取りもストレスが無くコミュニケーションの質は飛躍的に向上した。端末の性能も上がり、ブラウザからアプリ優勢となる。
Apple, Googleは、端末仕様に大きく関与しているので(OS を提供し、ハードもコントロールしている)、ガラケー時代のモバゲー、グリーとは異なり、動作環境も提供していることになる。また、いわゆるスマホゲームは、F2P をビジネスモデルとしているので、一見の客、たいしてゲームに関心のないユーザーも集める必要があり、ゲーム開発会社独力では極めて困難。加えて、そもそも F2P のマネタイズはよくできた決済機能がなければ実現しない。つまり、彼らは、ゲーム会社にとって、メディアとしてかなりの貢献をしてくれているのだ。歴史的に比較しても、機能提供の面、開発会社の取り分の比率、絶対額から見て、彼らが課す手数料は良識の範囲内だと思われる。

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以上を時系列で並べ直したのがこの図。
メディアは物理的なマシーンからネットへ、ビジネスモデルは単発の定額から継続の F2P へ、ユーザーはいわゆるゲーマーからカジュアル一般層へ。
これ等の変化が相互に関連している点にも注目して欲しい。

(2) 新レイヤーのプラットフォーム登場の兆し

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これはプラットフォームの提供機能だけを切り出したスライドだ。
繰り返しになるが、目下は、ネットPCというメディアが着地したので、コンテンツであるコンピュータゲームの型の振幅は小さくなるタイミングだ。つまりゲームデザインの飛躍は減り、悪く言えば型にはまってくる状況。
他方、ここからは、メディアの方が、次の型に向けて新たな振動、試行錯誤を始める。
暫くは、型にはまった旧コンテンツが、試行錯誤で暴れるメディアに乗っかる過渡期となる。
となれば、現状コンテンツが、暴れるメディアを乗りこなす際の鞍のような存在がプラットフォームとなる可能性は十分にある。
その際には、マネタイズやマーケよりも、動作・表示の保証に要求のウェイトが移るはずだ。

つまりはゲームエンジンということになる。
多様なゲームデザインには対応できないというゲームエンジンの弱みもここではマイナスにならない。
また、異なる環境を渡り歩く際の(視聴覚的)表現の同一性も期待されるが、ゲームエンジンが共通していれば問題はない。
もともと unreal engine は、開発会社が、PlayStation、PC、Xboxといった異なるプラットフォームに同一タイトルをリリースする技術的困難を克服する期待に応えて、大きく伸びた経緯がある。

ちなみに、ゲーム業界とは全くの異分野でも、 Physical 空間におる digital 処理の共通基盤の必要性が問題提起されているが、その中でゲームエンジンの活用が提言されている。
Physical からスタートするか、Digital からか。次の時代では、同じ地点を目指すことになる。

プラットフォームの出自

ここで、エンタメ系プラットフォーム実現に向けてのアプローチにつき、残念な事実を述べておきたい(私の分類ではSNSもエンタメ系)。
当初から狙いすまして首尾よくプラットフォームを立ち上げ、普及させた例を私は寡聞にして知らない。現在のリーダー企業に、再現性はほとんどないのではないか。当該企業に能力がなかったとは言っていない、その企業が唯一選ばれたことに再現性がないということだ。

キラーコンテンツが異常進化するか、千載一遇のタイミングを引き当てたかのどちらかだ。
さすがに後者について語るべきことは何もないので、前者について少々(私見です)。

最初期の任天堂もそうだったのではないか。
ゲームセンターのコピー問題に辟易し、家庭用ゲーム機事業に参入。業績も伸びやれやれと思っていたらファミコン対応を名乗るソフトが乱発され、やむを得ずサードパーティモデルに切り替えた(おそらく・・)。
勿論、状況を転じて一気に新ビジネスモデルに仕立て上げる構想力と実行力は神がかっている(この出自は、他のコンソールメーカーと比較して、自社タイトルの扱いが非常に強いことからも伺える)。
DeNAも、怪盗ロワイヤルの大ブレークが切っ掛けだ。勿論、個別タイトルの成功とせず、一気にプラットフォームに仕立て上げた心意気とスピード感は凄い。
ゲームエンジンも同じ。Epic 社の Unreal Engine も、Valve 社のSource Engine も、自社タイトルのMODが発展していったもので、最初から自社エンジンを開放する意図なかった(現にかなりの勢力になるまで、彼らは、タイトル開発をエンジン整備に優先させていた)。Valve 社は、さらに余勢をかって、ゲームサイトである Steam まで立ち上げた。勿論、両社とも、抽象化、構造化の能力はずば抜けている。

