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憧れのCEOは一途女子を愛でる 第7話

<第6話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n90a57ae715fe

#創作大賞2024 #恋愛小説部門 #小説 #胸キュン #CEO #頑張る女子 #オフィスラブ

<第7話 君の想像をはるかに超えて>

 一週間の始まりである月曜日、会社で何度も集中力を欠きながらも、なんとか一日の業務を終えた。
 私がぼんやりとしている理由は土曜日のあのことに起因している。
 キャンピングカーに乗せてもらい、社長と綺麗な川のほとりで過ごして……そのあとキスをされたから。

 なにが起こったのか、二日経った今でも私はよくわかっていない。
 考えても答えは出ないのに、あの出来事が頭から離れなくて、今日はずっとぼうっとしがちだった。
 集中できないなら早めに仕事を切り上げるほうがいい。そう判断して急ぎではない仕事は明日に回した。

 こんなにも仕事が手に付かないのは初めてだ。気を抜くとすぐに眉目秀麗な社長の顔が頭に浮かんでくる。
 特にあのときの社長は全身から色気があふれ出ていて、私はすっかり骨抜きにされてしまった。
 今思い出してもドキドキと鼓動が早まる。一階に向かうエレベーターの機内で自分の唇にそっと触れ、誰もいないのをいいことに悶えそうになった。

 もしかしたら都合のいい夢でも見たのだろうか。
 たとえそうなのだとしても、胸がキュンとして最高に幸せだったのだからそれでもいいとすら思えてくる。

「香椎!」

 会社の外に出ようとしたらロビーで後ろから名前を呼ばれ、振り返ると氷室くんが走り寄ってくるのが見えた。

「お疲れ様。氷室くんももう帰るの?」
「ああ。香椎こそ今日は上がるのが早いな。というか顔が赤いけどどうした? 体調悪い?」

 指摘を受けた私は即座に自分の両頬に手をやり、「大丈夫」と言いつつふるふると首を横に振った。
 顔が赤い原因はおとといのキスシーンを回想していたせいだ。その自覚があるため、恥ずかしくて氷室くんの顔をまともに見られなくなった。

「元気ならよかったよ。心配してたんだ」
「え?」
「始末書の件で落ち込んでただろ?」

 氷室くんがやわらかい笑みを浮かべて私の顔色をうかがう。
 気遣いができてやさしい人だなと感心しながら「ご心配をおかけしました」と返事をした。

「なぁ、今から飲みに行かないか? 本当は先週の金曜に誘おうと思ってたんだけど、伊地知部長に先を越された」
「私はお酒はあんまり飲めないから……」
「駅の向こう側に新しくできた焼き鳥の店、うまいらしいよ」

 お酒が弱い私が相手では楽しめないだろう。それならほかの同僚も誘って何人かで行ったほうがいい。

「ふたりでだと氷室くんはつまんないでしょ。うちの部署、誰かまだ残ってたよね。声をかけてこようか」
「香椎」

 踵を返してオフィスに戻ろうとしたら、氷室くんが私の手首を掴んで引き留めた。
 行かなくていいという意味なのはわかったけれど、彼の表情は真剣そのもので、不自然にピンと張り詰めていた。

「つまらなくない。飲みに誘ったのだって口実だから」
「口実?」
「俺、香椎に話がある」

 彼はなにか悩みごとを抱えていて私に相談したかったのだと気付いたら、自分の勘の悪さがほとほと嫌になった。
 いつも氷室くんには仕事で助けてもらっているのだから、きちんと彼の話を聞いてあげたい。

「いろいろ作戦を練っても香椎に逃げられたら意味がないから……もうここで言う」
「ちょ、ちょっと待って。ここではまずいよ」

 どうして早く話してしまわないと私が逃げると思っているのかはわからないけれど、この場で暴露しようとする氷室くんの腕を引っ張ってロビーの隅に移動した。
 話の内容が会社や仕事に対する不満なのだとしたら、ほかの誰かに聞かれるのはまずい気がしたから、せめて人目につきにくいところでと私なりに気を利かせたのだ。

