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影を慕いて 〜青春の終わりを容赦なく描ききった名作『暗殺の森』〜

影に憑かれた男の映画である。
影とは叶わぬ夢が見せる幻、失われた青春の残照。
13歳の時に性的虐待を受けた運転手の青年を拳銃で撃ち殺した“異常な”過去を隠し持つ主人公マルチェッロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は、自身がそこから締め出されてしまっているように感じている“正常な生活”を独力で作り上げ、その内部に復帰せんとする強迫的な欲望に駆り立てられている。中産階級の平凡で退屈な女ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)を妻に娶り、大いなる全体の一部となって機能すべくファシスト党に身を投じ·····
ジュリアに促されマルチェッロは教会を訪れるが、彼が少年期に一度受けて以来カトリックの告解を受けていないのは「すべての罪を犯した」記憶に苦しめられているためだ。われわれの主人公の望みは、まさにそうした後ろ暗い過去と訣別し、“正常な人間”になること。党との仲介役を担ってくれた盲目の同志イタロ(ホセ・クアグリオ)が例に挙げる「街で見かけた美しい女をついつい目で追ってしまい、複数の男たちが自分と同じように視線を動かしていることに気付くと安心する」ような、凡庸な人々の仲間入りを果たすことなのだ。即ち、全体主義者の。とはいえ、映画の原題はイタリア語の“ il fascista”=全体主義者ではなく、“il conformista”=体制順応主義者。こちらの方が主人公が理想とする姿をよく言い表しているように思われる。たびたび繰り返される“正常な人々”=“il normale”というキーワードを“il conformista”に読み替え、さらにそれを“ il fascista”にまで飛躍して考え込んでしまっているところに、マルチェッロのあらかじめの誤謬とトラウマ的な病理が隠されているのだ。
舞台は1930年代。ムッソリーニのイタリアに次いでヒットラーによるナチス・ドイツが誕生、全体主義の脅威が欧州を席巻した激動の時代。
マルチェッロは党から大学時代の恩師でありファシズムの足音を背に亡命したインテリ層の指導者・クアドリ教授の暗殺を命じられる。ボディーガード兼お目付け役に小太りの髭ヅラ男マンガニエーロ(ガストーネ・モスキン)を伴い、リエージュへ。さらに新婚旅行と称し、なにも知らない妻ジュリアを連れてターゲットが滞在するパリへ。
ところが映画冒頭、マンガニエーロが運転する車に乗り込んだマルチェッロは、教授のパリ行きにその妻アンナ(ドミニク・サンダ)が同行しているという予定外の事態を知らされる。「女心はわからないものだ」。
リエージュの街路を流していく最中、助手席に揺られつつさまざまな記憶を思い起こしているらしいマルチェッロの混乱した頭の中を再現するごとく、過去の回想シーンが適宜挿入され、われわれの主人公の来歴が明かされていく。華麗にして幻惑的なモンタージュ。そうして時制はパリに到着したマルチェッロ夫妻へと追いつく。
教授宅を訪問した二人は妻であるアンナに迎え入れられるが、不穏な予兆は早くもたなびいている。
門を開け室内に入ろうとした矢先、飼い犬に吠え立てられ、たまらず悲鳴を上げ階下まで退くジュリア。「逃げて!逃げて!」。一方、出迎えに現れたアンナの美しさに息を呑み、ひと目で恋に落ちるマルチェッロ。クアドリの娘ほども年若いアンナは、バレエの教師をしているマニッシュでクールな美女だ。少々不可解なまでに滑稽な先ほどのジュリアのオーバーリアクションは、実はクライマックスの暗殺シーンの悲惨な情景を予告している。犬に追われ(マルチェッロの正体を見抜いているらしいアンナは「ファシスト!この国の言葉で言うと“犬”よ!」と吐き捨てる)、逃げて、逃げて·····。
マルチェッロの混乱した記憶はジュリアとの出会いの衝撃によって現在へと収束し、以降、物語は破滅に向かって一直線にひた走ることになる。
大勢の男たちに脇を固められ、あたかも警察署に連行されるようにクアドリ教授が待つ部屋に案内されるマルチェッロ。どうやら数年ぶりの突然の訪問を警戒されているものらしい。
