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憧れのCEOは一途女子を愛でる 第3話

<第2話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n8b458c70d678

#創作大賞2024 #恋愛小説部門 #小説 #胸キュン #CEO #頑張る女子 #オフィスラブ

<第3話 過去の失恋>

『俺ばかり責めるなよ。だいたい冴実は重いんだよ』

 私を誹謗する言葉がどこからともなく聞こえてくる。
 ずいぶんと懐かしく感じるその声は、元カレの加那太かなただ。
 そう認識できた途端、ぼんやりと靄がかかっていた加那太の顔がはっきりと見えた。
 
『お前のそういうところが嫌なんだ』

 面倒くさいとばかりに、これでもかと加那太が顔をしかめている。
 ああ、これは夢だと頭で理解し始めた。加那太とはとっくの昔に別れたのだから。

 ゆっくりと瞳を開けると、見慣れた自分の部屋の天井が映った。
 カーテンのすき間から朝日が差し込んでいて、窓の外で雀がチュンチュンと鳴いている。
 ベッドの上で上半身を起こしながら、なぜあんな嫌な夢を見たのだろうと気持ちが沈んだ。天気のいい爽やかな朝が台無しだ。

 別れてから三年が経ち、そろそろ失恋のトラウマを克服できたのではないかと思っていた。
 だけど夢に出てきてしまうのだから、まだダメみたい。
 本当にもう、あの恋のことは丸ごと全部忘れてしまいたいのに――

 三年半前、大学生だった私は友人の彩羽あやはに人数合わせとして誘われた合コンで、別の大学に通う同い年の加那太と出会った。
 加那太の第一印象は、センターでラフに分けられた髪型のせいか、少し野暮ったい感じを受けた。
 顔も特にイケメンというわけでもなく普通だったけれど、偶然隣に座っていた私に気さくに話しかけてくれたのがうれしかった。
 映画や音楽に詳しく、雑学を交えていろいろと私に教えてくれたし、ユーモアもあって楽しい人だという印象に変わっていった。

「今度さ、この映画を一緒に見に行かない? 絶対当たりだと思うんだよね」
「うん、行きたいな」

 加那太が自分のスマホの画面を私に見せる。そこにはハリウッドのSF映画の予告動画が映し出されていた。
 自然な流れで、私たちは知り合ったその日に連絡先を交換し、次のデートの約束を交わした。

「映画のあとに食事も行こうね。俺、良さそうな店を調べとくから」

 加那太も私とは気が合うと思ったのだろう。
 それからは連絡を取り合い、大学の授業が終わったあとに街で待ち合わせをしてよく会うようになった。
 お互いに最初から友達としてではなく異性として意識していたためか、恋愛関係へと発展するのも早かった。

「今度の土曜、どこかお出かけしようよ。今だと紅葉が綺麗だよ」

 出会いからあっという間に二ヶ月が過ぎ、もうすぐふたりで過ごす初めての冬がやってくる。
 少し肌寒い空気が漂う晩秋から初冬の季節が私は好きで、甘えるような口調で加那太をデートに誘った。
 もみじが真っ赤に紅葉している風景を想像しただけで私は自然と笑みがこぼれたのだけれど、加那太は逆に心底嫌そうに顔をしかめた。

「紅葉なんてなにがいいんだよ。ただの山だろ。疲れるだけだし、わざわざそんな場所に好んで行く意味が俺にはわからない」

 加那太は付き合い始めた当初は映画や食事に誘ってくれたけれど、次第に外でのデートを拒むようになった。
 元からかなりのインドア派だったようで、私が想像する以上に山や海が苦手なのだと知った。
 今回、無邪気に紅葉に誘ったことで彼の機嫌を損ねたかもしれないと、私は一気に表情を曇らせる。

「そっか。ごめん。……それじゃあ、なにして遊ぶ?」
「俺の家で動画を見るか、ゲームでいいんじゃない?」

 冬は寒い、夏は暑いと言って、結局ひとり暮らしをしている加那太の家に居続けることになるのかな。
 そんな考えがよぎったけれど、私は加那太に会いたい気持ちが強かったからすぐさま頭から消そうとした。
 どこでデートするかを問題視せず、彼との時間をなによりも大切にして、愛を育んでいきたかったのだ。