「ちゃんと聞くよ。逃げたりしない」
「そっか。よかった」
「私たち同期だし、なんでも言って?」

 神妙な面持ちでかしこまる氷室くんの顔を下から見上げると、フイッと視線を逸らされた。
 なぜかそのあとみるみるうちに彼の顔が真っ赤に染まっていく。

「無意識なんだろうけど、そういうことするなよ。調子が狂う」
「ごめんなさい」

 彼がなにか言おうとしていたタイミングで邪魔をしてしまったのかもしれない。小さく謝ると、氷室くんは顔をしかめながら右手で口元を覆っていた。

「好きな女から上目遣いなんかされたら心臓がもたないって」
「……え、好き?」
「そう。俺は香椎が好き。いつ告白しようか迷ってた」

 予想外の話の展開にビックリして、口を半開きにしたまま固まってしまった。
 てっきり仕事に関して悩みがあるのだと思っていたけれど、彼がしたかった話というのは私へ気持ちを伝えることだったのだ。

「なんでも言っていいんだろ? ていうか、ずっとアピールしてたけど気付かなかった?」
「……私って鈍いよね」

 氷室くんは頼りになる同期で、社交的で、とても気さくな人柄だ。
 それは誰に対しても等しく同じだと思っていた。なのに私にだけ特別な気持ちがあったとは……。

「俺と付き合ってほしいんだけど」
「氷室くん、ありがとう。でも……」
「うわぁ、その先は聞きたくないな。さすがにもうちょっと考えてよ」

 私がどんな答えを出すのか、氷室くんは先読みできてしまったようだ。
 それ以上言うなとばかりに両手を前に突き出してストップのジェスチャーをしている。
 申し訳ない気持ちになって、いったん視線を足元に下げたものの、私は意を決して顔を上げた。

「氷室くんはやさしくていい人だよ。でも私は重い恋愛しかできない女で、めんどくさいの」
「それでもいいって言ったら?」
「ごめん。ダメなの。私の心の中には、ほかの人がいるから」

 誠意を示したくて、きちんと彼の目を見て真剣に伝えた。
 すると氷室くんは観念したように大きな溜め息を吐き、フフッと笑みをこぼす。

「謝らなくていいよ。フラれるだろうなってわかってた」
「氷室くん……」
「香椎は好きな男とうまくいけばいいな」

 やっぱり氷室くんはやさしい人だ。最後まで嫌な言葉はひとつも口にせず、逆に私の幸せを願ってくれた。
 そんな氷室くんがこの先の未来で、私よりもずっと素敵な女性と出会って幸せになれるように心から祈ろうと思う。

 氷室くんとはその後も同期の同僚としてギクシャクせずに接することができている。
 普通にしてくれているのは本当にありがたいし、氷室くんの人間性というか器の大きさを感じた。

 そうして迎えた週末の日曜、夏用の新しい洋服がほしくなった私はひとりでショッピングモールへ出かけた。
 近くにデパートがあるから、最後に地下の食品売り場に寄って夕飯のおかずを買って帰るつもりだ。

 オシャレな洋服がたくさん揃っている店に足を踏み入れると、すぐに綺麗なサテンのスカートに目がいく。
 ベーシックなアイボリー色だが、形が広がりすぎないセミフレアだから私の好みだ。
 手に取って触ってみたところ、ギラギラとした安っぽい光沢はなくて落ち着いた風合いだった。
 自分に似合うかどうかたしかめたくてスタッフの人に試着したいと伝えると、快く試着室に案内してくれた。

「あ、かわいいかも」

 試着室でひとりごとを言いつつ、サイズもピッタリだったので購入を決めた。
 この店はトップスもいろいろと置いてあるし、今度は彩羽を誘って一緒に買いにきてもいいかもしれない。

