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人間を“脱ぐ”ファッションショー ~新世代ホラー『レリック 遺物』からベルイマンまで~



※本稿は映画『レリック 遺物』(以下『レリック』)の内容を巡って、見た人にしかわからない種類のネタバレを多く含みます。
見た人にしかわからない種類のネタバレが読む人のまなざしを通して見る・読むから書く・作るへと至る未来の創造の可能性を育んでいく。それ即ち批評。



・脱ぐことを巡るファッションショー

昨今話題の新世代ホラーの流れに連なる傑作として、また女性監督の手になるフェミニズム的な視点を含んだ変化球として評判の映画『レリック』を見た。
傑作!
仏教の教えによれば死はひとつの救済であり、最期の刻が近づくにしたがって人間は、それまでの生涯を通じて身に着けてきた生老病死の四つの苦痛=四枚の衣を少しずつ脱ぎ捨て、まっさらな裸の髑髏へかえってゆくのだという。
それは朝方着込んだ窮屈な鎧をため息とともに脱ぎ捨てる脱衣の瞬間、われわれが日常的に経験するあの解放感が人生という単位の中で極大化された、観客のいない孤独なファッションショーであると言えよう。
われわれはみな着る快楽と引き換えにその苦痛をも背負わされ、続いて脱ぐ快楽へと独力でエネルギー転換していかなければならない永久運動のモデルである。
祖母・母・娘の女性三代に渡って上演される脱ぐことのファッションショー。
『レリック』は、生老病死の四つの衣のずっしりとした重みと繊細微妙な手触りをホラー映画の形式を使って充分に表現しつつ、そのエネルギーの質を三人の女性が共同して脱ぐことの快楽へと転換してゆく死に物狂いのランウェイである。
だが、仏教の生まれ変わり思想=輪廻の教えが説く通り、このランウェイには終わりも始まりもない。ただうんざりするほど繰り返されるバトンの受け渡し作業、継承の儀式があるだけだ。


・フェミニズムの視点から ~窓が見つめる、家が閉じ込める~

こうした特徴を、男性権力の透明な視線に晒され続ける女性というモデルの苦痛にフォーカスしつつ、いまだ輪が開く気配のない輪廻からの解脱の可能性を探るフェミニズム的な表現として読むことは可能だろう。
事実、本作からは不自然なほど男性の影が感じられない。いや、登場しはするのだ。物語のきっかけとなる祖母の失踪事件に絡んで母と娘に事情聴取する男性警官の顔はしかしキャメラに捉えられることがなく、祖母の隣人である“知恵遅れの”少年は男性的な野性がまったく希薄で、その父親も同様。つまり彼女たちの姿を監視するまなざしの権力の存在は、排除されているのではなく、隠蔽され、透明化されることによって逆に強められている。
祖母が長年暮らし、母と娘が滞在することになる“家”は、まさにそうした暴力性から女性たちを保護してくれる要塞だが、同時にそれは透明になることによって、ある透き通りを通気孔のように迎え入れることによって、容易に逃れることのできぬ呪いの場として機能する。
通気孔とは、映画には登場しない曾祖父の部屋に取り付けられていたという八角形のステンドグラス窓を指す。ステンドグラスはもともと光を透過することによって絵の内容を立体的に浮かび上がらせる効果を担っており、特にヨーロッパ中世のゴシック式教会において、ちょうど今でいうところの3D映像やプロジェクションマッピングの要領で、キリスト教信者たちの眼前に聖書の場面をリアルに再現してみせたという。
部屋が取り壊された後、この窓は祖母宅の正面玄関の扉として利用されているのだが、にも関わらず彼女は「通りがかった時にあの窓を見るのも嫌だった」と憎々しげに口にする。それならなぜよりにもよって家の一番目立つ場所に飾り立て、文句を言いながらもそこに住み続けるのだろう?
その理由は、まさにこの窓が悪しき光を透過する呪いの力となって祖母を人ならざる存在へと変え、女性三代に渡って不吉な影響をもたらしていくことを思えば明らかだ。
目に見えぬ存在となり、男性権力の仮想的な発生源=父の痕跡として語り継がれることによって、男性的なるものはその歴史性において永遠に女性たちを苦しめ続けるのである。
したがってこの窓は、見られるのではなく、見ている。映画中で幾度もクロースアップされるステンドグラスに描かれた三つの山(祖母・母・娘の三人の女性を象徴していると思われる)は、人物が不在であることによって逆説的にその光景を見ている何者かの視点を想起させる。
祖母の家は超越的な父のまなざしを窓から迎え入れることによって、彼女たちを監視し、縛り付け、閉じ込めているのだ。


・着る/脱ぐ  ~ボディー・ファッション~

しかしながら、本作がフェミニズム的な批評性を優れた形で示し得ていることはたしかといえ、それだけで済ますにはもったいない。テーマに即した書き手は他にいくらもいるはずだ。
筆者としてはやはり、冒頭で示した
❝祖母・母・娘の女性三代に渡って上演される脱ぐことのファッションショー。
『レリック』は、生老病死の四つの衣のずっしりとした重みと繊細微妙な手触りをホラー映画の形式を使って充分に表現しつつ、そのエネルギーの質を三人の女性が共同して脱ぐことの快楽へと転換してゆく死に物狂いのランウェイである。❞
という視点にこだわってみたい。
以下さまざまなトピックから他作品との比較を試みつつ、本作の本質を抽出していこう。


