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働いて感じたあれこれ

初めてのアルバイト。暇だし社会勉強でもするか、と思って始めた。気づいたら楽しくなっていて、はじめて知ることも多くて、せっかくだから今感じていることを文章にして残しておこうと思った。

自覚ある迷子になる

「何かわからないことない?」バイトを始めたばかりの頃、こう聞かれることが多かった。でも、私はなにも答えられなかった。だって、なにがわからないのかが全くわからなかったから。そして、何がわからないのかがわからない、ということにすら気づいていなかったから。法律も知らず地図も持たず、見知らぬ土地に足を踏み入れたようなものだ。

なにがわからないかがわかっていることはブレーキになる。わからないことに対しては慎重になれるからだ。ここからはわからない、という「ここから」は確実に線引きができる。でも、わからないということにすら気づかず、本当になにもわかっていない場合、慎重になろうとしたところでどうすることもできない。この状態が最初は不安でたまらなかった。

そうは言っても、なにを聞いていいのかもわからないから「大丈夫です」って答えていたのだけど、絶対に大丈夫でないことを感じているまわりの大人からすれば「本当に大丈夫?」となるわけだ。その「本当に大丈夫?」とまわりの大人に感じてもらうことが、最初のブレーキ・アクセルになるんだと思う。つまり、「わからない」を一旦まわりに委ねてみるということ。甘えなのかもしれないけれど、こういう考え方をすることが最初は必要なんじゃないかなと思った。

だんだんと慣れてきたら、「わからないことがわかっていない」と知っている、自覚ある迷子になること。ブレーキ・アクセルをまわりに委ねていることに自覚的になること。これが次に持つべき姿勢だと思う。

不安に思うことはうんざりするほどあちこちに転がっているけれど、不安の的中は当たりくじみたいなものだ。だいたいギリギリ三等賞くらいで、あってもなくてもどうってことないようなことばかり。それでも私はその三等賞くらいの出来事に一喜一憂するのだけど、まわりからしたらそれはきっととるに足りない些細なことである場合が多いように思う。だから、安心して迷子になって、不安のくじ引きを繰り返していけばいいやと思った。

視点の大きさ

バイトを始めて一番変わったのは、視点の大きさだ。正確に言えば、自分の視点の小ささを自覚したこと。

今までずっと学生という枠の中にいて、そこから物事を見ていた。ものと自分とのつながりはお金だけだった。私が捉えていた「お金」というつながり、それはひとりの人間がものを手に入れるまでの過程の中で、針で開けた穴のようなものだったのだ。本当は、とっても小さな部分にすぎないのに、私はそれを全てだと無意識のうちに感じていた。

お店に行けば、商品が並んでいて、お金を払えばそれが手に入る。私にとってものを買うことはただそれだけのことだったのだが、そんな「当たり前」を成立させるために何人もの大人が汗を流していた。

私の手元にものが来るまでには、梱包、配送、陳列、メンテナンス、などいろんな手間がかかっていて、複数の会社が連携して成り立っている。決して大きくはないお店が成立するために今日もたくさんの大人が働いている。すごく大きなシステムの中で、ものは動いているんだということを感じた。ものすごい手間と労力をかけて私はものに囲まれている。

働くということ。それは、誰かにとっての「私」を、自分の「公」にするということなのかもしれない。誰かの休日を成り立たせるということ。バイトをはじめて、今までプライベートで来ていた場所が仕事の場になって、このことを強く感じるようになった。私の休日は、誰かの労働日である。私の休日は、その日も働く誰かに支えられていたのだ。

私がここにいる理由

「店員」というラベルと「客」というラベル。それらが「利益を得る」「ものを手に入れる」という目的を達成するために、お金を介して無感情なコミュニケーションをとる場所。これが、私のお店というものに対する解釈。お店では、記号化されたものたちがただ経済活動を行うだけだ。お客さんの意識は、私ではなくて私の先にある商品に向けられている。

でもたまに、孫の話をしていくおばあちゃんとか、丁寧にお礼を言ってくれるお兄さんとかがいて、その無感情なコミュニケーションから「微感情」なコミュニケーション へと移ろう瞬間がある。その瞬間、私はなんだか嬉しくなる。記号同士の関係だと割り切っているからこそ、ちょっとした「揺れ」が嬉しい。

反対に、感情の揺れが激しい場面にも居合わせることがある。不満があって大きな声で怒るお客さんもいる。私はバイトを始めてから、人生で初めて面と向かって人に怒鳴られた。お客さんに。学校で集団単位で怒られることはあったけれど、一対一で怒鳴られるという経験は初めてだった。驚いたし、怖いとは感じたけれど、思ったよりも傷つかなかった。なぜなら、お客さんは私という人間に対して怒っているのではなく、「店員」という記号に向かって怒っているのだから。記号同士の関係だと割り切っているからこそ、激しい感情の「揺れ」を表し、応じることができるのだと思う。

このように様々な程度の「揺れ」を感じる中で、働くということはあくまで「店員と客」という枠の中にいることであり、この「店員」が私である必要はないのだと感じてしまう。

それでもなお、なぜ私は働くことを楽しいと感じ、明日もバイトに行こうとするのか。それは私が「お店の裏のスタッフルームにいることを求めているから」だ。「店員」は私である必要はない。でも私は、スタッフルームのあの席に座る権利を得ている人間でありたい。スタッフのみんなと一緒に働いていたいと思っているのだ。

「客」から「店員」へ、ラベルを張り替えることが働くことだという意識で始めたバイト。そこで先輩スタッフの優しさに触れ、「客」である私とものとの関係を成り立たせていた「店員」も、温度をもった人間であることを感じた。記号同士の関係の裏で、記号でない関係を築けたこと、居場所ができたことが嬉しくて、明日も私はバイトに行く。

終わりに

ネットでバイトを探して、検索条件に引っかかって、たまたま見つけた今のバイト。このバイトをしていなければ、スタッフとどこかですれ違ったとしても、それは「すれ違った人」というただの記号で、下手したら存在を認識することすらせずに、忘れることもない代わりに覚えることもなかった。そう思うと、出会ったことで感じているこの中毒的な温度が愛しくなる。知らなければ知らないで、失うものは何もなかったのだろうけれど、一度知ってしまったこの関係がどこかで途切れてしまうことは、考えるだけで悲しくなる。私はまた、失うものを増やしてしまったのだ。持つこととは、失うものを増やすことなのだと改めて気づく。

私はいろいろなことに理由を求めてしまうけれど、理由なく湧いてくる感情を、もっと丁寧にすくいあげてもいいんじゃないかなと思うようになった。なんとなくで飛び込む。無計画にすすむ。そんな中での出会いや出来事を楽しめる自分でいたい。

(2020/09/09 ファミレスでドリンクバーを楽しみつつ執筆)

1杯目:微炭酸レモン 2杯目:烏龍茶 3杯目:トロピカルアイスティ 
4杯目:リッチココア 5杯目:リッチココア 6杯目:抹茶オレ
7杯目:抹茶オレ 8杯目:ジャスミンティ

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