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天使の血

【一】

 会社から自宅へと向かう電車内、スマートフォンを開いて幾つかの溜まったメールに目を通していると、橋本(はしもと)からメッセージが届いていた。
「臨時休業の甲斐あって手に入れることができました。是非ともご覧になっていって下さい。彩織堂店長 橋本」
 私は「まさか」と思い何度もこの短い文を読み直したが、書いてある文字は変わりようがなかった。そんなはずはない……。
 橋本とは一年程前に飲み屋で知り合った。彼は雑貨屋を経営しており、河童の手やら人魚の骨やら胡散臭いものを収集し、自作のパワーストーンなどこれまた胡散臭そうなものを販売しているとのことだった。私は彼の関心の的である珍品の類にはあまり興味はなかったが、自分の趣味を仕事にしているということや、熱のこもった快活な話しぶりをする彼に対し、なんとなくの延長で会社勤めをしている私はどこか憧れを感じていた。
 二か月前、橋本に誘われ、Y駅近くにあるバーで飲んでいると、橋本はいつもの力のある瞳を一層煌めかせてこんな話をした。
「コペンハーゲンにある教会では天使が目撃されているらしい。僕は羽なら持っているんだが、生きているそのものは生まれてこの方見たことがない。天使の生き血が不老不死の薬になると言う。早速明日から飛行機に乗ろうと思っている。涼川(すずかわ)君、一緒にどうだい?」
「コペンハーゲン……、非常に魅力的だとは思うけど、会社もあるし僕は遠慮しておくよ、君に一つ忠告しておくが、そこに行っても君の期待するようなことは起きないと思うよ」
 私は彼がどこまで本気なのか分からない。
 そんな折でこの知らせである。まさか本当に天使を捕まえた? いやいや、せいぜい天使の血だとか騙されて、よくわからない液体を大真面目に持って帰ってきたのだろう。こんな奴が自分の店を持っているなんて信じられない。
 家に帰るころには動揺は呆れに変わっており、ただ、事の真相を確かめてみたいという好奇心だけが残っていた。彼は大馬鹿か、狂人か、はたまた本当に……?
 次の休日、私は以前彼からもらった名刺をもとに店へと向かった。S駅の商店街の裏にある小さな店で、何度も通り過ぎながらやっとのことでその小さな入り口を見つけた。
 「彩織堂」というメタル製の看板の下には薄暗い階段が続いており、降りた先の扉にも同じ看板が張り付けられていた。少なくとも店は本当にあったらしい。扉を押すと、その裏側についたベルがチリリと鳴った。