 心をウキウキと弾ませながらその店を出て、今度は向かいにあったコスメショップの前で立ち止まる。
 新発売のシートパックが大々的に展示されていて、試しに買ってみてもいいなと手に取ってパッケージを眺めていたら、バッグの中でスマホが鳴っているのに気が付いた。
 その場を離れて画面を確認すると、かけてきたのは母だった。

「もしもし?」
「冴実! やっと出た!」
「ごめん。買い物に夢中だった」

 どうやら母は何度か電話してきていたようだが、先ほどの店のBGMが大きかったのもあって着信にはまったく気付かなかった。
 しかし何度もかけてくるなんて、なにか緊急で買って帰るものでもできたのだろうか。このときはまだ、そんなふうにのん気に構えていた。

「どこにいるの?!」
「ショッピングモールの中」
「今から言う病院にすぐに来て。おじいちゃんが碁会所で倒れて、救急車で運ばれたの!」

 母の言葉を聞いて頭が一瞬で真っ白になり、手にしていたスマホをうっかり落としそうになった。
 祖父とは今朝リビングで会ったけれど、そのときは普段通り元気だったのにいったいなにがあったのだろう。

「倒れたって、どうして?」
「急にみぞおちのあたりが差し込むって言って、そのあと吐血したらしいわ」

 口から血を吐いたシーンと想像したら怖くなって、途端に身体がブルブルと震えてきた。祖父のことが心配でたまらない。

「お母さんは病院に着いたから、今から先生に病状を聞いてくる。冴実も早く来てね」

 そう言うが早いか、母は病院の名前を告げて電話を切ってしまった。
 私は聞いた病院名をスマホで検索し、ショッピングモールを出たところに停車していたタクシーに乗り込んだ。

 あらためて確認してみると、母のスマホからは十分おきに着信と【電話に出て】というメッセージが三件ずつ入っていた。
 電話に出られなかったことが悔やまれてならない。すぐに知らせを受けていたら、もっと早く病院に駆けつけられたのに。

 小刻みに震える左手を押さえるように、右手を重ねてギュッと力を込める。
 吐血したと聞いてからずっと身体の震えが止まらない。祖父にもしものことがあったらどうしようと、最悪な考えまで浮かんできてしまった。

 タクシーを降りた私は救急外来用の入口から病院内に入り、通りかかった看護師の女性にあわてながら祖父の居場所を尋ねた。

「落ち着いてくださいね。先ほど救急車で運ばれてきた方なら、今は点滴室にいらっしゃいますよ」

 案内された部屋に行くと、ベッドに横たわって点滴を受けている病衣を着た祖父の姿が見えた。
 すぐそばで辰巳さんが丸椅子に座って心配そうな顔で見守ってくれている。

「おじいちゃん……」

 じわりと涙目になりながら遠巻きに声をかけると、辰巳さんが私に気付いてやさしく手招きをした。
 自分が座っていた場所を私に譲り、もうひとつあった丸椅子を自分のほうへ引き寄せて辰巳さんが私の隣に座り直す。

「点滴の途中で眠くなったみたいだよ」

 枕元まで顔を近付けて祖父の様子を確認したら、辰巳さんの言うようにスースーと寝息を立てて眠っていた。
 不安でいっぱいだった心の中に、ほんの少しだけ安心する気持ちが湧いてきて、感情が混乱したせいか大粒の涙がぽろぽろとあふれてくる。

「辰巳さん……それ……」

 辰巳さんが着ていたベージュの長袖シャツの袖口に、赤い血が点々と付着しているのが見えた。

「ああ、これか。倫さんの身体を支えたときに付いたんだ。冴実ちゃんを驚かせちゃったな。すまないね」

 私は泣きながらブンブンと首を横に振った。祖父が吐血するのを目の前で見たのだから、辰巳さんだって驚いたはずだ。
 突然倒れた祖父のそばでずっと付き添ってくれた辰巳さんには感謝しかないし、服を汚してしまって申し訳ない。
 しょんぼりしていると、辰巳さんが私の頭をよしよしと撫でるものだから余計に涙が止まらなくなった。