「家に来るならオムライス作ってよ。冴実が作ったやつはうまいから」
「わかった」

 自炊をしない加那太は手料理に飢えているのか、私が食事を作るとよろこんでくれた。
 太ってはいないのに大食漢で、なんでもペロリと平らげる。そんな彼の姿を見ていると癒される自分がいた。

 心待ちにしていた約束の土曜日、お昼頃に加那太の住んでいるアパートを訪れてチャイムを鳴らす。
 すると緑色のジャージ姿で寝癖を付けた加那太が玄関扉を開けた。

「いらっしゃい」
「お邪魔します」

 中に入るといつもと変わらず、加那太が暮らしている生活感が漂っていた。
 彼の部屋はお世辞にも綺麗にしているとは言えない。
 家事は全般的に苦手だと自分でも言っていて、いつ訪れても片付いている試しはないけれど、それもまた加那太らしくて微笑ましい。

「朝はなにしてたの?」
「寝てた」

 加那太は午前の授業がない日や休日は遅くまで寝ている。どんなに睡眠を取っても眠いそうだ。
「まだまだ成長期なのかもな」などと今も冗談を言いつつ、加那太は大きくあくびをしていた。

「お昼ご飯はパスタにしよう」

 オムライスを作るための材料も先ほどスーパーに寄って買ってきたので、それを冷蔵庫にしまいながら加那太に声をかける。

「洗濯物は?」
「溜まってる」
「じゃあ、洗濯機を回してから掃除機をかけるね」
「サンキュ」

 加那太がそう答えるのはは想定内だ。
 ヘヘっと笑いながら、ごめんねと両手を合わせる加那太が私にはかわいく思える。

「冴実が来ると部屋が綺麗になるから助かるわ」

 まずは床のあちこちに落ちている衣類を拾い上げた。
 靴下はもちろん、部屋着やタオルなど、加那太はなんでもその場に放置する癖がある。
 ベッドの下に掃除機を滑り込ませたら、丸まった靴下がそのまま出てくることもあるくらいだ。

 彩羽からは世話をしすぎだとあきれられているけれど、恋人である私だけの特権のような気がしている。
 加那太はすべてオープンにしているから、これでは隠し事なんか絶対にできないし、私にとってはある意味安心材料なのだ。

 家事が一通り終わったところでふたりでお昼ご飯を食べ、そのあとはすっきりと片付いたリビングで加那太とゲームをした。
 夕方になると彼はソファーでうたた寝をしていたので、私はリクエストされていたオムライス作りを始める。

「やっぱり冴実のオムライスはうまいな」

 加那太用に作った特大のオムライスを彼はペロリと平らげて再びソファーで横になった。
 狭いキッチンで後片付けを終えた私が加那太のもとまで行き、今度はふたりで動画配信サイトで映画鑑賞をする。
 そうして時間が過ぎていき、この日のデートは終了した。

 それから三日後、久しぶりに彩羽と大学の近くでランチを食べる約束をした。待ち合わせたのはふたりでよく利用しているイタリアンレストランだ。

「もういい加減にしなよ~」

 彩羽が溜め息を吐きだしたあと、アラビアータのお皿に乗っている角切りベーコンをフォークで刺した。
 そんなにしかめっ面をしたら、彼女のかわいい顔が台無しだ。

「冴実が一生懸命に恋をしてるのはわかってるけど、さすがに世話を焼きすぎだってば」
「……やっぱりそうかな?」
「自分でも気付いてるくせに。掃除、洗濯、料理……まるで母親みたいだよ?」

 あきれ果てた彩羽が豪快にパスタを口に放り込んだ。
 加那太はよろこんでくれているし、私も好きでしているのだから、なにも問題はないはずなのだけれど。
 それに、ふたりで甘い時間を過ごすときもあるから私は紛れもなく彼の恋人で、母親とは違う。