室内は闇に覆われ、窓を背にして立つクアドリの表情は読み取れない。さらに廊下から差し込んでくる光を遮るように扉を閉ざし、口火を切るマルチェッロ。「教授は暗闇と静寂を好んでおられました。大学時代にはそれが不可解に思われたものですが、今ではその気持ちがわかるような気がします」。室内はいよいよ一面の闇に沈み、スクリーンには二人の男の影が浮かぶばかり·····そう、このシーンの鍵となるのは、光に対する影、孤独な男が追い求める理想の幻影なのだ。暗闇の話からプラトンの洞窟の比喩が話題に上る。洞窟に暮らす愚かな人々が見るのは天上の光が映った影であるに過ぎない·····
「そういえば君の卒論のテーマがまさにそれだったな。卒論は完成したか?」
「いえ、教授が去ったせいで中座したままです」
「教授が去った後、僕はファシストになりました」
マルチェッロの言葉にはどこか恨みがましく恩着せがましい調子が感じられる。
多くは語られないものの、ひょっとするとマルチェッロにとってクアドリは単なる指導教授というだけではなく、良き父のような存在でもあったのかもしれない。
戸籍上の本当の父親は精神病院に入院しており、金策に苦しむ母から疎まれている。マルチェッロが見舞うも、父は口を閉ざしたまま対話を拒否し、自ら拘束衣に身を埋める。入院の理由がジュリアの母が疑う「梅毒」であったかどうかは不明だが(あるいは政治犯かもしれない)、父の存在がマルチェッロにとっての消し去りたい過去の一部を成していることは間違いないようだ。すると、「教授が去った後、僕はファシストになりました」という発言には、良き父としての役割を全うすることなく自らの元を去ったクアドリに対する愛憎相半ばする複雑な感情が込められているのかもしれない。
が、新たにファシズムという悪しき父を選び取った未熟な息子、かつての教え子に対する師の態度はなかなかに手厳しい。
やりとりの中でクアドリはマルチェッロの帰属する全体主義の美学がプラトンの語る光に対する影のごとき迷妄に過ぎないことを示唆し、「申し訳ないが君はファシストには見えない」と痛烈な一言を浴びせかける。老獪な懐柔のテクニックと言えるが、道を誤りつつある“息子”に救いの手を差し延べようとする気持ちもあったに違いない。後日、クアドリはカフェでマルチェッロに「ローマにいる私の仲間に渡してくれ」とわざと白紙の手紙を手渡し、受け取りを拒んだマルチェッロがファシズムに染まりきっているわけではない点を“証明”してみせる。「君を試してみたんだ。君が真のファシストなら、この手紙を受け取って利用していたはずだよ」。こっちにこい!戻ってこい、息子よ!今ならまだ間に合う!皮肉で挑発的なふるまいの底に、クアドリの“親心”が覗く。
だが、洞窟の比喩を巡る会話が終わりに差しかかり、クアドリがカーテンを開け放つや、壁に浮かび上がっていたマルチェッロの影はたちまち掻き消えてしまう。
必然、われわれの主人公の悩みは深くなる。自身が追い求める理想、ファシスト=正常な人間になりたいという願望は、真理の光が見せる実体のない影に過ぎないのだろうか·····?僕は間違っているのか?
こうした哲学的な主題は光と影の対比的な映像表現のなかで直接に示され、全編のテーマを形作っていく。
それもそのはず、撮影はベルトルッチ監督との長年のコンビで知られ“光の魔術師”の異名をとるヴィットリオ・ストラーロ。数々の名作を手掛けてきた名カメラマンのキャリアの中でも本作は屈指の出来と言っていい。
例えば、少年時代のマルチェッロが運転手に部屋に誘われ性的虐待を受けるシーン。廃墟じみたアパートに差し込む柔らかな光が揺れ動くカーテンに投射されうつろうさまが美しく、どこか夢うつつの感覚を伝えてくるところなど、年月の経過とともになかば虚構化されたトラウマ的な記憶の回想シーンにふさわしい。イタリア映画ならではの宏壮にして華麗な建築群も本作の見どころだ。また、ジュリアが初登場しマルチェッロと結婚の約束について話し合う場面では、ブラインドを通して格子状に散らばった光と影のコントラストが、ジュリアが着用している幾何学模様のワンピースの白と黒とに重ね合わされる。この映画が光と影の主題を持つものであることを端的に示す鮮やかな演出だ。
漆黒のスーツに身を包んだマルチェッロはここでも影の役割を負っている。黒は、俗に黒シャツ隊と呼ばれたムッソリーニ率いる国家ファシズム党の軍服の色であり、他のあらゆる色彩を取り込み同化させる没個性の色。そうなりたいと主人公が望む“正常な人々”の象徴でもあろう。