【二】

 店内は縦長の長方形の小さなもので、天井の四隅と中央にある照明から発せられる暖色系の淡い光が、棚に陳列された商品のビンを照らしている。棚ごとに並べられたビンには、色とりどりの石や人形、なんらかの骨、植物などが詰められ、商品概要の羊皮紙が張り付けられている。突当りのレジに「値段は店長にお聞きください」の張り紙のある通り、値札のようなものは付けられていなかった。店内を見回しても橋本の姿はなく、レジ奥の扉の向こうにいるのだろうと思った。休日にも関わらず、客の姿は見当たらない。橋本も表に出ていないので、この店は利益など考えていない道楽坊ちゃん橋本の、オカルト趣味の延長に過ぎないのだと分かった。そうと分かるとやはり天使云々には興味を失い、挨拶くらいしてから帰ろうと、彼が現れるまで店内をうろうろと歩き回った。
 数分経っても現れず、そろそろ帰ろうと入口の扉の方を向いたとき、レジ奥の扉が開く音が聞こえた。振り返ると橋本と目が合った。
「涼川君じゃないか! そうなんだよ。ちょっとこっちに来てみなよ」
 そう言うとすぐさまレジ奥に戻って行ってしまった。仕方なく、後に続いて奥の扉の方へと向かった。
 扉の奥は一本道になっており、突き当りの非常階段の扉の前に橋本が立っていて、こちらを認識すると右の部屋へと入っていった。
 その部屋は書斎兼応接室のようで、本棚に囲まれ、奥に書斎机、中央にはガラスのテーブルをはさんで黒いソファが添えてある。そのテーブルの上には大きめの鉄檻が……。
「どうだい立派なもんだろう、教会で皆が目を瞑ってお祈りをしている最中にこっそり捕まえてきたんだ」
 橋本が檻の天井を叩くと中の生物がキー、キー、とわめき始めた。私は恐る恐る屈んで、檻の中を覗き込んだ。
 囚われの生物は少年のようで、両手両足を手錠によって檻に繋がれ、四つん這いにしまい込まれていた。栗色の短髪、死人のように蒼白く透き通った肌、肩甲骨の付け根からその延長線上には真っ白な羽が幾枚にも重なり合い、大きな二つの翼を形作っている。そのグロテスクさに心を奪われてしまう。
 私は茫然として橋本のほうに視線を向けた。橋本は私の驚きの根源に気がついていない様子で、笑顔だった。
「…………、…………」
「………………、…………」
 橋本は何かを得意げに話していたが、音が右から左へ抜けていくようで、あっちの知り合いがなんだとか、運んでくるときにどうだとか、掘り下げる気にもならなかった。
 「そのもの」が目の前にあるという動かしようもない事実、偽物だと疑う感情すら起きない天使の美しさに、思考が止まっていた。
 橋本が部屋から出ていった。ナイフを取りに行くというようなことを言っていた気がする。血を採取するためだろうと思考が再び働き出した。
 この生き物について考えられることは少ない。人のようではあるが、どこか通じ合えなさを感じる。私は彼に触れられないだろう。天使のわめきは収まり、しばし無音の時間が続いた。
 私は落ち着きを持ってもう一度彼を観察してみた。檻の中の彼はその姿勢故に下を向き続けていた。手足は手錠に擦れて赤黒くなっている。直立すれば一メートル二十センチくらいか、広げた翼は六十センチくらい? 彼は自分の置かれた状況をどのように感じているのだろう。虚ろな時間が過ぎる。
 橋本が戻ってきた。その両手には果物ナイフと小さめのビーカーを持っていた。
 邪念を察知してか、囚われの天使は再び暴れ始めたが、しばらくしておとなしくなり、ただ鉄の床を見つめるばかりだった。その蒼白い肌はより一層白くなり、それが人外であることを露骨に表していた。私はただその透き通るような肌を吸い付くように見つめていた。彼はナイフで天使の無防備な腕を切りつけた。天使はまたも暴れ始め、檻をガシャン、ガシャンと音を立てて揺らし、キー、キー、とわめいた。傷口からは一筋の紅い血が流れていた。生気を感じさせない肌からは想像もつかないようなその色は憎しみの激しい熱を帯びていた。血は止めどなく流れ、檻から溢れ出した。彼はビーカーを机の下に構えて、その血を受けた。
 橋本は、血を採取したビーカーの口を小さめのティッシュで一拭きした後、蛍光灯に透かし、しばしうっとりとしていた。
「吸血鬼が血を飲みたがるのもわかるね」
 彼はビーカー内の血を三つの試験管に分けて移し、栓をした。書斎机から羊皮紙を取り出し、年代物らしい金色の万年筆で何かを書き、試験管に張り付けた。一連の動作は手際良く事務的に行われた。
「達成祝いに酒を飲もう。ワインとグラスを持ってくるよ」