「加那太は家事が苦手なの。私が手伝ってあげないと出来ないんだよ」
「じゃあせめて、ご飯は外で食べるとか!」
「家がいいんだって」

 彩羽は眉をひそめ、「うわぁ」と小さくつぶやきながら首を横に振った。
 彼女には私たちの付き合い方がまったく理解できないらしい。

「それって彼氏のワガママじゃん」
「私の作る料理が好きだって言ってくれてるの」
「そう言われたら悪い気はしないから作ってあげたくなるもんね。でもさ、細かい話だけど食材を買うお金はどうしてるの? 彼氏は出してる?」

 痛いところを突っ込まれ、私は視線をテーブルへと下げた。
 彩羽が再びあきれて怒り出しそうだと察しはつくが、ここは正直に話すしかない。

「……たいした金額じゃないよ」
「信じられない。冴実に料理させて、彼氏はいつもタダ食いなわけ?」
「私が勝手にしてるの。そんなふうに言わないで」

 私は苦笑いをしながら、顔をしかめたままの彩羽をなだめた。
 彩羽は私を友達だと思っているからこそ苦言を呈しているのだ。心配しているだけで私を軽蔑しているわけではないとわかっている。

「ごめん、言い過ぎた。冴実が尽くしてる分と、彼氏からもらってる愛情が釣り合ってない気がして、嫌な言い方しちゃった」

 急に反省するように彩羽が謝ってきた。
 彼女の意見も理解はできるので、私はやわらかな笑みと共に「大丈夫」とうなずいた。

 私は一日二十四時間ずっと恋をしている自覚がある。
 大学で友人と過ごす時間もそれなりに楽しいけれど、私にとっては恋人の加那太のほうが断然大事だ。
 彩羽からは「彼氏の言いなりになってはダメ」と釘を刺されているが、加那太が望むならなんでもしてあげたい。
 なぜそこまでするのかと問われれば、加那太のことが好きだから。
 愛し合っていたらお互いに相手を思いやれるし、ずっと仲が良いまま一緒にいられる。私はそう信じて疑わなかった。

 だけど春の足音が聞こえはじめる二月、加那太の部屋を訪れたときに違和感を感じた。
 相変わらず加那太はジャージ姿だったけれど、この日はいつもと違って部屋の中が片付いていたのだ。

「どうしたの? なんか綺麗じゃない?」
「え……ああ……冴実にばかり掃除を頼むのは悪いから、少しは自分でやろうと思って」

 その言葉を聞いて私は素直にうれしかった。加那太が私を思いやり、招き入れる前に部屋を掃除しておいてくれたのだから。

「今日はお天気が悪いから洗濯するのは無理だけど、来週は掃除も洗濯も私がやるね。任せて!」
「大丈夫。来週は金曜から実家に帰るんだ」
「そうなのね……」

 じゃあ来週末は会えないのか、と寂しさを感じながらリビングのソファーに腰を下ろした。
 今までだって必ず土日に会えていたわけじゃないし大丈夫、と心の中で自分自身をなぐさめる。タイミングが合わないことだってあるもの。

「だったら平日でもいいからそれまでに会おうよ」
「卒論もあるし、時間が取れないな」

 加那太に即答され、私はガクリと肩を落とした。
 今日は彼と顔を合わせてまだ五分ほどしか経っていないのに、なんだかふたりのあいだの空気が悪くなった気がした。
 私はそれが嫌で、懸命に顔に笑みを貼り付けて平静を装う。

「じゃあ、差し入れでも持ってこようか。少しだけでも会いたいから私が努力する!」
「努力?」
「うん。この先もずっと一緒にいるためにね」

 立ったまま話していた加那太がラグの上にあぐらを掻いて座り、しばし黙り込んだ。
 私の顔を一向に見ようとしない彼の態度に徐々に不安が膨らんでいく。

「ずっとって、どういう意味? 俺と結婚でもしたいのか?」

 今度は反対に私が言葉を詰まらせて沈黙が流れる。
 加那太の口から“結婚”というワードが出たものの、彼がひどく渋い表情をしていたのがショックだった。

「そんなのまだわからないけど、何年か経ったらいずれは考えるかも」
「俺が家でだらしないのは知ってるだろ? 就職先が決まってるとはいえ、給料だって高くないし結婚なんて無理だ」
「別に今決めなくてもいいじゃない」