・ベルイマンとパスカル・ロジェへの回答?  ~からだとこころの黒い瘢痕~

“娘・母・祖母の女性三代に渡って上演される脱ぐことのファッションショー”という切り口から真っ先に連想される作品がある。北欧の巨匠イングマール・ベルイマンの代表作『叫びとささやき』だ。

本作同様こちらも娘・母・祖母の女性三代に渡るドラマであり、神の不在を問う(しかし神が死んだ近代以降、そのまなざしは“父の痕跡”となって、“遺物”として残存しているのではないか?というのが『レリック』に内在するフェミニズム的な視点だろう)ベルイマン一流のあの異様に張り詰めた画面が延々と持続する恐るべき傑作だ。
余談だが、ベルイマンのシリアス路線の作品群に共通する緊張感はホラー映画におけるそれと比較されるところでもあり、その昔あるAmazonレビュアーが「自分は生涯に渡って数え切れないほど多くの映画を見てきたが、ある時期からほとんどの映画が見るに堪えない代物であるように感じられるようになってしまった。見ても画面の緊張が持続せず、どうしても途中で飽きてしまうのだ。そういうわけで今ではホラー映画とベルイマンしか見ない。シネフィル好みの映画というのは概して退屈なものだが、唯一ベルイマンの映画だけはその恐るべき画面の緊張感において直接的に人間の生き死にを問題にするホラー映画のそれに匹敵している。いや、遥かに超えていると言っていい」(大意)と書いていたものだが、けだし名言かな。個人の体験に立脚した立派な批評になり得ていると感じる。
さすがにベルイマンのフィルモグラフィーの中でもその緊張が頂点に達した『叫びとささやき』に比べれば分が悪いが、本作における画面の静謐さもなかなかのものだ。観客を身体生命の危機の場へ連れ去るホラージャンルの緊張にただひたすらシリアスなドラマを極限まで突き詰めることによって肉薄したベルイマンに対する再びの返歌と捉えることも不可能ではないだろう。
着る苦痛から脱ぐ快楽へと向かう本作に対し、あちらが着る快楽から脱ぐ苦痛へと向かう逆転の構図を描いている点も実にベルイマンらしく感じられて興味深い。このような発見は本作との比較を通して初めて明らかになったことだ。
『叫びとささやき』の前半部において、登場人物たちはとにかく着飾る。そうとは言わないまでもそうとは言わないぶん過剰に、攻撃的なまでにわが身のオシャレを競い合う。マジもんのイタリア貴族の末裔ルキノ・ヴィスコンティが動のラグジュアリーを体現したとすれば、ベルイマンがここで示したのは静のラグジュアリーの美学だったと言える。もともと舞台の演出家出身ということもあり、人物をオブジェのように配置して美的空間を作り上げるその手腕はたしか。鮮やかな赤一色を基調とする空間に、女性たちのドレスも赤赤赤!と思いきや、白白白!北野武は『Dolls』できっとこれをやりたかったのだろうと思うが、結果はご覧の通り。思わずハレーションを起こしそうなほどハイコントラストかつラグジュアリーな画面に、女性同士の会話に特有の微妙な腹の探り合いや当てこすりが展開されるちぐはぐさがこちらの胃をキリキリと責め苛む。
とはいえ、あくまでベルイマンの目的は前半で蓄えたエネルギーの劇的な転換にこそあり、後半では生滅の身にあえて着飾ることの虚しさが、老い=からだの衰えと記憶=こころの衰えという心身両面に渡る減衰のテーマとともに語られていく。
このうちから老いというテーマを取り出し、時間の破壊的侵略を被る人間存在を一種のモンスター=“人ならざるもの”として戯画化してみせたところに『レリック』の美点が発見されるとすれば、同時にそこから記憶というテーマがすっぽりと抜け落ちてしまっている点をどのように評価すればいいだろう?
なるほど、映画は曽祖父の呪われた家を発見する祖母のものと思われる記憶の回想から始まり、母もまた同様のフラッシュバックを体験しはするが、それらが暗示するものはあくまで表層のイメージの段階に留まっている。
女性たちのからだに記された黒い瘢痕が逃れ得ぬ呪い(透明化された男性的まなざし?)の苦痛に満ちた継承の表れとして効果的に用いられていることに比べて、記憶、即ち彼女たちのこころに記されているはずの黒い瘢痕にはほとんど注意を向けられることがない。
なんというか、本作は不自然なまでに登場人物たちのこころに対して不感的なのだ。
正直に言って、この点に関して筆者は今のところ判断を差し控えたいのだが、しかし『叫びとささやき』に勝るとも劣らない繊細な手つきでもって、女性同士の会話に特有の微妙な腹の探り合いや当てこすりを表現してみせる監督のこと、おそらくこうした点は作品の瑕疵としてよりむしろ一種の戦略として見るべきなのだろう。
インタビューによれば、本作は監督自身の実母の介護体験が着想源のひとつになっているという。おそらく彼女は、人間相互のまた家族間の親愛の情が通じぬモンスターとして、こころを喪失した“人ならざる存在”として、最愛の母が新たに眼前に立ち現れてくるような恐ろしい感覚を味わったのではないだろうか?
だからこそ、三人の女性たちの関係を巡るディスコミュニケーションや言葉のすれ違いが全編を通じた見どころになっており、その和解は言葉によってでもこころによってでもなく、生老病死の衣を脱ぎ着することの肉体的共感によって果たされるのである。
この点において本作と最も似ている”フェミニズム映画”はフランスの鬼才パスカル・ロジェ監督の『マーターズ』だろう。同作に現れた、脱衣(皮膚は人体に着せられた第一番目の衣服である)による言葉を超えた共感に、同じくロジェの『ゴーストハウスの惨劇』に見られる女性を縛り付ける場としての家、それからモンスター化した“母”との対決と家族愛というテーマを付け加えれば、『レリック』の原型が完成すると言えば言い過ぎだろうか?

