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「死んだ後はどうなるのか」について真面目に考察してみた

「死んだ後はどうなるのか?」

この疑問について考えたことのない人はおそらくほとんどいないでしょう。宗教を信じる人は死んだ後はあの世や天国、地獄があると考え、魂を信じる人は輪廻転生して生まれ変わると考えるかもしれません。また、唯物論者は死んだ後は無になるのだと疑いなく信じていることでしょう。

しかしそもそも、この問いは何を問うているのでしょうか??
だいたい、死んだ後はどうなるか? などということは明らかに決まっているはずです。すなわち、

「死んだ後は、死体になる」

考えて見れば当然のことです。死んだ後は死体になるに決まっています。
それなのに、なぜ我々は「死んだ後はどうなるのだろうか?」と考えて眠れない夜を過ごしているのでしょうか??

まず考えられるのは、この問いは客観ではなく主観について問うているのではないか、ということです。
客観的にみて、死んだ後に死体になる、ということは疑いようもありません。しかし、この主観的意識についてはどうでしょうか? 死んだ後は、この意識はどうなるのか、ということはひとつの大いなる疑問のように思えます。

しかし、それもまた、よく考えてみれば疑問でもなんでもありません。
そもそもこの意識現象は脳によって生成されている、ということは科学的におそらく確かなことです。よって、脳の機能が停止すると、まず意識現象は生成しなくなるでしょう。
よって、

「死んだ後は意識は生成しなくなり、『無』になる」

これが疑いようのない答えであるように思えます。
「死んだ後はどうなるのか?」と疑問に思う余地はなかったのです。


……しかし、そういうことではない、と思うでしょう。
この考えもまた、どこかズレています。何がおかしいのでしょうか?

そもそも、この世界には私以外にも無数の意識が(おそらく)存在しています。それにも関わらず、なぜだかわからないけど「この」私の意識が世界を眺める窓、すなわち主観的原点として選択され、こうしてそこから世界を眺めている。これはとても不思議なことです。
我々は、この世に赤ん坊としておぎゃーと生まれ出たと同時に、なぜだかわからないけど無数にある意識の中から他でもない「この意識」として「選択」され、今日まで世界を眺める窓として生きてきました。この原点性は、死ぬまではおそらく変わらず続いて行くものと考えられます。

では、死んだ後は、この原点性はどうなってしまうのでしょうか?

これには、一般的な答えがないと思います。
そしてこれこそが、「死んだ後はどうなるのだろうか?」という問いの意味する核心部分であると考えられます。

上記の様に、「客観的に見て」、死んだ後は死体になるに決まっています。また、「この」意識現象も、脳が生みだしているものである以上、脳の機能が停止すれば消滅することは疑いがないでしょう。
しかし、この「原点性」、これについては、どうなるかについて一般的なコンセンサスはありません。これは明らかに謎です。

では、「この私」が死んだ後、この「原点性」は、いったいどうなってしまうのでしょうか?

自然界の斉一性

「死んだ後は、生まれる前の状態に戻るだけだよ」

このような説明を聞いたことがあるかもしれません。
考えて見れば、宇宙が誕生し、私がこの世に生まれてくるまでのあいだ、私は何者でもありませんでした。そのような百何十億年も続いてきた「無」の区間の間に、ほんの数十年間、「私」という例外的区間が生じ、そして私の死後、またこの先永遠の「無」の区間が続いていく……

このような描像は、一般的に信じられているかもしれません。
しかし、この描像には明らかにおかしいところがあります

まず、この宇宙に無数にあると考えられる意識の中から、なぜだかわからないけど「この私」として意識が「選択」された。この現象が起こっていることは間違いない事実です。

ここで、自然界には斉一性という概念があります。
Wikipediaで引いてみましょう。

自然の斉一性原理(しぜんのせいいつせいげんり、 principle of the uniformity of nature)または単に斉一性原理とは、科学哲学の世界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定。18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームが懐疑的に批判した帰納法の確実性を再検討する形で、推論の一種である枚挙的帰納法を成立させるために必要な前提として、ジョン・スチュアート・ミルが提唱した。自然の一様性原理とも訳される。