 加那太と付き合ってから、彼がこれほどイライラするのは見たことがない。キュッと眉間にシワを寄せ、今にも大声を出しそうで恐怖すら覚えた。
 恋人に会えるとウキウキした気持ちでやって来たのに、すぐに喧嘩になるなんて最悪だ。

「今日は帰るね」

 このまま話していても彼は頭に血が上る一方で、良い方向に向かう気がしない。
 お互いに一旦落ち着く時間が必要だから、私はこの部屋にいないほうがいいのだ。

 ソファーから立ち上がって玄関先で靴を履いていても、加那太は無言のままこちらを見ようともしなかった。
 交際を続けるには努力が必要で、遠回しに加那太にはそれが足りないと受け取れる発言をした私に対して彼は怒っているのだろう。

「またね」

 加那太に声をかけ、私は玄関を開けて外に出た。
 バタンと扉が閉まった途端、悲しい気持ちが込み上げてきて、目の縁にじわじわと涙が溜まってくる。
 加那太は私との結婚を微塵も考えていないと思い知らされて、胸がズシリと重くなった。
 家でだらしないとか給料が高くないとか、どちらも私と一緒にいたくない言い訳にしか聞こえない。

 そのあと家に帰ってからもずっと加那太との会話が頭から離れなかったが、落ち着けと自分自身に言い聞かせて深呼吸をした。
 加那太も私もまだ大学を卒業していないというのに、いきなり将来の話になって彼は戸惑っただけかもしれない。
 時間を置いたら、この先冷静に話せる日もやってくると思う。そんなふうに考えるのはポジティブすぎるだろうか。

 その日を境にメッセージのやり取りは途絶えていたが、加那太から翌週の木曜日に連絡がきた。夜にレストランで食事をしないかと誘われたのだ。
 家が大好きな加那太が外で食事したいだなんて珍しい。彼なりに前回会ったときの喧嘩を気にしているのだと思う。
 私が了承の返事をすると、彼はメッセージで待ち合わせの場所を知らせてきたのだけれど、なぜか行ったことのないカジュアルなフレンチレストランだった。
 ホームページで確認してみたら、ナチュラルな木の色のテーブルが配置されていて温かみのあるオシャレな内装のお店だ。

「冴実、お待たせ」

 待ち合わせの時間よりも早く着いた私が店内で待っていると、しばらくして加那太が現れた。
 いつも家で見るジャージ姿とは違い、今日はダウンコートの下に洒落たオフホワイトのシャツを着ていた。

「急に誘って悪いな」
「ううん。私はいいんだけど加那太は明日から実家でしょ? 大丈夫だった?」
「ああ」

 前に会ったときに、たしかそう言っていたはず。
 加那太はあまり家族の話はしてくれないけれど、もうすぐ卒業だし、たまには顔を見せに行こうとしているのだろう。

「ワインでも飲む? 冴実はすぐ酔うから一杯だけな」
「え、どうしたの?」
「外でこうして食事したかったんだろ?」

 私がコクリとうなずくと、加那太はコース料理と共にグラスで赤ワインを注文した。
 週末に彼の部屋で会えるだけでも私は幸せだったけれど、本当はこんなふうに外で食事を楽しむこともしたかった。
 今日は仲直りのために彼が私に合わせてくれた。そう考えるとうれしくて自然と顔が綻んでくる。

 しばらくするとワインがテーブルに届き、ふたりで乾杯をした。
 そのあとに続いて出て来た料理の味も素晴らしく、特にアイナメのソテーや仔牛のグリルは絶品だった。

「おいしいね。来月の加那太の誕生日にも来られたらいいな」

 たまにでいい。クリスマスや誕生日などの記念日にレストランで食事をすると、普段とは違った気分を味わえる。
 私はコースの最後に運ばれてきたクリームブリュレをスプーンで口に運びながらにっこりと微笑んだ。

