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平和へのおっさんの主張

NPO法人わがことの山地武です。
普段はネット上で自分の考えや主義は残さないようにしているのですが、昨今のロシアによるウクライナ侵攻や、元統一教会と政治の関係性が取り沙汰されている中で、私の想いを自戒も兼ねて書き記しておきたいと思いました。
ですので、今回の内容はおっさんによる自己主張の文章となりますので、あまり気にせず「あっそう」と読み流してください。

いかなる戦争も犠牲となる人がいる限り、人間にとって必要悪ではなく許されざる悪行です。
科学文明の進化や国家の成熟が戦争によって促されてきたことは事実ですが、その性急すぎる人為的な進化によって産み出された政治や社会は、人間に歪な生き方を課し、貧富の差や勝ち組や負け組といった二元論的な価値判断を人生に強要していきます。
今回のロシアによるウクライナへの一方的な侵攻は決して許されるものではなく、国家の都合で無辜の民が犠牲になるような事態に対して、政治家やそれを取り巻く戦争犯罪者は歴史において永劫に裁かれるべきだと思います。ましてや核兵器の脅威をもって他国を脅す暴挙は、人間の生命を根本的に脅かす絶対悪の所業です。

そもそもウクライナはソ連の崩壊にともない1991年に独立し、旧ソ連であるロシアと軍事提携を結びつつ、1994年には北大西洋条約機構(NATO)とパートナーシップを結んでいます。ロシアにとってウクライナはNATO陣営の軍事的勢力からの緩衝地域であり、地政学的に西側諸国との軍事均衡を保つための要衝地です。
またウクライナの主要民族は全人口の約8割を占めるウクライナ人ですが、約2割はロシア人です。特にロシアと国境を接するウクライナ東部のルハンスク州、ドネツク州はロシア人の割合が高く、2014年に親ロシア派の武装勢力がウクライナからの独立を自称して、ウクライナ政府との軍事衝突に発展しました。ウクライナ政府はロシア派住民に対するドローン攻撃などの軍事的制圧を行っていたそうです。この親ロシア派勢力を、ウクライナの攻撃から守るための軍事作戦が今回の目的だとロシアは主張しています。
しかし西側との緩衝地域であるウクライナがNATOへ加入すれば、ロシアにとっては西側諸国から軍事的な匕首を喉元につきつけられるようなものであり、そうはさせまいとウクライナに武力侵攻しているという見解が大勢を占めています。

歴史にifはあり得ないのですが、ロシアもウクライナも侵攻前から互いに歩み寄り、文化的な交流や科学的・学術的な協力など、差別や偏見を超克する目標をもって、文明の進化を促進する関係性の構築への対話や行動を起こしていれば、また違った状況になっていたのではないかと考えてしまいます。しかし現在の世界的なロシアへの経済制裁や、ウクライナへの武器の供与などの対応は、協調を促すどころか一方的な力の誇示で抑えつけようとすることで、逆にロシアの反発をより助長し、紛争を激化させているように見えます。それは世界的な経済の混乱を招き、さらなる民衆の犠牲を産み出す温床となっています。
そもそもNATOという存在自体が旧ソ連や東側諸国などが加盟するワルシャワ条約機構の脅威に対する軍事的な国際機構でした。ロシアがどれほど欧米を中心としたNATO勢力への警戒感をもっているか、そして近接するウクライナがNATOに加入するということは、ロシアにとって自国への軍事的圧力が増大するととらえることは当然のことでした。それを敢えて推進しようとした欧米諸国は、今回のロシアによる侵攻の契機をつくったとみることもできます。
いずれにせよ武力衝突が発生した時点で、ロシアだけでなく、ウクライナも欧米諸国も、その国家運営を担っている者は、いかに英雄的な言動で人々を感動させようとも、既に国際情勢の混乱をまねき、民衆の犠牲を産み出して世界に不信と不安を増大させた責任をこれからも負わなければならないと私は考えています。
一部の意見では、ウクライナの降伏や核兵器などの大量虐殺兵器による戦争の終結を待望する声があがっていますが、かつての世界大戦での敗北国において民衆が国家の犠牲となり、その悲惨の怨嗟が今も続いていることは歴史的事実です。いかに理知的な論理にみせかけようとも、ロシアの武力制圧に対するウクライナの妥協を促し、無数の民衆の犠牲を無視するかのような言動は、当事者ではない第三者の身勝手な主張としか私には思えません。

「平和を望むなら、戦争に備えよ」という古代ローマ時代の格言がありますが、現代においてそれは全人類の犠牲や滅亡を招く行為となります。「平和を望むなら、平和への準備をする」ことが大切であり、そのために現状の危機に適応できる防衛力を備えながらも、国境を越えた交流・対話をすすめて相互の信頼を築いていれば今回の戦争は回避できたのではないかと今さらながら考えてしまいます。この遠い国での戦争を、テレビやネットの世界での他人事として受け止めがちですが、これからの未来をかたちづくり、次代に受け継いでいくのは私たち自身です。
自身の利益を優先するばかりに他者に犠牲を強いる考え方は、現在の自国優先主義や地球環境の汚染問題の根底をなすものだと思います。その破滅への濁流が全世界に広がらないためにも、私たちがリアリティをもってSDGsなどの地球規模の共通課題を共有し、解決に向けた取り組みを一歩一歩、前進させていくことが大切ではないでしょうか。あくまで個人的な見解ですが、そうして人々の意識を転換させていくことが、今回のような戦争の過ちを繰り返させないための方途ではないかと思います。