Wikipedia「自然の斉一性」より

簡単に言えば、「一度起こった事は何度でも起こるように、自然はできている」という考えです。

例えば、今日太陽が東から昇ったとして、次の日には西からスイカが昇る、あるいはハイターとサンポールを混ぜたら塩素ガスが生じたとして、次の日に混ぜたらキンモクセイの香りが生じる、ガラスのコップを落としたら割れたとして、次の日に落としたらガラスが黄金に変わった、……ということはまずあり得ません。
太陽は次の日も東から昇るだろうし、ハイターとサンポールは混ぜるべきではないし、ガラスのコップは落としても黄金には変わりません。
このような「自然界の斉一性」が成立しているからこそ、この宇宙は方程式で記述できるし、我々は秩序だった世界のなかで存在し続けることができます。

さて、この自然界の斉一性に従うなら、一度起こったことは何度でも起こり得るのが普通であるはずです。
そう考えるなら、上記の「無数にある意識の中から『この私』という意識が主観的原点として『選択』された」という謎の現象も、一度起こったことなのだから、何度でも起こり得るはずだ、と考えるのは自然であるはずです。すなわち、

死んだ後も、また何らかの「私」が主観的原点として選択される

これこそが、「死んだ後はどうなるか?」という問いの最も自然な解答なのではないか、と考えられるはずです。

「魂」というやっかいな概念

そのように考えると、「魂」という存在が頭をよぎると思います。
死んだあとも別の意識を眺める窓として主観的原点性は続いていくとするなら、それはまさに「輪廻転生」そのものです。
では、「この私」から「次の私」へと連続していく「原点性」なるものは、いったいどのようにしてその連続性を担保されているのか??
ここに、「魂」というやっかいな概念が入り込む余地ができてしまっています。

始めに断っておくべきことは、ここでいう「魂」は記憶や人格の保持のような高度なことができるようなものではなく、もっと抽象的なものだということです。
よって、「幽霊」だとか「前世の記憶の引き継ぎ」だとか、そういうオカルト的なことは起こり得ないとします。
ただ、「原点性」なるものの連続性を担保するために導入された抽象概念です。

しかし、そうはいっても、この「魂」という抽象概念を抜きにして、「原点性」なるものの連続性を説明することは困難であるように思います。
もし魂がないのであれば、いったいなにが原点性として連続するのか? という疑問に答えるのが難しくなってしまいます。

これを解決するには、そもそも「この私」という意識とはいったい何なのか、ということを明らかにしなければいけません。もっと言えば、「存在とはなにか?」「客観世界は本当に存在しているといえるのか?」などというところにも踏み込む必要が生じてくるのです。

そのようなことを真面目に考えたのが、以下の資料です。
もし興味があればご覧になってください。

「そごのせかい」最終話 第3章https://quickwaipa.web.fc2.com/sogo/5/53.pdf

「そごのせかい」より

また、以下は「死んだ後はどうなるか?」という疑問を音楽にしたものです。こちらもよろしければ聴いてみて下さい。

「死んだ後はどうなるか?」
https://www.youtube.com/watch?v=v5gRXTKfDgE

Youtubeより

まとめ

  • 「死んだ後はどうなるか?」という問いを宗教的な要素を一切除外して考えてみた

  • 最初に思い浮かぶ答えは「死んだ後は死体になる」である。しかしそれは客観についての答えであり、問題は主観的意識がどうなるか、である。

  • 次に思い浮かぶ答えは「死んだ後は脳が停止し、意識はなくなる。よって死んだ後は無になる」である。しかしそれは意識の内容物に対しての言及であり、意識の入れ物、すなわちそこから世界を眺める窓としての原点性については謎である。

  • 自然界の斉一性を考えると、一度起こった事は何度でも起こり得るはずである。この世に産まれてくるときにすでに「この私の意識」が数多ある意識の中から主観的原点として「選択された」という実績があることを考えると、死んだ後もまた何らかの意識が「この私」として選択されると考えるのが自然である。

  • 以上を踏まえると、「主観的原点の輪廻転生」、という考えが導き出される。しかしそれは魂の存在を主張するのと同義ではないか?

  • その謎の答えはすでに別作品としてまとめてありますのでよろしければご覧になって下さい

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