【三】

「どちらかといえば虫に近いんじゃないかな。鳥は腕の代わりに翼がついているだろ。でもこいつには腕がありながら、翼もついてる。これは蚊とか、トンボとか翅の生えた虫にありがちな構造なんだな」
「ペガサスとかグリフォンとか、もっと神聖な類だと思うけど……」
「神聖だって? 虫だって神聖さ。あんなに純粋で生命力の塊なんだから。宇宙からやってきたとも言われてるんだぞ。純粋だからこそ生き物は簡単に捕まえられるんだね。内部にカオスが渦巻いているのは人間ぐらいさ。だから一番強いんだ」
 酔っているせいか、いつもの力のある目をしていた。
「君、だいぶ飲んでいるみたいだが、営業中じゃないのか?」
「店はまだ休業中だよ。そういえば涼川君はどうやってうちの店の中に入ったんだい?」
「入口が開いていたよ。まさかここ二か月の間開けっ放しだったんじゃないだろうね?」
「ハハハ。そのまさかだね。幸い荒らされている様子もなかったようだし、客も来なかったんだろう」
「前から一つ気になっていたんだが、一体どうやって生計を立てているんだ? 二か月もお客が来ないで、やっていけてるのかい?」
「年に二、三回来るお得意さんが何人かいるんだ。来店するときは毎回事前に連絡が来るから、それ以外で客が来るのは稀だね。」
「成程。因みになんだが、さっきの試験管は一本当たりいくらぐらいするんだい?」
「えーと、大体三百万ぐらいだね」
高級時計のような値段である。「値段は店長にお聞きください」の文字がフラッシュバックし、興味本位で迷いこんだ稀な客のことが気の毒になった。
 檻の中の天使はあれからずっとおとなしいままである。
「それで、今後これを飼っていくつもりなら、檻はもう少し大きい方がいい。今のままじゃ窮屈で可哀そうだ」
「うーん、それはちょっと難しいな。こいつはあんな見た目で結構狂暴なんだ。四人がかりで捕まえたんだが、二人は病院送りさ。申し訳ないが、今の状態がベストなんだ」
 天使はじっとしており、呼吸に合わせて体と翼が上下に小さく痙攣している。
「そうか、それなら仕方ない。そろそろお暇するよ。また今度」
「ああ、久々に君と話せて楽しかったよ。これからもここに来るといい」
 私は席を立ち、橋本と天使に背を向けて彼の書斎から出た。
 店内に戻り、商品として並べられているビンと羊皮紙に目を通した。
「人魚の眼球」、「幻覚草(※開けないで!)」「天使の羽」。
 急に動悸が激しくなり、急いで地上へと戻った。
 商店街には普通の店が並び、普通の人が歩き、駅前の道路には普通の車が交通ルールを守って走っている。私は激しい発作を抑えるような必死さで、日常の風景を見まわし、気持ちを落ち着かせた。鳩がどこかで鳴いている。酔いは完全に冷めていた。
 アパートの自室に帰ると、置時計は十六時を指していた。今日一日の出来事の疲れがどっと押し寄せ、そのままベッドで眠ってしまった。
 私は檻の中に入れられており、人々が行き交う交差点の真ん中に立っていた。群衆の中に二年前に亡くなった彼女の姿を見つけた。私は彼女に声をかけ続けたが、彼女はほかの人と同じように檻の中の私を一瞥して、すぐに視線を外し、行ってしまった。

【四】

 それからというもの、私の思いの片隅にはいつもあの天使の姿が残り続け、気づけばぼーっとあの時のことを振り返るのだった。私はあの天使の顔を見ていなかった。目と目が合うのを恐れ、確認することができなかったのだ。思い出すのは白い翼と肌、そして紅い血……。幸い繁盛期ではないため、頻繁に手を止めて物思いにふける私を咎める者はいなかった。
 ぽっかりと胸に穴が開いたような日々は時々その穴を埋めようとするのか、胸を張りつめさせ、息苦しくさせた。深夜の考え事が増え、寝不足がちにもなった。
「最近よく考え事してますね。今の案件比較的楽なんで、考えることないと思いますけど、何か気にかかることでもあります?」
 同じ部署で後輩の吉田は奢られによく昼飯についてくる。
「いや、仕事のことじゃないんだけど、お前って、幽霊とか信じるタイプ?」
「まさか前の彼女さんのことですか?」
「違う違う、そういうことじゃなくて、なんていうのかな、UMAというか、河童とか、人魚とか、そういうのって幾つぐらいまで信じてたのかなって」
「意外にロマンチストなんですね。小さい頃なんかはそういうテレビ番組を見て僕もワクワクしてましたけど、もうそんな話、十数年ぶりに聞きましたよ」
「知り合いにそういうのを捕まえようとしている奴がいてさ」
「ハハハ、何スかそれ」
 彼にまた会わなければならない。あの天使を隈なく理解しなければならない。私は意を決して再び橋本の店へ行くことを決めた。
 日曜日、三週間ぶりにS駅で降りた。約束の時間まであと二十分ほどあったので、駅の近くにある本屋で時間をつぶした。
 橋本は「いつでも良いよ」とのことだったので、少しばかり早く到着しても問題ないはずなのだが、駅に着いた途端に急に尻込みしてしまった。
 頃合いを見て店へと向かった。前回と違い、「彩織堂」にはすぐに着くことができた。あの時以来、暗い地下や閉所がすこし苦手になってしまったようだが、店の入り口へと続く下りの階段には灯りが点いていた。店は営業しているらしい。
 店内には客はおらず、やはり橋本の姿もなかった。奥の部屋にいるのだろう。商品の棚を見回すと、ビンが並べられている中に試験管立てが置いてあり、赤い液体の入った試験管が一本だけ差し込んである。
 『天使の生き血(※飲んでも責任取れません!)』
 試験管が一本しかないあたり、残りは売れたのだろうと想像できた。私はその透き通るような血をしばし眺めていた。驚きの値段であることを自分への言い訳に、触れることはできなかった。
 レジ奥の扉を進み、書斎の扉をノックすると橋本の反応する声が聞こえた。中に入ると橋本は本棚の近くに立っていた。床に本が積みあがっており、どうやら蔵書の整理をしていたらしい。
 天使の姿はなかった。