狙って大成功した典型はソニーの PlayStation だろう。
企業内ベンチャーのお手本のような快挙だが、ゲーム機業界には10年の前史があった。ゲームエンジンの Unity も然り。

「先駆者」になるためには、まずはキラーコンテンツを狙うことだ。
この時点ですでに無理ゲーだが、少なくとも、いきなりプラットフォームを狙うよりはましだと思う。
億万が一、首尾よく勝利すればラッキーだし、誰かが突破し成功事例が現れた時、後追いのスタートダッシュには格段の差が出る。

(3) クラウドゲーム

ネットPCから環境コンピュータに移行する過渡期に成立する、もっとも分かり易いプラットフォームは、クラウドゲーム環境のはずだ。
クラウドは、ネットPC時代のように見えるが、次世代への架け橋とも捉えられる。すなわち、クラウド内の世界は、ユーザー個人が制御できず、自律的に動くこと、いつでもどこからでもアクセスできること、以上の点からだ。つまり、個体発ではなく、デジタル環境に複数個体がアクセスする環境発である点に違いがある。
旧コンテンツの新しい使い方(先述のノン・プレイヤー市場対応)のプラットフォームとして最適で、次世代メディアがブレている間、確実に存在感が出せる。

テック・ジャイアンツが現時点でうまくいっていないのは、戦略の間違いだと考える。
新たなプラットフォームは、利便性は現状以上で、体験は現行を大きく上回らなければ成立しない。クラウドゲームについては、5G等、通信環境が整備される前にローンチしても前者が保証されないため、稚拙でも後者から攻めるべきだった。ところが、現環境で十分に満足されている現行コンテンツをそのまま乗せてしまったため、ユーザーからは単なる利便性の大幅劣化にしか見えない。
彼等のこれまでの成功パターンは(発足時はともかく、大手となってからは)、小さくてもコミュニティに深く刺さっているサービス業者を買収し、自らのプラットフォームに乗せ、一気に拡大することだったが、今回は「本体」が乗り出した。このアプローチの違いは致命的。コミケのような狭く深い盛り上がりは、高学歴でも解析不能なだけではなく、そもそもニッチの住人本人達でも流行の理由は言語化できないのだ。
クラウドプラットフォーム上で、サードパーティにノン・プレイヤー対応サービスを自由に試行錯誤してもらうのが良かったのではないか。

(4) FORTNITE紛争

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ここで昨年来話題になっている、Epic Games vs Apple の FORTNITE 紛争につきコメントしておく。

Epic Games は、Apple が要求する手数料の30%という水準は、独占的地位を悪用した搾取であると主張。
世間では専らこれがポイントだと思われているが、先ほど見たように、(手数料は安いに越したことはないが)主張に無理があると感じる。Epic が本気でそう思っているのか陽動なのかは不明だが、論拠が薄弱なので、中途半端な着地にしかならないだろう。

課金の解放についても同じ。
アプリ業者としてみれば、Apple や Google のプラットフォームに乗って初めて課金の手筈が整うのであり、自力では不可能。つまり、何の交渉能力もない。従って、解放するか否かは専らプラットフォーム側の一存で正しく、店子がクレーム出来る案件ではないと思う(「イヤなら自分でやれば?」という話)。
ちなみに、テンセントは、自社戦略の一環として開放している。ユーザー、サービス拡張のため、より業者を主体的に巻き込ませるための手段として Platform on Platform を打ち出しているのだ。

