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見つめていたい昼

数日ぶりに、時間のゆとりができた。

自分よりも忙しい人はいくらでもいるのだけど、自分の時間の過ごし方は自分にしか感じられない。ここのところ、私はゆとりをつくれずにいた。

何をしようか。やりたいことはたくさんある。やろうと思いつつできていなかったこともたくさんある。

こういう日のはじまりはうきうきとするばかりで、結局やろうとしたことの3分の1もできずに終わってしまう。

だから、一番やりたいことからやってみよう。そう思い、玄関の物入れをひらいた。




靴の手入れをするのが好きだ。

ふだん私が履いている靴は4足で、どれも革靴。本当は革に負担をかけてしまうので雨の日は控えたほうがいい。そうわかってはいるものの、歩きやすいのでつい大雨の日でも履いてしまう。ごめんと思いつつ、水に濡れたあとのケアは忘れないようにしている。

ときどき軽くブラシをかけるが、きちんとした手入れは2か月に1回くらい。やりすぎも靴を傷めてしまう。


ささっとブラシをかけ、乾いた布に植物性のオイルクリームをとった。むらのないように薄く延ばし、靴になじませていく。

自分が履いている靴なのに、近頃その表情をあまり見ていなかったことに気づく。こんなところにこんなしわができていたんだ、ここにこんな傷あったかな、と見つめながら手入れをする。この時間が好きだ。



先日参加した『Momoを感じる―その0 モモと出会う』というワークショップで、面白い問いがあった。

「もし自分だけに1時間与えられたら、何をしますか?」

公園をのんびり散歩したい。おいしいコーヒーを飲みたい。眠りたい。

人それぞれの答えで、興味深い。「日頃なかなかできないので」という言葉を添える人が多かった。

赤い靴の手入れをしながら、自分の言葉を思い出す。

家族や友人の顔を、じっくり見つめたいです。

問いの前提条件は、「自分だけが動ける1時間だとしたら」だった。ドラマや映画でときどきある、自分以外の人間の時が止まる設定。だから誰かと食事をしたり、一緒に仕事をしたりはできない。



毎日顔を合わせている人でも、その顔をじっくり見ることなどない。見ているのはどんな服を着ているか、体調が良さそうかどうかくらいだ。それすらも数日経つうちに忘れてしまう。

だから私は、親しい人たちの顔をじっくり見る1時間がほしい。だれにもじゃまされず、その人にも恥じらわせず、ただ見つめるだけ。絵画や彫刻を眺めるかのように、さまざまな角度から見つめたい。

刻まれたしわもしみも輪郭も、その人がその身体で生きてきた証だ。微細な表情を宿すのも、その顔だ。その身体と接しながら一緒にいるというのに、私はあまりにも見ていない。ことりとマグカップを置く所作は見ても、その手にある小さな傷を見ていない。


もし私の目が見えなかったら、きっと耳を使って見つめるのだろう。もし耳もきこえなかったら、手で見つめるのだろう。もし手もなかったら、足もなかったら、何もなかったら、私はどのようにその人を見つめるのだろう。


見つめる、という行為が好きだ。それはいつまでも驚きに満ちているから。知った気にならずに済むから。見つめても見つめても、見ていない部分が見えてくるから。


手が届く範囲のものから、目をそらさずにいたい。見つめることをしなくなると、何も見えなくなる。何も見えないのに、すべてを知った気になる。それは楽しいことではない。


見つめる時間は、私をわずかに変えてくれる。その楽しさと果てしなさを、私は日々味わっていたい。










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