【五】

「この店を気に入ってくれたみたいで何よりだよ。君はいつも僕の話を話半分でしか聞いていないようだったから」
「それは今でも変わってないかな」
「それで何だい。また仕事の愚痴でも仕入れてきたのかい?」
「いや、今日はそういう訳じゃないんだ。なんていうかまた、店の様子を見に来たというか。」
「わかったよ。目を見ればわかる。そのキョロキョロとした挙動不審な目を見ればね。檻は隣の部屋に置いてある。そっちへ行こう」
 橋本の後に続いて書斎を出、隣の青い扉の部屋へ入った。
 橋本が部屋の明かりを点けると、そこは物置部屋になっており、床には色々な大きさの段ボール箱や、本が無造作に積まれていた。部屋奥にある小さめの作業机の上に少しはみ出し気味で、見覚えのある檻が置かれている。
「僕も二週間ぶりに見たけど、やっぱり美しいもんだね」
「二週間ぶりって、わざわざ連れ帰ったにしては扱いが悪くないか?」
「いやいや、こいつは暗所が好きなんだよ。現に落ち着いてるじゃない」
 蒼白く、きめ細やかな肌は健在である。
 私は屈んで、彼のその脇腹、あばら、二の腕を一連の動作のように見つめた。二の腕にはナイフで切り付けられた跡が赤い線を成していた。そのまま髪に視線を移し、意を決して檻に近づき、しゃがみ込んで見上げるように彼の顔を確認した。
 天使はただ鉄の床を見つめており、こちらと目が合ったと感じた瞬間、そのまま流れるように視線が外れて行ってしまった。彼は私を透かしてもっと遠くの方を見つめているようで、なにも認識をしていないようだった。
 水晶のように透き通る青い眼をしていた。あらゆる光を吸収するような黒い瞳の周りを囲む、虹彩の溝の細やかなランダムが青や黄のサイケデリックな模様を描き出している。それは不機嫌な宇宙の始まりのようで、静寂不可侵な海溝だった。私はふと、亡くなった彼女のことを思い出した。
 彼女との出会いは、大学での実習だった。実習の後、私たちは決まって大学近くのカフェに寄り、課題の話や、日常の話、将来の不安などを語り合った。彼女はいつも、クラスメイトの悪口を話していた。面と向かって言うことのできない鬱憤を、本人がいないという安心感から漏らす性格の悪さ、小気味よく流れるジャズのBGMと絶妙に合わさり、私はすぐに彼女のことが好きになった。
 実習が終わる最後の日、私は彼女をデートに誘い、交際が始まった。
 私も彼女も根っからの出不精で、月に一回ほどしか会わず、週に数回のメッセージのやり取りが続き、私としては何の不満も感じていなかった。
 彼女は美しい瞳をしていた。私は彼女が向ける優しい瞳も好きだったが、私から視線を外し、遠くを見つめる冷たい視線が最も好きだった。どこか物憂げで、どこまでも遠く、その真実の内面を貫くような真面目な表情を覚えている。その瞳とよく似ていた。
 首のあたりに痛みが走り、我に返った。橋本はもう部屋にはいなかった。私はもう一度だけ、天使の二の腕を見た。白い肌に残る一筋の傷が私を拒絶しているように感じた。
 書斎へ戻ると、橋本は本を読んでいた。
「おお、戻ってきたか。随分とお気に入りのようだね」
「ああ、素晴らしいよ。あんなものがこの世に存在していることが未だに信じられない」
「ハハハ、世界が広がっただろう。そんな君には気の毒な話だが、あの天使は来月中には売ってしまう予定なんだ。元々そのつもりで捕まえてきたんだからね」
「何となくそんな気はしていたんだ。僕は満足したよ」
「嘘に見えるな。君の入れ込みようは並じゃないよ。普段落ち着いている感じの君が、あんな姿勢で食い入るように見てたんだから」
「確かに君の言う通り、不満はあるかもしれない。でも、どうしようもないってことは僕でも理解できる。諦められることさ」
「悪いね。店の棚に置いてある血の入った試験管、一つ持って帰っていいよ」
「あんな高価なものもらえないよ」
「いや、不満のある人間は何をするかわからない。君を疑っているわけじゃないけど、友好の印にもらってくれ」
「わかった。ありがたく頂くよ」