さて、巷間言われているここまでのポイントは本質ではないと思っている。私見では、これ以降に意味がある。

今後ますます、メディアやプラットフォームを乗り越えたコミュニケーションが要求されるようになると思うが、プラットフォーム事業者側からすれば阻止したいところだ。完成度の高い統合を実現している業者ほど、そのように考えるのは当然だ。従って、現時点で縦横の交通制限に穴をあけて既成事実を作っておく意義は大きい。
私も15年ほど前、Final Fantasy 11(多人数参加型オンラインゲーム)で、業界唯一の例外として、 PlayStation 2と Xbox のユーザーが同じサーバーでプレイできるクロスプラットフォームを実現したが、大変な風当たりであった。担当の方からは過去最大の失態と『反省』され(無理言ってすみませんでした)、数年後、そのウィンドウも閉じられてしまった。皆さん、Epic が突破したら、雪崩を打って続いてください。

最後。先述したように、新たな層のプラットフォームとして、ゲームエンジンを基礎としたサービスの立ち上げはありうる。
Epic Games が旗揚げし、提携等を希望する業者群がついてくれば、新たな生態系ができる可能性もある。
既に Epic Gamesも Unity(同じくゲームエンジンの事業者)も他業界への展開を行っているが、まだまだ認知は低い。日本で先般、NVIDIAが謎のメーカーと呼ばれたのは極端としても、経済界からは、ゲーム業界は極めて特殊で自分たちとは無関係と思われている。
本件、うがった見方をすれば、効果的な宣伝になったのではないか。

(5) メタバースはプラットフォームになりうるか

この問いに対しては、まずはコンテンツとして成功が見えてきてからと答えるが、もしそれができれば、実現する可能性は極めて高い。
その際、一つのゲームタイトルがヒットしてから、そのゲームエンジンが他社に広がっていく過程と似たような道筋をたどるのではないだろうか(つまり、Epic Games は、もう出口近くまで来ている)。

プラットフォームを検証するのに、ゲーム・プラットフォームの事例で十分なのかと思われた方も多いと思うが、メタバースはほぼすべての技術の基礎をゲームに負っている事実から、あえてそうした。
また、デジタルデータを再現するためには相応の環境が必要という点につき、ゲーム業界外の方々に対して意識ギャップを感じているので注意喚起の意図もあった。
ネット・プラットフォームで交換されるゲーム以外のデータは、テキスト、イメージ、動画で、いずれにせよフォーマットがある程度決まっている。また、再生の際に素材は変化しない上に、一方向だ。
ゲーム内のキャラを自分のモノにすると言っても、そのゲームの外では表示できない、ましてや動かない。無論、一般的な描画ソフトである程度再現できるような工夫も可能だが、それはあなたが欲しかったキャラとは別物だ。
ネットプラットフォームが、「繋ぐ」機能(コミュニケーション/マッチング)にフォーカスされ過ぎており、動作環境が考慮外になっている場合が多いように感じる。
当然だが、以上はクライアント側に限定した話ではない。

ところで、この場合の「プラットフォーム」のイメージはあるだろうか。
これだけ多くの記事が書かれているにもかかわらず、どのような状態を想定しているのかが述べられているものは非常に少ない。

私は、メタバースが普及した世界として、複数のメタバースが併存するマルチバースを想定している。
現在の Facebook や Tencent のように、ほぼ一つのプラットフォームに収斂し、その上で様々な活動が包含されるのではなく、複数の集団ができると思っている(下図)。

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地球の人口はそれほど多くないと思われるかもしれないが、この世界では、複数アカウントが常識になることを前提としている。さらに、実物の個人と紐つかないネット上のみの「人格」も認めれば良いとさえ考えている。
先程「思っている」と書いたが、実際には「期待している」という表現の方が正確だ。ネットワーク効果が果てまで発揮され、計算能力も極限に達して逃げ場がなくなるディストピアからの解放を、私はメタバースに求めている。自由への逃走なのです(超個人的希望なので、ビジネスのみを追求するのであれば私のバイアスは除いてください)。