「点滴が済んだら病室へ移るらしい。しばらくは入院になる。冴実ちゃんのお母さんは医者から話を聞いたあと、入院の準備のためにいったん家に戻ると言ってたよ」

 どうやら母とは入れ違いになったようだ。
 迅速に母が動けているのも辰巳さんがいてくれるおかげだと思うと、本当にありがたくて頭が下がる。

「なにをグズグズ泣いてるんだ? たっちゃんを困らせるな」
「おじいちゃん!」

 目を覚ました祖父が私を見るなり苦笑いを浮かべてそう言った。

「ねぇ、大丈夫なの? どこが悪いの?」
「……胃だ」

 そういえば、祖父は最近よく胸焼けがすると言って市販の胃薬を飲んでいたし、食欲も落ちていた。
 少し痩せたような気がしたから大丈夫なのかと尋ねたら「若いころと同じ量を食べられないだけだ。年を取るとみんなこうなる」と平然と答えていたので、私も納得してしまったのだ。
 祖父の言葉を鵜呑みにせず、もっと気にかけていればよかったと後悔の気持ちが一気に湧いた。

「実は以前に一度病院で診てもらったんだ。だから退治しなきゃいかん厄介なものが胃の中にあるのは知っとった。こうなったのはそれを放置したせいだな」

 厄介なもの……そう聞いてすぐに頭に浮かんだ病名は、胃ガンだった。
 だとしたら一刻も早く治療しないと命に係わるのに、どうして祖父は私や母に言わず、病院にも通わなかったのだろう。

 私が十三歳のころに亡くした父の顔がふと頭に浮かんできた。父の命を奪った病気も、ガンだったから。

「お父さんが亡くなってからは、おじいちゃんが我が家の大黒柱なんだよ?」
「俺ももう年だ。いつまで生きられるかわからん」
「そんなこと言わないでよ」

 父の代わりを務めようとしてなのか、祖父は実年齢よりも若く見えたし、同世代の男性と比べたら体力もあった。
 だけどそれも、私と母のためにずっと無理をしていたのかと考えたら胸が苦しくてたまらなくなる。

「俺がいなくても冴実は立派に生きていけるだろう。けどな、仕事に没頭するのもいいが、人との縁や絆も大事にしてほしいと俺は思ってる。お前は不器用だから心配だ」
「縁や絆?」
「恋愛は相手の気持ちもあるからむずかしいよな。でも怖がるな。いい男なら近くにいるじゃないか」

 祖父は病気を抱えていたから、私が将来結婚するかどうかを気にしていたのかもしれない。自分が生きているうちに孫が幸せになるのを見届けたい、と考えていたのだ。
 そして、祖父が口にした“いい男”というのはきっと、神谷社長のことだろう。

「もしかして治療を拒む気? 今はガンも治る時代なんだからね! 手術が必要ならしてもらおうよ」
「……ガン?」

 一瞬ポカンとした祖父だったが、そのあと急に肩を震わせて笑いだした。私はなにもおかしなことは言っていないのに。

「そうか、俺がガンを患ってると思ったから、この世の終わりみたいな顔をしてたんだな」
「……え? 違うの?」
「ガンじゃなくて胃潰瘍だ。ちなみに手術は要らん。完治するまで治療は続けるよ」

 胃ガンではなかった……その言葉が耳に届いた途端に張り詰めていた緊張の糸が切れ、一気にホッとして祖父の身体に掛けられている布団の上に崩れるように顔を伏せた。
 とめどなく安堵の涙があふれてきて、しゃくりあげるようにヒクヒクとしだいに呼吸が乱れ始める。