元統一教会と政治の関係について、連日、国会でもマスメディアでも取り沙汰されています。
そもそも選挙の応援演説中に安倍元首相が殺害された事件に端を発しているわけですが、事件自体は殺害犯の教団への怨恨が原因とされ、犯人の母親が教団に多額の献金をしたことで家庭が崩壊したことから教団への恨みを募らせ、繋がりがあるとされていた安倍元首相への凶行に及んだといわれています。
もちろんカルト教団が組織的に信仰心を利用して詐欺などの犯罪行為を行ったことは許されませんし、厳格に罰せられるべきです。またそのような組織を自身の票田として利用する政治家は、たとえその自覚がなかったとしても、被害者である民衆を犠牲にしながら自身の地位や名声を得ていることに対し、責任を感じて欲しいと思います。

ただし私はそのことに対するマスメディアやSNSなどのネット上での熱狂の方に、異常さを感じています。
まるで自分が悪を裁く正義の存在であり、正義の目的のためならいかなる行為も許されるような言動がテレビやインターネットで垂れ流されています。第三者的な立場で事実を伝えるべき報道に携わる人物さえも、関係する人たちを晒し物にして、他者の信仰や考え方を差別し排他的に扱うことさえあります。自らの常識に該当しない者を、一線を画してマイノリティのセクトに当てはめて、自分の矮小な考えを正当化しようとする行為に、今回の事件以上に社会の本質的な悪意や危険性を感じます。

今回の事件で糾弾されるのは第一に犯人であり、教団組織における犯罪行為であり、それに依存した政治家としての見識の低さだと思います。
それを勝手に拡大解釈して、人のもつ信仰心や物事への執着心を否定するような、ましてや差別して見下すような言動は、多様性を否定して画一的な価値観を相手に強要する行為です。
社会において声の大きい多数派が正義を称する世論を振りかざし、意見を異にする者の人権を蹂躙することが簡単に許されるようになれば、かつて第二次世界大戦を引き起こしたドイツのファシズムや日本の国家神道と同様に、国家の情報統制や教育によって簡単に国民はコントロールされていきます。
今の日本だけでなく、ナショナリズムが横行した国では、ひとたび世論が一部の扇動者によって動かされると、雪崩をうつように国民が善悪の判断もあいまいなまま世論に流されていきます。

そのように誰もが世論に迎合し多数派に流されて、人間性を否定することに疑問をもたない社会は弱く脆いものです。
では社会を強くするためにはどうすればよいのか。私は国家と国民を結ぶ中間集団の機能を活発にして、国民が互いを尊重しながら自立することが重要ではないかと考えています。
個人でも国家でもない、その間に位置する中間集団に自分の居場所を持つことで、人は他者と肌感覚をもって交流することができ、お互いの考えを知り、議論することができます。かつてはそのような地域団体やボランティア団体、共通の目的をもつ任意組織が機能していました。
時代とともに会社組織に属することが一般化し、仕事以外の人間関係が希薄になったり、ご近所付き合いも失われていくにしたがって、中間集団は徐々に衰退しています。中間集団が担っていた社会の関係性の網の目からとりこぼされていく人が、若者を中心に増えています。そうしてこぼれ落ちた人たちは、確たる信念や哲学を学ぶことができず、メディアやSNSにより一定の世論の方向に集団コントロールされやすくなります。
(この記事を書いている最中も、韓国・梨泰院の転倒事故や、連日にわたり北朝鮮からミサイルが発射されると、元統一教会に関する報道は見聞きしなくなり、目新しいニュースに関心が移り変わっていきました。)
普段から中間集団に足場を持ち、貧困や差別などの身体的なリアリティーと常に向き合いながら問題解決に向きあい行動していくことで、極端なイデオロギーや偏狭な考えをもつアジテーターに扇動されることなく、強い社会基盤を構築できるのではないでしょうか。
国家や社会に隷属させるための「社会のための人間」をつくるのではく、自らが主体者として身近な幸せをつかむことのできる「人間のための社会」を構築していくこと。子どもも大人も世代を超えて教育や中間集団がその成熟を促進することで、身近な地域や社会を変化させ、やがては国家的な紛争や人間社会の鬱屈を解決する、遠回りでも着実な一歩一歩となると私は信じています。

NPO法人わがことは、地域社会において課題解決や新たな価値を生み出す地域コミュニティやボランティア団体をはじめNPOやソーシャルビジネス等を支え、社会的投資と資金循環を促して成長させていくための仕組みとして、コミュニティ財団を発足させようと尽力しています。
私はその活動により、誰もが安心して生活し交流できるための中間集団を活性化させ、社会を強くしていくことで、衰弱化した世の中を健全化させられる潮流のひとつになることを願って止みません。


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