「冴実、実は……今日は話があったんだ」
「なに?」

 食事が終わってから話そうと加那太は最初から決めていたのだろう。
 手にしていたスプーンを置き、ナプキンで口元を拭った。

「俺と別れてくれ」

 ずっと笑顔を絶やさないようにしていたものの、彼の言葉を聞いた途端、さすがに顔が引きつった。
 本当は食事をしている途中から、加那太らしくない行動の裏にはなにかほかの意図が隠されているような気がしてならなかった。
 だけど私はそれに気付かないフリをして、彼はこの前の喧嘩を詫びたいだけなのだと思い込もうとしていた。
 結局喧嘩のことについては私も彼も謝ってはいないのだけれど。

「どうして?」

 私の問いかけに、加那太は言いにくいのか下唇を噛んだ。
 たしかに喧嘩はしたけれど、別れると決断をするほどまでの事柄だっただろうか。
 お互いにヒートアップしないように私はあの日早々に帰ったし、少し言い合っただけなのに。

「ほかに好きな人ができた」

 取って付けたような理由を耳にし、私は小さく首を横に振った。

「ウソだよね」
「本当だ。相手は百合菜ゆりな。俺たちが知り合った合コンに来てただろ? 冴実とは同じ大学で友達みたいだからなかなか言い出せなかった」「ちょっと待って。百合菜とずっと連絡し合って……ふたりで会ってたの?」

 百合菜はたしかに私の友人だけれど、いつも一緒に遊ぶほどの仲の良さではない。だからそんな話は初耳だ。
 加那太は最初からやましい気持ちがあったから、私には一切告げずにこっそりと百合菜と会っていたのだと思う。
 卒論があるから忙しいと言っていたのはウソかもしれない……私を騙していたのかもと疑念が生まれる。
 もしかしたら最初からずっと二股されていたのではないかと、最悪なことまで考えが及んだら頭が痛くなってきた。
 それとも百合菜とは最近になって親密な関係になったのだろうか。先日、加那太の部屋が片付いていたのがその証拠のような気がする。

「加那太は私と別れて百合菜と付き合うの?」
「ああ。ふたりでそうしようって決めた」

 加那太の発言が信じられなくて、自分の耳を疑った。
 だとしたら百合菜は以前から加那太のことが好きだったということになるが、彼女と顔を合わせてもそんな様子は見受けられなかった。私に言えずに隠していただけかもしれないけれど。

「私との付き合いはなんだったの。二股なんて酷いよ」
「俺ばかり責めるなよ。付き合ってからずっと、キス以上のことを拒んできた冴実だって酷いだろ。身体の関係はなくても一応付き合ってはいたから、最後にこうして食事をして終わろうと思ったんだ。これは俺なりの誠意」

 きちんと筋を通して別れ話をしていると言わんばかりの彼の開き直った態度に目を疑った。
 それと同時に、もう関係は修復不可能だと思い知った。加那太の心はとっくに百合菜へと移ってしまっている。

「だいたい冴実は重いんだよ。セックスを嫌がるって……子どもじゃあるまいし」

 加那太から迫られることはこれまでに何度もあった。
 だけど私はまだ誰とも経験がなくて、キスより先に進もうとすると怖くて身体が自然に震えてくるから、いつも彼が途中であきらめてくれていた。
 それは私に対する思いやりだと捉えていたけれど、彼は心の中で腹を立てていたのだと今になって知った。 

「私は真剣に加那太だけを思ってたのに」
「お前のそういうところが嫌なんだ。俺たちは合コンでたまたま気が合っただけじゃないか」

 私は最初から愛されてはいなかったのだ。彼からしたら、なんとなく付き合う流れになって今に至っているだけだった。
 もしも彼と肌を重ねることができていれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。

「百合菜から話を聞く」
「無駄だ」
「それでも、このまま終わらせるのは無理だから」

 三人で話そうと提案しても、どうせ拒否されただろう。加那太はそういう人だ。
 すっくと椅子から立ち上がって加那太に視線を送ったが、彼はなにも言わずに渋い顔をしたままだった。私はバッグとコートを腕に掛け、急いでお店の外に出た。
 最後に罵る言葉で終わらせたくなかったし、今までありがとうと感謝の言葉を言ったほうがよかっただろうか。
 加那太はどう思っているかわからないけれど、私は一緒にいられて幸せだった時期もあった。そんなことが頭をよぎると、堰を切ったようにポロポロと涙があふれた。