「なんでそんなに泣くんだ。命に別状はないのに」
「だって……ちゃんと治療したらおじいちゃんは元のように元気になるんだと思ったらうれしくて」
「お前が結婚するまでは生きていないとな」

 祖父が苦笑いをしながら私の手をギュッと握った。大丈夫だと伝えたい気持ちが祖父の手の平から伝わってくる。

「私ね、とにかくおじいちゃんには長生きしてほしいの! ずっと元気でいてほしい」

 まるで涙腺が壊れたかのように、気付いたら私の目からは再び大粒の涙がぽろぽろとこぼれていた。
 ここに来てから泣いてばかりなのは、驚いたり絶望したり安堵したりと、感情が乱高下しているせいだ。

「おお、朝陽」

 辰巳さんの声につられて顔を上げると、悲愴な面持ちをした社長がベッドの足元のところに立っていた。

「救急車で運ばれたと聞きましたけど……倫治さん、大丈夫ですか?」
「朝陽くんにまで心配をかけてすまないな。ありがとう。俺はピンピンしてるよ」

 吐血した人が言う言葉ではないなと虚勢を張る祖父を見ながら溜め息を吐きだした。

「社長もわざわざ来てくださるなんて……あ! 朝陽さん、でした」

 すっかり忘れていたけれど、祖父たちの前では下の名前で呼び合う約束だった。
 初めて“朝陽さん”と実際に口にしてみると、意識しすぎて顔から火が出そうになるくらい恥ずかしい。

「まぶたが腫れて目が真っ赤だな」

 ひとりで落ち着きなくおろおろとしている私の顔を、彼が心配そうに覗き込む。

「さっきからずっと泣いているせいだ。今日だけはブサイクでも許してやってほしい」

 冗談だとばかりに祖父は言いながらクスクスと笑っている。
 鏡を見ていないから自分ではわからないけれど、右手でそっとまぶたに触れてみたら、たしかに腫れぼったい感じがした。

「それと朝陽くん、悪いが冴実をここから連れ出してくれないか?」
「おじいちゃん」

 祖父が顔をしかめつつ彼に頼みごとをしているのを聞いて、私はあわてて止めに入った。

「ここにいても泣いてばかりだろ。心配ならまた明日来ればいい。今はたっちゃんがいてくれるから大丈夫だ」

 入院の準備を終えた母がこのあとやって来るとはいえ、身内ではない辰巳さんに任せて私が先に帰宅するわけにはいかない。
 ブンブンと首を横に振ったけれど、隣にいた辰巳さんがやさしい笑みを浮かべて私の背中を擦った。
 うなずいているところを見ると、そうしなさい、という意味だろう。

「倫治さん、彼女の気持ちが落ち着くように車を走らせてきてもいいですか?」
「そうしてくれるとありがたい。家にいるより外の空気を吸って気分転換したほうがいいよな。朝陽くん、頼むよ」

 祖父の言葉に辰巳さんも再びウンウンとうなずき、ほら、と私の腕をそっと引っ張る。
 促された私は立ち上がり、祖父と辰巳さんにあいさつをしてから点滴室の部屋を出たものの、彼が今からどこに向かおうとしているのかまったく見当がつかなかった。
 私を元気付けるために、話をしながらあてもなくブラブラするつもりだろうか。

 病院の駐車場に停められていた車は、当たり前だがこの前のキャンピングカーとはまったく違っていた。
 だけど高級そうだという部分は共通していて、左半分が赤十字で右半分が蛇のようなデザインのカッコいいエンブレムが付いているので、これも外国の車のようだ。
 彼が黒いボディの助手席の扉を開けると、車内はラグジュアリーな空間が広がっていた。

「素敵な車ですね」
「本革のレザーシートだから座り心地はいいよ。さぁ、乗って」
「はい」

 普通のシートベルトなのに、しっかりと差し込めなくて手間取っていたら、運転席に乗り込んできた彼が手を伸ばして助けてくれた。
 顔の距離がぐっと近くなり、それだけでドキドキと鼓動が早まってくる。