 4.メタバース雑感

ここまででメタバースがどのような位置にいるか、私なりの解釈を論じてきたが、メタバースの定義につき、まだ一字も書いていない。日本では今年(2021年)、「竜とそばかすの姫」も上映されたので、「あんな感じのもの」と、何となく馴染みはあると思う。
以下は、これまでの流れをまとめたものだ。題して、メタバースという名の「世界観」(定義はないし、定義すること自体、大して意味なさそうだしね)。

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昨今、メタバースに最も近いと言われているのが Epic Games の FORTNITE だが、それでも「ここが違う!」と突っ込んでいる評論家も多い(どんだけ好きなのよ)。
逆に言うと、ここが違う!を埋めれば、コンセンサスが浮かび上がると思うので、FORTNITE がメタバースになっていないと指摘されている点を列挙しておく。
・超多人数同時接続になっていない
・XR 等への接続が完成していない
・FORTNITE 以外の digital 世界との交流がない
・自律的経済圏が確立していない
・Physical 世界への影響がない
・・・ということらしい。

以下、メタバースについての私見を述べる。
実戦的なもの、思想的なもの、入り乱れて書いていく。

(1) 現実の視覚的コピーは退屈

街を再現したり、百貨店を作ってみたり、現存する景色を Digital 世界に再現するプロジェクトが随所で始まっている。
本物と見まごう水準にまでテクノロジーが到達しているので、とりあえず目を引くが、景色だけではコンテンツにならないと思う。

我々が Physical 世界に止まっているのは、他に選択肢がないからだ。
メタバースに入るか入らないか、どのメタバースに入るかは任意なので、入る必然、つまり「用事」を拵えてあげなけば誰も来てくれない。

現実は驚きに満ちている。
しかし、Digital 空間では、意図して実装したこと以外、何も起こらない。

例えば建築物の表面も材質がわかるほど上手く再現されている。しかし、仕込まない限り壊れないし、雨にも濡れない。ガラスとコンクリートの壊れ方も別にプログラムする必要がある。さらにどのような構造の一部として壊れるかも千差万別のはず。微風に揺れる(ように見える)水面も、実際には薄い板でしかない。
人々が参加し、出来事が起こるような仕掛けを工夫しなければ、すぐにゴーストタウンになる。

勿論、Physical 世界を Digital で制御するために、データを薄く被せるための「影」を作っておく意味はある。
デジタルツイン、ミラーワールドは、この脈絡でイメージされているのだろう。
しかし、「影」そのものはコンテンツではない。

20年前、フルCG映画 Final Fantasy は、アニメ映画に分類されていた。
人物がCGで背景が実写でもそう言われたろう。では、背景がCGで人物が実写だったら、やはりアニメと言われたのだろうか? この頃のSF映画は既にふんだんにCGを使っていたが「実写」とされていた。
どうやら、「人間」がどのように撮られているかが境界のようだ。
ところが、昨今は、CGで作った人間の顔は不気味の谷を越え、AIが自動生成するようにさえなっている。
CG=虚構、実写=現実の境界がなくなったとの錯覚が、安易に合意されてしまったのか。
しかし、落ち着いて欲しい。これは全て「2Dの見てくれ」(3D表示であっても空間的には2D)だ。
インタラクションを導入しようとした瞬間に振出しに戻る。
そして、インタラクションにこそ、3D空間のコンテンツの核心がある。

この映像(ちと古い)は、10-16乗から10+24乗までを見せてくれる。視点によって認識が変わる点が面白いが、実際の世界は全てが全解像度で関連し合っている。つまり世界の再現は永久に出来ない。

最後の最後まで人工的な(AIが生成しても同じ)空間は、記号表現しかできないのである。

その記号を使って「用事」を作る。

(2) 記号の世界の作り方

フィクションは、合意された記号から組み立てていくのが正道だと思う。

小説、アニメ、映画、いずれも嘘(共有されておらず、そのストーリー内だけで通用させる記号)を一つだけ入れて、後は現実に合わせる。
ところが、全て人工的に作らなければならないのが、digital な3D空間だ。
ゲームが、メタバースのような他の用途の基盤になりえるのは、ゲームの記号を共有する人口が劇的に増えたため。
従って、そこから積み上げるべきで、一度に多くの「嘘」を入れ込もうとしても受け入れられない。