 とりあえず家に帰り、自室でベッドの縁に腰をかけて百合菜に電話をかけるためにスマホを操作する。

『もしもし。電話がかかってくるなんてビックリ。冴実は控えめな性格だから、ただ泣くだけなのかと思ってた。それで、別れ話は終わったの?』

 百合菜は私と加那太が今夜会うと知っていたらしい。きちん別れてくると、加那太が事前に話していたのだろう。
 それにしても、彼女の一切悪びれた感じがしない声は非常に気味が悪い。

「百合菜、まずは謝罪するべきじゃない?」
『私と付き合いたいって言ったのは加那太だし、私が謝る必要ないんじゃないかな』

 飄々とした感じで開き直る百合菜の言葉を聞いていると、だんだん胸がムカムカとしてくる。

「ずっと私に内緒で加那太と会ってたんでしょ? 友達の彼氏だってわかってて……」
『冴実とは大学の学部が同じだったからなんとなく一緒にいただけで、私は友達だなんて思ってないけど』

 追い打ちをかけるように更なる衝撃が走った。
 彩羽のようになんでも話せる感じではないものの、百合菜のことも友達だと思っていた。だけどそれは私だけだったらしい。

『もういいかな? 明日から加那太と旅行なの。遊びに行くなら泊まりじゃなくてもいいって言ったんだけど、彼って超肉食だよね』

 実家に帰省する話は、加那太がついたウソだったようだ。
 最後の最後まででだらめを口にしてごまかそうとした彼に対して私は心底幻滅した。
 私とは外に出るのも嫌がったのに、百合菜とは旅行したいと乗り気なのだから、開いた口が塞がらない。加那太はそこまでするほど百合菜が好きなのだ。

『恨まないでね。卒業までもう少しだけど、大学で見かけてもお互い無視しよう』
「百合菜……あんまりだよ」

 フフッと微かに笑ったような気配がしたあと、突然プツリと電話が切れた。
 意図的に百合菜が切ったのだとわかったから私はかけ直すことをしなかった。これ以上会話をすれば傷つくだけだ。

 翌日、彩羽とカフェで会ってすべてを話したら、彼女は目を見開いてしばし二の句が継げないでいた。
 怒りは遅れてやってきたようで、口を真一文字に結んで次第に顔を赤くしていく。

「百合菜も加那太くんも最低!」

 泣くものか、と思っていたのに、自分のことのように怒ってくれる彩羽の顔を見ていると自然に涙が頬を伝った。

「私からも文句を言ってやるわ」
「ありがと。でも大丈夫。彩羽には関係ないって言い返して終わりそうだし、もう百合菜には関わりたくない」

 手の甲で頬の涙をゴシゴシと拭う私を目にし、彩羽は眉尻を下げて心配そうな顔をした。

「ごめん、私が百合菜を合コンに誘ったからだね……」
「違う。彩羽のせいじゃないよ」
「ちょっと前なんだけどさ、百合菜って人の彼氏を横取りするのが好きだって噂を聞いたの。優越感を得られるから、って」

 思い返せば百合菜は他人と自分を比べるような発言をよくしていたし、見栄っ張りな性格だった。
 恋人がいる男性を振り向かせることで、自分が勝ったのだと優越感を得ているだけなのだとしたら、私も加那太も利用されたようなものだけれど。
 だとしても、加那太が選んだのは百合菜だ。

 別れてからは、加那太との恋だけを大事にしていた自分がバカみたいに思えた。
 恋愛至上主義だったので、この半年は自分のために時間を費やすことをほとんどしてこなかった。
 そのあいだに周りは、就職先で仕事に活かせるようにと資格を取ったりしてがんばっていたから、私だけすっかり置いていかれてしまった。
 それでも、一番大事にしていた恋愛がうまくいっていればよかったけれど結局ダメになって、ドン底まで気持ちが落ち込む日が続いた。

