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フィクションに翻弄されたい非アンディー

思考の出発点に、本があります。

感涙したり、抱腹絶倒したり、自責の念にかられたり、本にはたいてい脳や心を揺さぶられます。

小川洋子さんの『ことり』を読んだときは、「人間が考えただけの文字を並べただけなのに…」と考え、はらはらと涙しました。

ずいぶんと傲慢であまのじゃくな発想ですが、このように考えるに至ったのは、小川洋子さんの講演を拝聴したためでもあります。

私はプロフィールに「愛読家」と、掲げています。字面だけ見ると、大変恥ずかしいです。

仰々しい意味ではありませんし、私は多読家でも司書でもなんでもない、ただ本が好きな人です。
(読書家や本の虫ではなく愛読家と称したのには理由があるのですが、それはまたの機会に。)

そして愛読家らしく、最近の読了本から話の切り口を探ります。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、1968年に書かれたフィリップ・K・ディックのSF小説です。
この秀逸なタイトルは様々なパロディで見かけます。

人類が火星へ移住し始めた時代、第三次大戦後の地球。
この世界では自然の壊滅により、人間以外の生物が貴重な存在となり、本物の動物を買うことがステータスとなっています。
主人公のリック・デッカードは、地球へ逃亡してきたアンドロイドを処理することで賞金を得て生計を立てる賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)。
リックは電気羊(アンドロイド羊)ではない本物の羊を買うために、賞金目当てでアンドロイドを始末していきます。
しかし、やがて人間としか思えないアンドロイドに出会い、アンドロイドに同情ともいえる感情を抱きます。
アンドロイドを始末し、アンドロイドと言葉(それ以外のものも)を交わすなかで、やがてリックは「人間とは何か?」という根源的問いにたどり着き、苦悩します。

読者もまたリックのように、人型、動物型に限らずアンドロイドをただの機械と切り捨てるのは難しいのではないでしょうか。

本作の面白いところは、
「人間と人型アンドロイド」のみならず、
「人間とペット」あるいは「人間と生物を模したアンドロイド」を対峙させている点です。

人間のようにふるまうアンドロイドもいれば、アンドロイドのように冷酷な人間もいる。
精巧なロボットだと思い修理にかけたペットは本物であったために絶命する。
本物か偽物かわからない蜘蛛の生死が悲惨なほど生々しく描かれる。
二項対立を繰り返しながら、「人間」という真理に達しようとしている、とも考えられます。

ロボット演劇

私のもう一つのプロフィールに演出助手を掲げているので、演劇と本作を絡めます。

本作には、アンドロイドの役者が登場しますが、
現実世界でも、既に演劇にアンドロイドを取り入れた実験がなされています。

これを知ったとき、正直かなり驚きました。

最先端過ぎる…と感じたのも束の間。それは10年以上前からスタートしていたプロジェクトでした。

2008年、青年団と大阪大学によって、ロボット・アンドロイド演劇プロジェクトが始まりました。
青年団の演出家である平田オリザ先生と、ロボット研究の第一人者である石黒浩先生がタッグを組んでいます。

おそらくですが、このプロジェクトでも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は話題にあがったことでしょう。お二人の対談のタイトルが「アンドロイドは人間の夢を見るか?」でしたので。非常に野心的なタイトルだと思います(笑)

2008年「働く私」(試演)、2012年ロボット演劇「森の奥」、アンドロイド版「三人姉妹」、2013年ロボット版「銀河鉄道の夜」等々が上演。
昨年にも、青年団+大阪大学+令和工藝ロボット演劇プロジェクトとしてアンドロイド演劇「さようなら」が上演されています。

平田先生の提唱する現代口語演劇理論は、

「30cm前に立ちなさい」とか「0.3秒,間を取りなさい」というように,非常に正確に,演技の物理的側面についての指示を基本とする点で,ロボットのプログラムと相性が良い¹

とされています。

たしかに、「もっと感情的に!」とか「そこに死に際の親がいると思って…」等の一般に想定される演劇の指示方法では、技術力ではなくプログラマーの発想力に依拠してしまうでしょう。

役者アンドロイド

少なくとも現代の技術では、ロボットが自律的に人間と演劇を行うことは叶っておらず、技術者が稽古場に常駐しプログラミングを行う必要があります。

それに対して、平田先生は以下のように述べています。

「ロボットがいまの時点で持っていないような技術を、演出の力で、あたかもあるかのように見せる」²

言葉通りに演出された結果、実際の舞台では、ロボットが「健気」な「努力」を見せる存在として観客の胸を打ちました。ラストのロボットだけのシーンで観客は涙を流した³といいます。

これは平田先生の高度な演出技術による科学技術の活用であり、ロボットが演じるまでには達していません。
しかし、健気でもなく、努力をするわけでないロボットが、あたかもそうであると観客が感じるように「演じさせる」ことは可能でした。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場するアンドロイドの役者ルーバ・ラフトは、作中でモーツァルトの歌劇『魔笛』にソプラノ歌手として出演しています。
彼女の存在は主人公リックの心境に一投を投げつけます。

彼女はまるで人間のような人型アンドロイドでした。

それ(it)あるいは彼女(she)は、規定されたプログラミングによって動いているのでしょう。

それも「人間のように演出された」人型アンドロイドだったのかもしれません。

あるいは「人間に同情を生じさせる」ようなプログラムが組まれていたのかもしれません。

無機物のいのち

人型アンドロイドに「演じさせる」ことを可能にした現代ですから、いずれはアンドロイドとの接し方を一考すべきです。

接し方と言いましたが、社会的にはルール(法律)の成立で解決されます。

電動キックボードやドローンも、開発から普及の過程でルール(法律)が制定されました。同様に人型アンドロイドに対してもルールがつけられるのでしょう。

石黒先生が人型アンドロイドを銅像と同列視しているように、本物ではない別物として認識できれば良いのです。
役者アンドロイドも、言ってしまえば腹話術の人形と仕組みは同じなのです。

しかし、人間は生物の形を模した無機物に親しみを感じてしまいます。

ロボット演劇を観た聴衆の66%が、「アンドロイドの心はこの上なく純粋であると感じた」⁴ように。

これは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の提示の一つでもあるのですが、
本物ではない別物であることを認めたうえで、新たな生命を無機物に見出すことになっていくように思います。

新たな問いや課題が際限なく浮かんできますが、現代口語演劇理論は無機物に生命を見出す手法として有効であることは事実です。
ロボット演劇は、その演出手法を学ぶに最適な資料となります。

今年も公演があるのでしたら、ぜひ勉強させていただきたいです。

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¹坊農真弓,古川雄一郎,石黒浩,平田オリザ,「ロボット・アンドロイド演劇の工学・科学・芸術における意味」,電子情報通信学会,『Fundamentals Review』,7巻4号,p.332,2014.

²木村陽子,「平田オリザのロボット演劇─創作の源泉としてのリテラリー・アダプテーション実践例─」,目白大学,『目白大学 人文学研究』,第13号,p.3,2017.

³木村・前掲注,p.9.

⁴坊農,古川郎,石黒,平田前掲注,p.332.

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