【六】

『天使の生き血(※飲んでも責任取れません!)』
 私は毎夜眠る前、天使の血の入った試験管を箱から取り出して眺めるようになっていた。電球に透かされ、ワインのように輝く紅い血がガラスの中を這っている。ガラス越しの匂いは無臭で、冷たい。
 無限に広がる白い空間で血塗れの天使が立ち尽くしている。私は気が気でないほど焦り、涙を堪えることしかできない。天使の喪失に耐えられない。そんな夢をよく見るようになった。
「涼川さん、今日はいつになく『心ここにあらず』ですね。最近急に忙しくなってきたんですから、頼りにしてますよ」
「ああ、大変だね」
「本当に大変ですよ。……、まさか気になる人でもできたんですか?」
「え、いやそんなんじゃないよ」
「やっぱりそうでしたか。前の彼女さんが草葉の陰で泣いてますよ。ヨヨヨ」
「違うって、お前ほんとにその話好きだよな。滅茶苦茶失礼だぞ」
「いやー、だってすごい話じゃないですか。フラれた上に亡くなられて、何の実感もないっていうんですから、強靭なメンタルですよ。正に今の時代の社会人というか」
「いい加減にしとけ」
 当時、誰でもいいから聞いてほしいと思い、デリカシーのない後輩に彼女の話をしたのが間違いだった。少し嘘を交えて伝えたせいで、かなり嫌な感じだ。
 本当はフラれてもいない。交際を続けて二年くらい経った夏、彼女と最後に言葉を交わした場所はいつものカフェだった。
「涼川君はさ、なんか最近ムカついたこととかないの?」
「ムカついたことねぇ。あんまりないかな」
「私ばっかりそういう話をして、性格の悪い子に見えない? なんか絞り出してよ」
「しいて言えば、この前上司の指示が二転三転して、無駄に時間が掛かったことかな」
「やっぱりあるじゃん。胸にしまってないでどんどん言ってよ。周りの人もため込んでるはずなのに、平然としてるじゃない? それがすごく不安になるの。本当に自分はここにいても良いんだろうか、迷惑かけてはいないだろうか、って」
 その日以降、彼女からメッセージの返信が来なくなった。電話もつながらず、彼女の家も最寄りの駅までしか知らなかった。彼女に出会えるかもと思い、休日は駅で一日中待ってみたりもしたが、出会えることはなく、フラれたのだと思っていた。
 その数か月後、在学中の大学の後輩に誘われ、母校の学祭へと足を運んだ日、彼女の友人と名乗るグループに話しかけられ、彼女が亡くなっていたことを知らされたのだった。
 丁度あのカフェで会った次の日にトラックにはねられ、即死だったという。私は彼女に関して、本人以外とは全く親交がなかったため、誰も私と連絡がつかず、葬式もすでに終えたとのことだった。私は不思議と何の感情も湧いてこなかった。もう会わないと思っていた人間に二度と会えなくなったというだけで、その置き換えは私の心に何の変化ももたらさなかった。
 来月にはあの天使は店からいなくなってしまう。もう一度だけ会いたいという気持ちがあったが、橋本に一度釘を刺されている以上、難しい試みだった。
 仕事に関してもトラブルが続いた。想定外の出来事や小さなミスが重なり、退勤時間は遅くなり、休日出勤も増えた。
 帰宅しては眠るだけの生活に追われ、あっという間に三週間が経ってしまった。
 金曜日、橋本から連絡があり、Y駅のバーで合流することした。橋本はいつも着ている黒のYシャツと紺のジーンズの格好で、カウンターにいるマスターと話をしていた。
「おお来た来た。マスター、彼に僕と同じものを。最近どうだい、調子の方は」
 私は仕事に関する今更どうしようもない愚痴を吐き出した。
「それは君、今すぐ仕事を辞めるべきだよ」
 橋本はこちらの話を聞いているのかいないのか、咥えた煙草に火を着けながら独り言のように返す。
「そんなことより涼川君。この前僕が君にあげた例のあれ、飲んでみたりしたかい?」
「さすがにそんな勇気はないよ。どんなものなのかもわからないのに」
「つくづくつまらない奴だなぁ君は。じゃあ毎日恋焦がれるように眺めては仕舞って、溜息ついてみたりの毎日、といったところか」
「そんなんじゃないって。さっきも言ったとおり、仕事づくめでそんな暇もないよ」
「わかった、わかった。でも今日ここに来たってことは土日は休みなんだろ。それでなんだが、これから飛行機に乗って半魚人のいると噂のある河に視察に行くんだが、君も来ないか?」
「申し訳ない。そんな体力はないよ。あとで結果だけ教えてくれ」
「つれないねぇ」
 橋本と別れ電車に乗った。私は内心興奮していた。天使に会うなら明日しかないと思った。
 自宅に戻り試験管を取り出すと、動悸がさらに高まった。何か欲望に駆られて、みぞおちのあたりが緊張しているのが分かった。私は半ば捨て鉢になった気持ちでその栓を抜いた。直接鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、それは無臭だった。試験管をゆっくりと傾け、手のひらに血を数滴垂らし、その赤を見つめた。恐る恐る舌先で舐めとってみたが、味は無かった。試験管から舌の上に垂らすと、多少の粘性と痺れを感じた。
 無限に広がる白い空間で血塗れの天使が立ち尽くしている。私は穏やかな気持ちで天使を抱きしめた。彼は暖かく、慈愛の血に覆われた誕生の瞬間だった。私は彼と接吻を交わした。