 大学生活は残りわずか。あとは卒業式だけだから、百合菜とは大学でバッタリ会うことがないのは不幸中の幸いだった。
 どこかに出かける気分になれない中、自室のパソコンデスクに置いていたビジネス雑誌に目が止まる。
 就職先であるジニアールの社長が取材を受けたらしく、インタビューが掲載されているというので書店で購入したのだ。

 最終面接で一度だけ対面した神谷社長は恐ろしいほどのイケメンで、それだけで圧倒されそうになったのを思い出す。
 頭に入れていた面接での想定問答が吹っ飛びそうだったので直視しないようにしていたくらいだ。

 雑誌のインタビューでは将来の展望や人材について聞かれていていたのだが、神谷社長はひとつひとつていねいに質問に答えていた。
 書き起こされた文章を見るだけでも、社長の実直さが伝わってくる。

『時代に合わなくなってきているのかもしれませんが、僕はがんばっている人が好きなんです』
 
 とても素敵な言葉だからだろうか、社長が言ったその一文が太字になっていた。
 どうやらインタビュアーは女性のようで、続けて『恋愛対象としてもそういう人が好みなのでしょうか?』と踏み込んで尋ねている。

『はい。なにごとにもがんばっている女性は素敵だと思いますよ』

 この部分を何度読んでも涙目になってしまうのは、救われた気持ちになるからだ。
 加那太との交際は、私が自分勝手に愛情を押し付けたのもダメだった要因だと思っている。
 だけど神谷社長のように、がんばる女性が素敵だと言ってくれる人もいるとわかり、心が慰められた。

 失恋して落ち込む日が続く中、私は四月から無事に社会人になった。
 たいした取り柄もない私を雇ってくれたジニアールには本当に感謝している。
 そんな気持ちもあって、所属された商品部で毎日懸命に働いていたら、ある日伊地知部長から労いの言葉をもらった。

「仕事はね、うまくいかないときもあるけど、努力して成果が出たら楽しくなるからね」

 自分では無自覚だったけれど、私は時折暗い顔をしていたらしいので、プライベートでなにかあったと部長はきっと勘づいていたのだろう。
 いつまでも失恋を心に留め置くのではなく、前に進まなければいけないのは自分でもわかっている。だから一旦、恋愛に関しては目を背けることにした。
 仕事で褒められると承認欲求が満たされるからか、恋愛という道を塞がれた私は次第に仕事にまい進するようになり、あっという間に三年が過ぎた。

 恋愛から遠ざかっているとはいえ、縁がある人とは自然に出会って恋に落ちるはずだ。どうせなら次は運命的な出会い方をしたい。
 仕事中にふと、社内誌に載っている神谷社長の写真が視界に入った。私にとっては雲の上の人だ。
 社長は本当に綺麗な顔立ちだから、芸能人を見ている感覚で胸がときめく。
 それだけで充分だったのに、祖父を通じて接点ができたのは奇跡だとしか思えない。

「冴実の元カレ、また恋人と別れたらしいよ」

 仕事が終わったあと、久しぶりに彩羽と食事をしに来たら、どうでもいいけどと前置きをしながら彼女が急に加那太の話題を出した。
 彩羽は加那太の友達と今でも交流があるので、時折彼の情報が自然と耳に入ってくるらしい。
 彩羽が“また”と口にしたのは、加那太と百合菜は社会人になってからすぐに別れたからだ。今の話は、そのあとに出来た恋人のことだろう。
 私は食後に注文したアイスティーの氷をストローでくるくるとかき混ぜながら「ふぅん」と軽く相槌を打った。
 ちなみに私が加那太と会ったのはフレンチレストランで食事をした日が最後で、以降連絡は一度も取っていない。

「今回はなんで別れたの?」
「それが……彼女にほかに好きな人ができて、加那太くんがフラれたみたい」

 百合菜との交際のときも、加那太がフラれたのだと噂で聞いた。
 ふたりになにがあったかは私にわかる由もないけれど、どうやらうまくはいかなかったようだ。

「ざまあみろだよ。冴実を都合のいい女扱いして傷つけたことを私はまだ許してないからね」
「ありがとう。でももう昔の話だよ。私も幼かったから」
「やりたいだけだったのよ。だからって、彼女の友達に手を出すなんて最低だわ」