かつての師クアドリの言葉に苦悩し、アンナへの恋心に思い悩むマルチェッロは暗殺の実行をずるずると引き伸ばす。その行動を逐一監視していたマンガニエーロはついに業を煮やし、人気のない庭園の中で闇雲に叫ぶ。「先生(マルチェッロは大学で哲学講師を務めている)!どうせどこかに隠れて聞いてるんでしょ!いったいどうしたっていうんですか?なにか不安なことでも?」。通りすがりのフランス人の老婆に嫌味を言われ、そっと小唄を口ずさむ。「俺ら黒服は女にゃ好かれないのさ〜♪」。
いわばちょっとした道化役。マンガニエーロ、イタリア語で「棍棒」を意味するとぼけた名を持つこの男の存在は、張り詰めた緊張に満ちた映画にユーモラスな味を添えている。
幸か不幸か、そこに思いがけぬ好機が舞い込む。クアドリ夫妻が別荘まで旅行に出かけるというのだ。能天気に笑いながらマルチェッロに話し聞かせるジュリアによれば、その場所は「雪の溶け残った人気のない深い森の奥」だという。「殺しはパリ以外の場所で」との党の指示にも適ううってつけのロケーションだ。
マンガニエーロの手前、もはやこれ以上計画を遅らせることはまかりならない。華やかに着飾った男女がカフェで輪になってタンゴを踊る痙攣的に美しい名シーン。追い詰められたマルチェッロは、ダンスのさなか、くれぐれもクアドリに同行せぬようアンナに懇願する。
一度は了承したアンナだったが、パリ行きに連れ添ってきた最初の誤算が既に二度目の過ちを予示している。
当日、もの寂しい森の雪道を走る二台の車。前方にはクアドリとアンナ、後方にはそれを付け狙うマルチェッロとマンガニエーロが乗り込む。われわれの主人公の願いも虚しく、とうとうその時がやって来てしまったわけだ。
ふと、クアドリ夫妻の車が停止する。前方を塞ぐ一台の車。運転手はうつ伏せになってハンドルに顔を埋めており、どうも尋常な様子ではない。「体調が悪そうだ。様子を見てこよう」。「あなた、お願いだから中にいて!なんだかこわいの!」。懇願するアンナをなだめ、外に出て行くクアドリ。
と、その時を待ち構えていたかのように背広姿の男たちが数人静かに斜面を駆け下りてき、彼に迫る。ナイフで一撃、また一撃。苦痛の呻きを漏らし倒れ伏すクアドリ。
続いて男たちは、車内でその光景を目撃したまま固まっているアンナのもとへ駆け寄ってくる。狂乱のていで外へ飛び出した彼女は、後方に停止していた車のフロントウィンドウに必死の思いで追いすがり、泣き叫びながら助けを求める。当然、運転席のマンガニエーロは我関せず。慌てて今度は後部座席の人影に危機を訴えようと·····そこで人影の正体に気付く。一際高く、大きくなる叫び声。「マルチェッロ!マルチェッロ!なぜなの?」愛する者にそう問いかけるように·····
ところがマルチェッロはウィンドウ越しの哀願を無視し、じっと押し黙って前方を見据えたまま動かない。すべてを悟ったアンナは絶望のあまり我を忘れ、森の中をがむしゃらに逃げ惑う。こわい犬たちから、逃げて、逃げて·····
その背中に後を追う男たちが容赦なく狙いをつける。鋭い猟銃の発砲音。一発、二発。美しい顔を血で染め、ふらつき、旋回し、崩れ落ちていくアンナ。いつか教室で生徒たちにバレエを教えていた時の凛とした姿からはかけ離れた、滑稽なまでに哀れなダンス。男だてらに煙草を咥え誇り高く振る舞っていた女の無様な最期は、見る者に悲痛な感慨をもたらすに違いない。映画史に名高いクライマックスシーンだ。
いっさいが終わる。党に泣きつき増援を呼んだものか、あるいは外部から殺し屋を雇ったのか、ともかくマルチェッロは自らの手を汚すことなく任務を完了させる。事態を察したマンガニエーロは怒り狂い、車外に出て悪態をつく。「あの野郎!金のためならなんでもやるが、卑怯者だけは嫌いだ!」粗暴な輩と見えて、意外や真っ当な信念の持ち主だったらしい。
結局のところ、マルチェッロは自分自身で決断を下すことができなかった。過酷な青春をくぐり抜け、大人になる試練から逃げ出したのだ·····
数年後。ローマに戻ったマルチェッロ夫妻は無事子宝にも恵まれ、穏やかな日々を送っている。苦悩する青年はついにようやく“正常な生活”を手に入れたものらしい。だが、テレビからはムッソリーニ失脚のニュースが繰り返し伝えられ、情勢が大きく変化したことが知れる。おそらく1943年に発生したクーデターにより、ムッソリーニの辞職とパドリオ元帥の首相任命が全国報道された一事だろう。