そうは言っても、記号に飛躍が無さすぎ、全て「予定調和」にしてしまえば、すぐに飽きられてしまう。

鉄道模型がジオラマを走り抜けるのを見るのは今でも楽しい。
近寄ってみて、車両の窓の中に小さな乗客が乗っていたりしたら、もう大興奮だ。
模型、すなわち記号と分かった上で楽しんでいるのだが、その際、記号の程度につき暗黙の合意が形成されている。この場合では、車両の外見の表現が合意なので、それを上回る「乗客」は驚きとなる。

ところで先述したように現実はコピーできないが、体験のコピーは、記号の工夫である程度実現できる。
「彷徨・発見」をテーマとするオープンワールド(註、ゲーム内を自由に探索でき、攻略手順も自由にデザインされたもの)のゲームがあった。
時代設定は古代から中世。
いきなり荒野に投げ出される。画面右上のマップには何の表示もなく、文字通り当てもなく彷徨い始める。どんどん歩いていくと、遠くに砦らしきものが見えてくる。さらに近寄ると、蛮族の砦と分かる。
この時に、ぼぉっと「**砦に辿り着いた」と文字が出てきて、マップに砦の名称が表示される。
一旦発見したら、以降は大きなマップ上から瞬間移動できるようになる。
彷徨う際の冒険の緊張感、寂寥感と、いちいち無駄に歩くわずらわしさを調和した、言い換えれば、現実感と記号とをうまく融合させた処理だ。

(3) コンテンツのテーマとデザイン

記号でコンテンツを組み立てることになるが、その際にはテーマとデザインをしっかり決める必要がある(一般的な定義ではなく、本稿の説明のための概念。まぁ、全部そうだけど)。

ファイナルファンタジー11、14は、MMORPGだ。
キャラクターを好きなようにカスタマイズしたら自分の分身のアバターとしてゲームの世界に入っていく。冒険あり、バトルあり、制作ありと、大抵のことが経験できる。まさにもう一つの世界で生きている体験だ。
この場合、テーマは「仲間と冒険する物語」。実際にプレイが進むとゲーム内で友人と話すのが楽しくなる。他のゲームジャンルと比較し、際立った特徴は、実質的「アバター・チャット」として機能している点と言える。
しかし、ただのチャットなら、わざわざその世界に入ってはくれない。あらゆるゲーム要素がテーマパークのアトラクションのようにちりばめられているから喜んで来てくれる(開発、大変なんすよ)。
来てもらった上で、チャットだけでも楽しくなる程「仲間」になってもらわなくてはならない。従って、ユーザー同士をどのように繋げるかが「デザイン」になる。
一旦、これが確立すると、一つの「世界」としてユーザーが認識してくれ、もはやユーザーは自発的に活動を始めてくれる。
FORTNITEのコンサートは一般にも有名になったが、あのタイプのイベントは、MMOの世界では珍しくない。ゲーム内で知り合ったユーザーが結婚式を挙げ、実生活でも籍を入れてしまった方もいる。

テーマとデザインがしっかり出来ていれば、「世界」が出来、ユーザーが「住んで」くれる。
そこから、メタバースに向けての導線を引いていく。
かの FORTNITE も、バトルロイヤルのゲームとして人気を博しユーザーが定着してから、ようやくパーティロイヤル等の、ゲームデザインと直接関係ない要素を充実させていっている。最近では人狼ゲーム(会話で進行し、狼男を暴くパーティゲーム)も実装したようだ。

デザインについて私見を述べておく。
制作側が創り出した世界を、ユーザーが追体験するタイプのデザイン(RPG等)は、メタバースの基礎になるコンテンツとしては向かない。
ユーザー自身の活動が世界を自律的に動かすような仕掛けが必要だ。

