見出し画像

レビュー|ノルウェイの森、読了。2023.12.26

 夜更かしの読み明かしのラジオでノルウェイの森について話しているのがとっても良かったのでおすすめです。それに触発されて書いてるみたいな所があります。本当に凄まじいものを読んでしまったな、という読後感。もっと早くワタナベに出会いたかった。

1
 ワタナベって、生きることが大前提の世界と生きるべきか死ぬべきか苦悩する世界を往還してるのか。でもどちらにも属することが出来ない。そのことを、バレーサークルと哲学コースのどちらにも明確な居場所を見つけることが出来なかった自分の大学時代と少し重ねて見てしまう。でも、ティモンと出会って、その揺らぎの中にいる人を見つけたんだよな、底抜けに明るくて健康で、心の奥に暗さを秘める人達。別に暗い人が好きなんではないの。でも心の深い部分にその人がそっと隠している思慮を見つけると、わあ、ととても嬉しくなる。そういう人は見た目ではとても明るそうに見える。

2
 ワタナベのすごい所は、そのよるべなさと孤独に耐えながら生きようとした所で、そのことに17年も苦しみながらまだなお生き続けていることだ。生のパワーなのか生きようとする意志なのか、どちらも凄まじいものがある。そして、その凄まじさは性欲の強さとなって表れている。確かに性描写は多いけど、ワタナベにとってセックスが生きようとすることの象徴であるという点において、意味のある描写だと思った。ただ、他者との繋がりや死者を共有する人との儀式的な繋がりとして、濫用されている節はある。

 人とご飯を食べることも、他者との繋がりを描くのと同時に、生きようとすることの現れでもあるのだと思った。病院の食事を平らげる緑やワタナベが緑のお父さんとキウリを食べるシーンは、とてもよかった。レストランでいつもワタナベは美味しそうに食べるし、永沢とハツミが気まずくなっても、ワタナベは食事を残さなかった。ワタナベは元来、生に向いている人なんだと思う。

3
 翻って、自分のことを考えていた。俺も生に向いているのかな。分からないけれど、生きるために働くんだと思った。人生の虚しさに追いやられないように、社会に花を贈るんだと思った。『アキラとあきら』の山崎瑛が金融の力で企業を救うことが実は自分を救うことなんだと最後に気付くように、俺も哲学を生業として自分を救うのかもしれない。少なくとも、山崎が子供の頃の自分に手を伸ばすように、俺は高校時代の自分に手を差し伸べたいと思っている。

4
 それから、「自分に同情するな」という永沢の言葉が忘れられない。ワタナベに別れを告げるあのシーンだけは、永沢の本音が垣間見えた気がする。永沢はワタナベの片鱗を間違いなく掴んでいた。

 自分を哀れに思うことは、こんな自分なんだから仕方ないと諦めてしまうことだ。もうどうだっていいや、と投げやりになってしまう気持ちだ。そうやって自分の中に閉じこもって、平穏でしずかな誰もいない世界に自分を連れ出して慰めながら、厭世的に現実の世界を眺める。心当たりがあって情けない。だって、悲劇のヒロインみたいな、被害者ですみたいな暗い顔して、そういう自分に酔ったりなんかしちゃって、そういう諦めが一番ださいよ、と思うから。自分を哀れに思うような眼差しってどこか捻じ曲がっているし、歪んだ自己愛は高慢とも言える。そんなんで自分守ろうとしてんじゃねえよ、という自戒は何度だって言いたい。それは不健康というものだから。

 でも永沢が言おうとしていたのはそういうことじゃないよね。「俺の好きなお前に、お前自身のことを軽んじて欲しくない」という言わば愛の告白だったのではないかと思う。アドバイスという体だけど、好きな人にじゃないとあんなこと絶対言わないよね、永沢は。

5
 最後に、ノルウェイの森の主題について。人を失いながら、悲しみに暮れながら、生きること自体が辛いなか、生きるべきか?という問題について。

 まず、広く一般的に人間は生きるべきだ、とは言えない。そもそも生き物の本質は生きることなのだと、原理を定義するような仕方で生きることを肯定することは、よい戦略ではないだろうね。生きるべきか死ぬべきか、結局のところ誰にも分からないし、それを引き受けるのは当の本人以外にいない。となると、それはおそらく個人の選択の問題で、正義のように誰しもに当てはめるべき主題ではない。

 ただ、たとえそうだとしても、全人類に声を大にして言いたいことは、人間は生きることができるということだ。ニーチェもフランクルも村上も、これが言いたかったのではないかと思う。人間には、そのための力も意志も衝動もすでに備わっている。そうするべきかどうかは分からないけれど、なし得る可能性は常に秘められているのだとは思う。そして、その可能性は人と一緒に探っていくものだ。おそらく一人では見つからない。特に人を失ったときは。

 それなのに、生きてたってしょうがない、生きることに何の意味があるの?と冷笑的な眼差しを自分の生に浴びせかけたり、私はもう生きていたくないんだと諦めたりしてしまうことは、何かを見落としている気がする。もう本当に何もかもどうでもよくなったと本気で言ってるの?もう未来永劫、生きる灯火が燈ることはないと本当にそう言い切れるの?と、問いかけたくなる。探そうよ、一緒に。もっと探したいよ俺は。

 ワタナベは生きているじゃない。地上の世界と井戸やぬかるみ、天上を行ったり来たりしながら、その度に耐え難く叫びながら、それでも生きている彼を見ると、苦悩を苦悩として正しく受け止めながら、生を諦めないでいることは本当に偉大なことだと思うんだよ。人間が脆さや危うさを抱えながら、この世界の内で人と生き続けることは最高にクールだと思うんだよ。それができることって何て素晴らしいんだ。ワタナベという星が見える。ワタナベも、ニーチェやフランクルと同じように、一つの希望であると思う。

6
 最後のシーンで、ワタナベが自分がどこにいるか分からなくなってしまうのは、まだ暗い世界を彷徨っていることの暗示だろうか。たとえ暗闇だとしても、緑を呼び続けたワタナベは地上の世界にいたはずだ。緑といる時はいつだって地上の世界にいる時だったし、地上の世界に這い上がってきて、全てを一から始めようと決めたんじゃないのか?もしそうだとしたら、ワタナベはキズキの死からおよそ数年ぶりに地上の世界に両足で立ったということになる。ワタナベは緑に電話をかけたあの時、地上の世界で生きていくことを決定的に選んだということになる。それまで生死の境を行ったり来たりしてきたワタナベが、両足で大地を踏み締めた途端、世界はぐにゃりと曲がって、全く別物の、得体の知れない何かに変わってしまった。こんな終わり方、希望しかないじゃん!と泣いた。嬉しくて悲しくて奮い立つような気持ちもあって。ただただワタナベの生きる気概の前に、慄きと敬意があった。

 脆く危うい実存への賛辞とそれでも人と生きていくことの応援歌として、これ程のものがあっただろうかと少しの間呆然とした。そして暫くすると、村上にお前はどうなんだと問われているような気がしてくる。村上は小説を書いた。では、お前は?お前に何ができる?

最後まで読んでくれてありがとう〜〜!