幼い息子をベッドで寝かしつけているマルチェッロのもとに一本の電話。盲目の同志イタロからだ。待ち合わせ場所の橋まで来てほしいという。ムッソリーニ麾下の国家秘密警察、栄光のファシスト党員たちは今やイタリアを蹂躙した悪の手先として断罪される立場にある。ジュリアはクアドリ夫妻暗殺の件を蒸し返しつつ夫の身を案じるが、マルチェッロは不機嫌そうに妻の制止を振り切り、出て行く。
イタロと落ち合ったマルチェッロは、洞窟のような仄暗い空間の中で、金髪の男が男娼らしき青年を口説いている現場に出くわす。聞き覚えのある誘い文句····13歳当時の自分を部屋に連れ込み性的虐待を加えたあの男と同じ·····「おまえ!生きていたのか!」激昂したマルチェッロは「あの日のことを覚えているか?」としきりに男を問い詰めるが、相手にはまるで心当たりがない様子。わけもわからず怯えて逃げ去っていく。そもそも男の風貌は記憶の中の像とは似ても似つかぬはずだが·····興奮収まらぬマルチェッロは「捕まえろ!あいつはファシストだ!人殺しだ!あいつはクアドリ教授を殺した!妻のアンナを殺した!」と狂ったように叫びはじめ、今度はイタロを指差し、同様の文句を繰り返す始末。
ファシズムに限らず、あるひとつの政治体制が転覆した暁には、かつての同志たちを大声で告発し、自らは難を逃れようとする“卑怯者”が後を絶たないと聞く。「いきなりなにを言うんだ、マルチェッロ·····」友と信じていた者の突然の裏切りに驚き戸惑うイタロ。そこにムッソリーニ失脚を祝うレジスタンスの青年たちが行進してき、二人の間を通り過ぎていく。時代は変わったのだ·····
すべては天上の光が哀れな人間たちに見せる洞窟の影、幻に過ぎなかったのだろうか?マルチェッロが信奉するファシズムの理想はおろか、これまで彼を突き動かし続けてきた罪の意識、あの性的虐待の記憶すら妄想か思い込みに過ぎなかったのだとすれば。それならばなんのために自分は党に服従し、恩師と最愛の人の殺害に手を貸したのか?いったいなんのために?
答えはない。
次々と父を取り替え、大人になることから逃避し続けてきた永遠の息子が“正常な生活”に復帰する日はついぞ訪れぬようだ。青春の猶予は、マルチェッロの預かり知らぬどこか遠くの場所で、ひっそりと終わりを告げていたのかもしれない。
ラストシーン。とうとう犯行が露見したものか、はたまた強迫観念から来る哀れな自演行動か、暗い牢獄のような場所に一人座しているマルチェッロ。柵の外側で燃えている小さな焚き火がその顔を照らし出す。放心しきった表情でなにもない空間の一点を見つめ続けている。するとそこに女の肢体があえかに浮かび上がる。あの日パリで「君と一緒ならすべてを捨ててもいい」とまで言い募った運命の女・アンナの記憶を思い起こしているのだろうか?その肉体の感触を、同じ世界にたしかに生き、息をしていたはずの愛しき者の手触りを。影に蹲り、終わりなき贖罪の意識とともに·····
画面が溶暗し、エンディングテーマが流れはじめる。別れた恋人の帰りを待ち望む女の歌だ。
「あなたの声が遠ざかる
あなたは何を求めているの?
きっと愛をさがしに行くのね」
「影よ
日の光に迷わないで
胸を射す光に燃やされないで」
「恋に悩むのも青春の魔力」
「私の方が間違ってるのかしら?
昔のように私のそばにいて
あなたの声が遠ざかる·····」
第二次世界大戦の集結を目前に控えた1945年4月28日。かつて独裁者としてイタリアに君臨し絶大な権力を奮ったベニト・ムッソリーニは、パルチザンの手によって捕えられ、愛人とともに処刑された。翌日、二人の遺体は他のファシスト党員たちと並んでガソリンスタンドに逆さ吊りにされて晒され、民衆から足蹴にされたという。
皮肉なことに、彼が率いた国家ファシスト党の国歌は“Giovinezza”といった。イタリア語で「青春」を意味する言葉だ。
影とは叶わぬ夢が見せる幻、失われた青春の残照·····
かくして影に憑かれた男の悲劇は、イタリアが追い求めた理想が潰える瞬間を捉えた一時代の記録へと高められる。青春の終わりを容赦なく描ききった甘く残酷な傑作である。

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