円盤の上に20人立っていると想像して欲しい。その円盤は極細の柱一本で支えられている(皿回しのイメージ)。
誰かが動いた瞬間にバランスが崩れる。円盤が落ちないように何人かはバランスを保つために動き、またしてもバランスが崩れる。これで永久に参加者は動いている。
均衡を求めることが次の不均衡を招き、結果的に延々とこれが続く状態。
これは一例だが、永久機関を作るのが趣旨だ。

さて、以上は、オッサンの見識だ。
MINECRAFT、ROBLOX は、創作とコミュニケーションをテーマに、ユーザーにゲーム開発ツールとコミュニケーションの場を提供しているだけで、あとは放置。にもかかわらず、世界中の preteen から絶大な支持を得ている。
(私からは)想像もつかない道筋が出てくる可能性もある。

ところで、SNS はどのように発展していくのだろうか?
SNS が次世代への飛躍として身体を欲しがっていることは感じられるが、身体あるが故のテーマ、デザインをどのように設計するのだろう。
PC やガラケーでアバターの着せ替えが流行り始めた時、3Dアバターに切り替えようとした動きが散見されたが、結局うまくいかなかった。
その頃と違うのは、VTuber が浸透してきていることだ。発信側とユーザーとのインタラクションが深化している。
これらのアバター達との交流から構築するのが、最も自然な流れだと思う。
日本の先行成功事例に期待したい。

(4) マルチバース

メタバースが IT 誌で話題になる際、デジタルツイン、ミラーワールドと言われる。Phycical 世界と Digital 世界とが一対であるイメージ。
映画やアニメでもそのように描かれることが多い。「竜とそばかすの姫」もメタバースはたった一つだった。
おそらく、人格の自己同一性を重視した(これまでの)文化的な背景があるのだろう。Physical と Digital との関係が深くなればなるほど、双方の数が一致しなければ矛盾が出てくる、従って、各一個ということなのだろう。

しかし、本当にそうなのだろうか?

先述したように、どのみち Digital 世界は、Physical 世界を完全にはコピーできない。つまりビジネス面での展開を考えても用途「別」になるはずだ。
また、ゲーム業界人からみれば、どっぷり複数の世界に没入するユーザーは決して珍しくなく、かつ、実際の世界での生活と異なった人格のアバターを操るユーザーも日常的だ。
SNS にしても、複数アカウントが用いられるケースは稀れではないだろう(日本のtwitter アカウント数はさすがに珍しいが)。

メタバースを設計する際、マルチバースを前提にするか否かで基礎が異なるので、未来が実際にどうなるかはともかく、自分なりの意見は持った方が良いだろう。

さて、マルチバースを前提とした時、メタバース間の行き来も重要になってくるが、全く異なった世界からやってきた異人が自然にいられるイメージはつきにくいかもしれない。ここで、スパイダーバースを思い出してほしい。バラバラの世界観が破綻なく共存している。

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プラットフォームの章で言及したが、アバターがメタバースを渡り歩くのを保証するのは、共通の動作環境、つまりはゲームエンジンになる。
Tim め(Epic Games 創業者)、うまいことやってるじゃないか。

(5) 「セカンドライフは早すぎた」をどう捉えるか

セカンドライフ(2003年にリリースされた、インターネット上の空間、UGCが特徴)は早すぎたとの意見につき、ここで整理しておく。

環境とリリースがぴったりと合致するカウンターパンチの「タイミング」になっていなかったとコメントしているなら虫が良すぎる。一発屋目当ての単なる博打発言なので論外(タイミング、来い! 花札のコイコイじゃあるまいし)。

さて、環境コンピュータの完全な姿は当分の間整わないし、そもそも予測が不可能な旨、繰り返し述べてきた。
一方、メタバースは、第一章、第二章で検討してきたように、大変革の過渡期に浮かび上がる必然はなんとなくありそうだ。

ではどうするか。

もがきにもがいて、次のメディアを試しに行くのが筋では?
暴れ馬の第一陣、斥候でいいのではないか。

こうスタンスを決めた上で、セカンドライフを見る。
なぜメインストリームにならなかったのか(いまだに多くのユーザーを抱えており、明らかに「成功」コンテンツですが、あくまで超絶ヒットにはならなかったという意味です)。