 恋愛は自分ひとりががんばってもダメだと、私は加那太と付き合って思い知った。
 見たくないものに蓋をして気付かないフリをすると、いずれ限界が来ることも。
 あのとき冷静でいられたら、最初から加那太が私に本気ではないと感じ取れていたかもしれないし、二股にも気付けていたかもしれない。

 一般的に男性が浮気をする理由は、寂しさとか彼女からの愛情表現不足もあるけれど、結局は相手に不満があるからなのだとこの前読んだ雑誌に書いてあった。
 加那太もキスより先に進まなかった私に対して不満が募っていたのだろう。

 そんなふうに考えを巡らせていると、テーブルに置いていたスマホがメッセージの着信を告げた。
 画面に表示された“神谷朝陽”の名前を目にした途端、自動的に鼓動が速まっていく。

 『今日は家族で外で食事をした。懐石料理だったんだけど、じいさんが今度は君と一緒に来たいって言ってたよ』

 メッセージにそう書かれていたので、『お疲れ様です。私も今日は友人と食事をしていました。家に帰ったら祖父を通じて話があるかもしれないですね』と返信の文章を打ち込む。

「ねぇ、冴実……彼氏できた?」

 正面に座る彩羽からニヤニヤとした笑みを向けられ、私はあわててブンブンと首を横に振る。

「できてないよ!」
「じゃあ今のは誰? すごくときめいてるみたいだけど?」
「そ、そんなことは……」
「顔が真っ赤」

 指摘をされてすぐに頬に手を当ててみたら驚くほど熱くなっていて、あわててパタパタと両手で顔に風を送る。
 自分がこれほど正直に顔に出るタイプだとは今まで思っていなかった。

「彼氏じゃないとしても、冴実に好きな人ができてよかった」

 ホッとしたとばかりに微笑みながら胸をなでおろす彩羽を見て、私もクスリと笑みをこぼす。
 彼女は加那太にフラれて傷心したままの私をずっと案じてくれていたのだろう。

「ところでどこで知り合ったの? 会社の人?」
「そうなんだけど……実はね、社長なんだ」
「え! あのイケメン社長?」

 私が入社する前、神谷社長がインタビューを受けて掲載されたビジネス雑誌を彩羽に見せたことがある。
 雑誌の写真がとてもイケメンに写っていたから、彼女の頭の中にも強く印象に残っていたようだ。
 私は彩羽に、どうして社長とメッセージのやり取りをする関係になったのか、祖父同士が以前から友人だったことも含めてすべて話して聞かせた。

「意外なところに縁って落ちているものなんだね」

 腕組みをしながら感心したように聞き入る彩羽に対し、私は首をかしげた。

「縁があったって、私には手が届かない人だから……無理だよね」
「冴実が勇気を出して手を伸ばそうとしていないだけで、届くかもしれないよ。というか、もう好きになってるんじゃないの?」

 彩羽にそう言われ、私は社長を本気で好きにならないようにずっと気持ちを抑えていたけれど、すでに手遅れになっていると気付いた。
 社長からのメッセージひとつで胸が躍る。うれしくてたまらないのは、恋をしているからだ。

「全力で恋をするのが怖いの。私には軽い恋愛は無理だから、付き合ったら一生懸命になっちゃうし」

 私は加那太との恋愛がトラウマになり、それからずっと新しい恋をしようとは思えなかった。
 また誰かを好きなって、ひとりで空回りしてしまわないかと恐れる気持ちが強い。

「冴実はさ、全力になる相手を間違えただけだよ。一途なのは悪いことじゃない」
「そう言ってもらえると救われる」
「臆病にならずに、自分の気持ちに正直になってほしい」

 彩羽の言葉に苦笑いしながらうなずく。よく考え、しっかりと自分の気持ちと向き合おうと思った。

<第4話 https://note.com/wakaba_natsume/n/n5395412532d0

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