「すみません、緊張して……」
「君は俺の前ではいつも緊張してるね。まぁ……今日は俺もだけど」
「え?」

 言われた意味がよくわからなくて聞き返してみたが、彼は「なんでもない」と小さくつぶやてエンジンをかけた。
 そして、車内に置いてあったコンビニのレジ袋からお茶のペットボトルを取り出して私に手渡してくる。

「さっき買ったばかりだからまだ冷えてると思う」
「ありがとうございます」
「喉渇いてるだろ?」

 たしかに彼の言うとおり、弱弱しい祖父の姿を見て取り乱した私は泣きじゃくってしまったから、少し前から喉がカラカラだった。
 涙をたくさん流したせいなのか、身体が水分を欲していた。
 お茶がおいしくてゴクゴクと勢いよく喉に流し込むと、なんだかホッとして緊張がほぐれてくる。

「倫治さんが倒れたって聞いて驚いたけど、大丈夫そうでよかった。また日をあらためてお見舞いにうかがうよ」

 ハンドルに右手を乗せて運転をしている彼が、前を向いたままそう言った。車は幹線道路をすいすいと進んでいく。

「お騒がせしてすみませんでした。辰巳さんにも本当にお世話になって……どうお礼をすればいいか……」
「倫治さんは大切な友達だから当然だ。じいさんのことは気にしなくていい」

 きっと辰巳さんが救急車を呼んで、そのままずっと付き添ってくれているのだ。
 気にしなくていいと言われても、そんなわけにはいかない。
 社長だって今日は有意義に休日を過ごしていたかもしれないのに、連絡を受けたせいで病院に来させてしまったと思うと申し訳なさが先に立つ。だけどありがたい気持ちももちろんある。

「十三歳のときに父を亡くして以来、うちは家族の中で祖父が唯一の男性だから、私は心のどこかで頼っていたんです」

 病院で話しているとき、父のように祖父もいなくなるかもしれないと考えた途端に不安でたまらなくなった。
 普段はなにげない日常を送っているだけだけれど、祖父や母の存在は私にとってとても大きい。

「なんの根拠もなく、祖父はいつまでも元気だと思っていました。ずっと私と母のそばにいてくれる、って」

 よく考えたら祖父は今年で七十三歳だ。身体のあちこちが痛いだとか、不具合が出ていてもおかしくない年齢なのに、祖父の弱音は一度も聞いたことがない。
 私や母に心配をかけないために口にしなかったのだろう。
 どんな人もいつかは絶対にその人生を終える。それは生まれたときから決まっていて私もわかっているはずなのに、身内を見送るのは本当につらい。

『人との縁や絆も大事にしてほしいと俺は思ってる』

 ふと、先ほどの祖父の言葉が頭に浮かんできた。あれにはとても深い意味が込められていた気がする。
 時間が永遠ではないからこそ、家族だけではなく自分の周りにいる人たちとの縁を大切にして、充実した人生を送れと言いたかったのかもしれない。だから恋愛も怖がるな、と。

「あの……ところでどこに向かってるんですか?」

 モヤモヤとしながらあれこれ考えていたら、車がレインボーブリッジを渡っていることに気が付いた。
 運転をする彼の横顔をチラリと見ると、やわらかい笑みをたたえている。

「海が見たくなった。海浜公園に行こう」

 一番近くの駐車場に車を停めて外に出ると、ほんのりと潮の香りがして海に来た実感が湧いた。
 休日だから公園はカップルや子連れで遊びに来ている人たちでごった返しているだろうと想像していたけれど、もうすぐ日が暮れる時間なのもあって、さほど混みあってはいなかった。

「あー、山もいいけど海もいいな」

 彼が伸びをしてスーッと大きく息を吸い込んでいる。
 外国人モデルのようにスタイルのいい彼は立っているだけで絵になっていて、近くにいた若い女性たちから注目を集めていた。芸能人がいると勘違いされたみたいだ。