あまりにも要素が多かったのだと思う。
・3D空間での生活
・UGC
・PC要求スペックの高さ(+扱いのむつかしさ)
・ユーザーによる著作権の主張
・デジタル財の売買
・現実世界に対応したCMメディア、等々

複雑過ぎるため、論理的には理解できるものの、感情レベルに到達しなかったのではないか。
人が集まってくる強烈な動機は、感情が作り上げる。従って、初めの一歩のエネルギー不足だと思っている。
早すぎたと捉えるのではなく、その時代に合わせるべきだったと考えるのが建設的だと思う(どうしてもやりたかったんだろうね、待てない気持ちにはすごく共感する)。
つまり、出来ないことは出来ないと見切れば、たった今開発するのも正解だ。

この観点から、Fortniteに改良を加えていけば、最初のメタバースになるかもしれないが、たとえGAFAだろうが、メタバースを論理的に作りに行ってうまくいくとは思えない。
ゲーム、アバター、音楽、何でもいい、ユーザーの感情を梃に飛躍し、その後コンテンツ色を脱色していくのが有効だろう。
会議や買い物ではメタバースは作り上げられないと確信する、いや、ひょっとして難しいかもなと思ったりする、うむ。

(6) メタバースの思想

過渡期の難しさは、環境変化を前提とするので常時陳腐化リスクに晒される点にある。
メタバースを最後までコンテンツとして捉えるなら、変化したら新メディアに乗り換えれば良い。しかしながら、主力となるプラットフォーム、さらには新たなインフラと捉えたいなら、ユーザーの感情を揺さぶるコンテンツテーマ以外に、メタバースを継続する意味、思想が無ければならない。

私が期待するメタバースの思想的基礎は、「新しい自由の獲得」だ(ここは完全に個人的見解、正解はない)。
これまでの権威は信頼するに足らない。彼らが支配管理する世界だけでは自分が自分らしく生きられないかもしれない。自分が納得いく選択のできる自由なオルタナティブな世界が欲しい。これに答えるのがメタバースではないか。

その場合、4点留意しておく必要がある。

一点目:IDは完全リンクさせない

マルチバース前提となれば、当然複数アカウントとなるだろうが、それだけではない。究極的IDすら複数保有できる仕組みが望ましい。
プライバシー、1984問題は言うまでもないので、ここでは触れない。
デリバティブ(派生商品)そのものが構造的に招く恐ろしさを断ち切る点が重要だと考える。
話は飛ぶが、現在、資本主義の行き詰まりがいたるところで議論されているが、ほとんどが「金融資本主義」の問題を取り上げている。
実体が有価証券に表象され、その先物ができ、さらには先物オプション、オプション、はたまた指数化したもの等々、一つの実体から幾重にもデリバティブが作られる。投資機会を狙う業者は、アービトラージ(同一商品の価格のズレを修正しようとする取引)によって、各要素を全てを数珠繋ぎにしていく。アービトラージが可能ということは一直線ではなく数珠状であり(=常にズレがあるということ、つまりデリバティブは実体と永久に一致することはない)、ズレを補正しようとしてまた次のズレを産み出す(オンラインゲームのデザインと同じ)。
結果、30年程度で、実体経済と金融経済にはとんでもない開きが生じた。金融経済が主導権を握るケースが多くなり、数々の弊害を産みだしてきた。
話を戻して、複数 Digital 世界とPhysical 世界における個人の問題に引き直して考えてほしい。
テクノロジーは、この場合刃になる。人間の実感がわかないところで猛烈なスピード、複雑さで関連付けがなされる。あなたは、仮想のあなたに支配されるようになる。

私は、 Digital 世界の ID をPhysical 世界とは別に発行することさえ、いずれ視野に入ってくると考えている。
捨てアカではないので、その世界でキチンと信用を積んで、その世界固有の戸籍をもらう(大神殿で儀式とかすると良いね)。そして、そのIDで、Physical 世界での取引も、限定的ではあるが、できるようにする。