【七】

 次の日、私は目を覚ますとすぐに支度をして、S駅へと向かった。私は天使に会って何がしたいのだろうか。「もう一度だけお目にかかりたい」という当初の理由は、この心臓の高鳴りの説明として充分ではないように思えた。
 店の入り口は暗くなっていたが、予想通り扉は開いていた。私はそのまま奥の部屋へと進み、青い扉を開け、明かりを点けた。
 物置部屋は前と同じく、高く積み上げられた本の山がいくつかあり、奥の机も、その上の檻も予想通りだった。
私は期待を込めて天使を覗き込んだが、その姿は以前とは異なっていた。
 その白い翼は色褪せて黄色がかり、蒼白だった肌は赤い腫れと傷だらけでところどころ血が固まっていた。
 私は動揺して、とっさに声を上げてしまった。天使は私に気が付き、弱々しく檻を揺らした。
 橋本か、ほかの客の仕業だろうか? 私は今までの感情が嘘だったかのように、急に落ち着きを取り戻した。天使は私に助けを求めているような視線を飛ばしている。私は彼をここに置いてはおけないと思い、檻を開けようとしたが、鍵穴や、扉のようなものが見当たらず、仕方なくそのまま担ぎ上げるようにして、外へ向かって歩き出した。それは驚くほど軽く、檻そのものの重さしかないように感じられた。家に連れて帰ろう。橋本はまともな奴ではない。この子を大切に育てよう。ここに置いてはいけない。天使は私に全てを委ねたようにじっとしている。
 急にスマートフォンが鳴った。橋本からだった。私は無視をして、物置部屋を出た。
電話は切れたが、念のためスマートフォンを確認すると、数分前に橋本からメッセージが来ていた。
「突然の強風で飛行機が欠航だ。予定をずらした。今日は店に来い、酒を飲もう」
 額に冷や汗が滲んだ。まだ橋本はここにいない、早いところ帰らなければ。
 檻を抱えながら店内を抜け、扉を開き、階段を数段上った途端、天使が暴れ始めた。日の光に反応し、拒絶しているようだった。
 なだめようと檻を下ろすと、掌が血塗れであることに気づいた。天使の傷口は開き、血が溢れ出していた。私は取り返しのつかないことをしてしまったことに気づいた。
 急いで階段を降り、日を背にして体で檻を覆ったが、天使の変化は止まず、肌には茶色の筋が何本も広がっていく。キー、キー、と耳を劈く叫び声をあげながら、体中から血を吹き出し、苦しそうにもがき続けている。
 無力感と後悔が胸を襲い、涙が溢れ出した。腕の中で死んでゆく感覚だけが鋭く全神経を支配する。これで良い。これで私の中の彼女も報われる。
 気が付くと、檻の中は空になっていた。私は長年の胸のつかえがとれたように感じた。
 扉の裏側についたベルがチリリと鳴った。


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