「目が赤いの、治ったかな?」

 突然顔を覗き込んできた彼から無意識に視線を外しそうになったけれど、この前のことを思い出したら動けなくなった。
 私が目を逸らせるのを彼がひどく嫌がっていると知ったから。

「大丈夫です」
「ほんとに?」

 瞬きを繰り返しながら固まる私をよそに、彼が右手を伸ばして親指で私の目尻に触れる。
 目力のある瞳に至近距離で射貫かれた私は、吸い込まれそうになってぼうっと惚けるしかない。
 またキスをされるかも。……心のどこかでそんな期待があるせいか、心臓がドキドキして顔に熱が集まってくる。

「顔が真っ赤だ。かわいい」

 彼はそうつぶやいたあと、海のほうに視線を移した。
 期待しているのがバレたのかもしれないと考えたら恥ずかしくてたまらなくなる。

 だいたい、社長は私をどう思っているのだろう?
 会社以外で繋がれてよかったとか、キラキラして見えていると言ってくれてはいるものの、ひとりの女として私を好きだという確信はない。
 キスはされたけれど、あのときは雰囲気に流されただけかもしれないとネガティブな思考に陥りそうになる。

 こんなに完璧な男性なのだから、ほかの女性からたくさんアプローチもあると思うし……。
 そこまで考えたところで、ふと百合菜の存在が頭をかすめた。そういえばあれからどうなったのだろう?

「社長、正直に答えてください。百合菜から連絡は来ていますか?」

 私が真剣な顔でストレートに尋ねてみると、彼は少し考えてから首を小さく縦に振った。
 やはりな、と嫌な予感が当たった私は自然と口をへの字に曲げてうつむいた。

「何度か会社に電話があったみたいだけど、俺は直接話してはいない」
「社長には彼女の色仕掛けの罠にはまってほしくありません。気を付けてくださいね」
「俺のことが心配?」

 社長はフフッと余裕たっぷりに笑っている。私は百合菜が怖くて仕方ないというのに。

「ああいう悪知恵がはたらくタイプには引っかからないよ。俺はもっと一生懸命で真っすぐで、心が清流みたいな人が好きだから」

 綺麗な川のほとりで言われたあの日の言葉がよみがえり、再びドキドキと心臓が早鐘を打ち始める。

『この川の流れを見ていたら、まさに君のことだなって思った』

 あんなふうに褒めれたのは生まれて初めてですごく感動したから、あの言葉だけは絶対に忘れられない。

「それよりも、俺は君と氷室の関係のほうが気になってる」
「……え?」
「この前、ロビーの隅で真剣な顔をして話してるのを見た」

 人目につかないようにと気を使って端に寄ったというのに、まさか社長に見られていたとは思わなくて、私は目を丸くして驚いた。

「あれは氷室が告白してたのかもなって、あとで気付いたんだけど……?」
「な、なんでわかったんですか?!」
「氷室の表情。なんとなく腹をくくってた感じがしたから。って、やっぱり告白されたんだ」

 海を眺めながら笑っていたはずの彼の顔がしだいに曇り、どんどんむずかしい表情に変わっていく。
 そのあと急にパッと視線を向けられた私は、ビックリして心臓が止まりそうになった。

「まだ間に合うなら……いや、たとえ間に合わなくても」

 彼が私の両肩に手を置き、熱のこもった瞳で私をじっと見つめた。
 彼の大きな手から力強さを感じ、触れられていると意識するだけで胸が高鳴ってくる。

「俺を選んでほしい」
「あ、あの……」
「君の想像をはるかに超えて、俺は君が好きだ」

 それは私に向けて心から紡いでくれた言葉で、愛の告白だった。
 彼は私のことを真っすぐな人間だと褒めてくれるけれど、彼のほうこそとても誠実で偉大で、汚れのない人だと思う。
 うれしくて、ふにゃりとした笑みを浮かべた途端、彼が私の背に腕を回してギュッと抱きしめた。