人類が社会を変えられる機会が、次にいつ来るかわからない。
現実社会を根本的に変えるのは困難だが、パラレルワールドで新生することは出来るはず。
後世に禍根を残さないよう知恵を絞るべきだ。

いや、それほど深刻に考えなくても心配ない。
複数の人格を生きる知恵は以前から存在する。
芸名、ペンネーム、源氏名、ハレとケ、仮面舞踏会、水戸黄門、昔の名前で出ています、仮名口座(こりゃダメかw)・・・
誰でも馴染みのあるアバターがある。肩書だ。この構造を紐解くのも面白い。
考えてみてください。

二点目:運営主体は分散させる
メタバース絡みでブロックチェーンにつき論じられることが多いが、私も、他の方とは異なった意味で、親和性が高いと考えている。
メタバース内で経済圏を作るだけならゲーム内通貨を流通させ、法定通貨と交換できる場合、できない場合、各々検討して実行すればいいだけだ。暗号通貨自体も、使おうが使うまいがどちらでも良いと思う。
私がブロックチェーンに期待する理由は、メタバースの運営業者は、最終的には消滅すべきだと思っているからだ。政府、民間業者、各種団体、いずれが主体となっても、構成する人間の民度を反映する点で信用できない。
これに左右されないことが保証されて初めて、メタバースの永続と真に自律的運営が達成される。

三点目:Digital 倫理を作り、共有する

メタバース内は無国籍になるので、共有する宗教、法制度、文化はない。
残念ながら、放置すると確実に無法地帯になるので、各メタバース内での自主ルールを真剣に考えるべきだ。
この場合、全メタバースのルールを一致させる必要はない、むしろ多様性を持った方が良い。Physical 国家と異なり、国籍は簡単に変えられるので、分かり易く特徴のある制度が並走しているのが望ましい。
唯一重要なポイントは一貫性のみと割り切ってはどうか。

四点目:子供たちに任せる

両親がどう規制しようが、子供たちはゲームが大好きだ。MINECRAFT、ROBLOX では、創作にまで発展している。
彼らは、世界との付き合い方の多くをゲームから学ぶ。デジタルキッズの離乳食はコンピュータゲームなのだ。

「digital 世界」ネイティブである彼らは、「ネットコミュニティ」ネイティブでもある。
どの SNS にもグループを作成する機能が付いている。ABCとのグループとABとのグループを同時に、しかもCに知られずに作ることが出来る。
ネット以前では、どのグループに属するかは旗色鮮明になっていた。
幼児からこの環境で成長した子供は、我々とは(成人は全員巻き沿いで我々とする!)、コミュニティでの立ち居振る舞い、考え方が根本的に違うはずだ。
先の例で言えば、生まれながらのアバターの使い手なのである。

彼らが何を欲し、何を差し出すか。
彼らに決めさせ、開発させ、実装させるのが正しいと思う。
我々は彼らの支援者に回ろう。
彼らは500年後の世界から見れば、はじまりの「神々」かもしれない。


本稿の要約

現在は、ネットPCという旧メディアが着地し、次のメディアである環境コンピュータを模索し始めたタイミングにある。まだ試行錯誤の初期段階であり、当分の間、振動が激しい。
地盤が揺れる中でユーザー、業者が求めるのは、凸凹を埋めてくれるプラットフォームであろう。ちなみにプラットフォームは、キラー・コンテンツがきっかけとなり一気に形成されることが多い。現時点での有力候補の一つがメタバース。
メタバースは、コンテンツとしてどれかが成功し、プラットフォームに発展していく中で、新メディアとの折り合いをつけ始める or 共振してメディアの形成に寄与していくかもしれない。
また、メタバースは、各要素の交差点として時代の必然ではあるが、一方で、環境コンピュータ時代に向けてのシミュレーションの場の提供、新たな自由の実現可能性の示唆という点で固有の価値があると考える。
社会全体の進化は全く予測がつかないので、待ったところで準備は整わない。各人の立ち位置から直ちに取り組むのが肝要だろう。

                               以上


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