しかし、もし仮にこの社会で女性同士が助け合って生きていこうとする際に言葉やこころがかえって邪魔になるとすれば、ここにはまた別の問題が兆し始めているとも言える。



・Life is Vanitas

さて、『叫びとささやき』がもっともよく現しているように、着飾ることの美は滅びゆくことの代償と背中合わせになっている。
しかし、特に作品表現において、それをわれわれの生に不可避の代償と考えるかひとつの積極的な美的態度として受け取るかは作家や観賞者の自由に任されている。
ルネサンス期にはヴァニタス絵画と呼ばれる作品群が流行を見たが、これは人間存在の生の儚さを寓意的に表現することによっ、てメメント・モリ=「死を想え」という教訓を喚起するためのものだったと言われている。だが、滅びの美学、即ちデカダンの視線をひとたび経由すれば、それらがたちまち危険で魅惑的なものに感じられてくるから不思議だ。
『レリック』にあって『叫びとささやき』にないもの。それは、このような滅びの美学を形成すべく周到に配置されたさまざまなモチーフ群の存在であろう。
実際、『レリック』の世界は滅びを巡る魅力的な表象に満ち満ちている。
・老い·····“人ならざる存在”へ変化していく祖母。からだのメタモルフォーゼの可能性。
・水·····キリスト教の象徴体系において死と再生を司るモチーフだが、ここではもっぱら金属を錆付かせ、他のあらゆる物体を少しずつではあるが着実に削り取り腐敗させていく“減衰”のイメージを象徴している。
・染み、軋み、傾き·····古い木造家屋である祖母の家はあちこちにガタが来ており、部屋の腐った木には染みが広がり、階段は娘が昇り降りするたびに激しく軋み音を立てる。そして、肉体を着る苦痛が恐怖を通して脱ぐ快楽へとエネルギー転換されていくきっかけとなる重要な場面、娘が二階の部屋で見てはならぬものを発見するシークエンスの少し手前で、部屋の廊下を映し出していたキャメラはぐらりと揺れ、われわれの見ている視界が傾く。この傾きは娘が恐怖を体験する決定的な瞬間に90度にまで増長し、娘とわれわれの現実の足場を失わせる。
いずれもホラージャンルの醍醐味を味わわせてくれる魅力的な場面だが、重要なのは、こういったモチーフがただ乱雑に並べられているわけではなく、ちゃんとした意図をもって、“肉体を脱ぎ着することの苦痛と快楽”という大テーマ、特にその直接的な表現である“老い”という小テーマに寄り添う形で配置されている点だ。
例えば、染みは、家屋だけにではなく人間の体にも黒い瘢痕として広がっていき、次第に親から子へと伝播されてゆく。水に関して言えば、映画冒頭の「(祖母が)年のせいか忘れっぽくなっていてこの前も水道の水を出しっぱなしにしていた」という母のセリフに始まり、ぽたぽたと水が滴り落ちる表現の繰り返しを経て、後半、祖母の失禁場面の尿の水っぽい透明さに行き着く点を想起されたい。
人は滅びを苦痛とともに経験するうちに、やがてその滅びの力と一体化してゆく。
そこになんらかの美を見いだすことさえできれば、着ることの苦痛は脱ぐことの快楽へと徐々にすり替わってゆくだろう。
しかし、それは必ず恐怖の折り返し地点を経て、われわれがまっさらな裸の髑髏になる過程をファッションショーとして楽しもうとする限りにおいて可能となるのだ。
だれもが日常的に経験する脱衣の快楽と解放感、人前で裸になることのためらいと屈辱を通して、ひょっとするとわれわれは来たるべき死の予行演習を行っているのかもしれない。

 



※図らずも本稿と対になるような内容の過去記事。こちらも合わせてお読みください。
生涯髑髏のモチーフに固執し続けたことでも知られるイギリスの伝説的デザイナー、アレクサンダー・マックイーンの生と死。
伝記映画『マックイーン:モードの反逆児』のレビューです。





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