「私も」

 彼の胸に顔をうずめながらくぐもった声を出すと、それを合図に彼が腕の力をそっと緩めてくれた。
 見上げた先には透き通るように綺麗な瞳が待っていて、ずっと前から私はこの人に恋をしていたのだと今さら思い知った。

「朝陽さんが大好きです」

 雲の上の存在で、手の届かない人、住む世界が違う人だからとあきらめようとしていた。
 だけどただの憧れや尊敬だけでなく、そこにはきちんと恋心があって、膨らみすぎた好きという気持ちを消し去ることはもうできない。
 
「俺がずっと冴実のそばにいるよ。寂しい思いはさせない」

 彼はそう言うなり着ていた上着のポケットからネイビー色の正方形の箱を取り出した。
 それがなにかわからなくて見つめていたら、こちらに向けて箱が上下の方向に開けられる。
 中にはキラキラと輝く大きな一粒ダイヤの付いた指輪が入っていた。

「俺と結婚してください」
「え?!」
「付き合ってないのにプロポーズするって、やっぱり変かな?」

 彼は急に照れたのか後頭部に手をやりながら困ったように苦笑いを浮かべたが、私は仰天してしまってパチパチと瞬きを繰り返すだけで、ピクリとも動けなくなった。

「この前朔也と話してたらアイツが『キスもしてない相手にプロポーズするなんて愚行でしかない』って言ったんだよ。だったら俺は君とキスはしたから、チャンスはあるかもって思って。気付いたらこれを買ってた」

 私にはなんの話なのかまったくわからないけれど、五十嵐専務との会話で触発されたということだろうか。

「これ、冴実の綺麗な指に絶対似合うよな。……なにか言ってくれよ」

 ポカンとしたままの私の様子がおかしいのか、彼がフフッと笑いながら私の左手の薬指にその煌めく指輪を嵌めた。

「私、重いしめんどくさいですけど大丈夫ですか?」
「全身全霊で受け止める。心配いらない」

 こんな大きなダイヤモンドなんて私にはもったいない。
 だけどこれは彼が私への気持ちを形にして表してくれたのだと思うと、心にじーんと響いて最高に感動した。

「俺からは逃げられないよ。運命の相手だから」
「逃げませんよ」

 指輪を嵌めた私の左手を取ってうれしそうにしていた彼が、慈愛に満ちた瞳で私と視線を合わせた。
 その瞬間、私の両目からは幸せの涙があふれて頬を伝う。

「せっかく泣き止んでたのにな……」

 彼が親指の腹で私の涙を拭いつつ、困ったように眉尻を下げる。
 今日は泣いてばかりだけれど、今はうれしくて感激しているからで、病院で流したのとは違う種類の涙だ。

「朝陽さん、私と出会ってくれてありがとう。この縁を大事にします」
「なんでそんなにかわいいの」

 あっという間に身体を引き寄せられて唇を奪われる。
 フッと余裕のある笑みを浮かべた彼は、何度も角度を変えてやさしいキスを繰り返した。

「じいさんたちに報告したらふたりとも諸手を挙げてよろこぶだろうな」

 思い返してみると、姿を見るだけでぼうっと惚けたり、目が合うだけで恥ずかしくなって胸が高鳴る男性は、私が今まで出会った人の中で朝陽さんだけだ。
 だから私にとっても彼は特別で、運命の相手なのだと思う。
 
「指輪、大切にしますね」
「俺も冴実を大切にする。幸せにするって約束するよ」

 もう一度ふわりとキスを交わし、私たちは手を繋いで歩きだした。

 どんな未来が待っているかわからないけれど、ふたりならきっと手を取り合って共に人生を歩んでいけるはずだ。

 ――――END.


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