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肯定して、手放せるか。

日々、悩みや迷いは尽きない。

生死に関わることはなくても、よりよくなりたいという気持ちがあれば悩むし、迷う。

そんなときたいてい悩みのもとになるのは、「これまでの経験」だったりする。

「普通に」生きてきた

今の職場に入った時、嬉しかった言葉がある。

いろいろなことを経験してきたんだね。

現在25歳。経験なんて、多くない。社会人何年め、という言い方ならまだ片手で数えられる。

優しさに溢れた家庭で育ち、やりたいことをやり、何不自由なく成人した。波乱はなく、普通に人を好きになったり嫌いになったりした。

働き始めてからも、理不尽すぎる理不尽を経験することはなく、罵倒や暴力もなく、パワハラもセクハラもなく、少しの悩みで眠れないことはあっても、不眠症にはならなかった。

苦労した経験なんて、大してない。
そう思っていた。

それは環境に恵まれているというありがたさであり、裏を返せばうしろめたさでもあった。

虐待や貧困、いじめ、病気、借金、事件事故。

世間には、ほかにも一言では語れないさまざまな経験を乗り越えてきた人が大勢いる。

それに比べて自分はなんて「普通に」生きてきてしまったのだろう。何事もないというのは幸せなことだけれど、見方を変えれば、何事もないことが私の欠損のように思っていた。

恵まれているのに、困難に挑戦するようなこともしない。ぬくぬくとした自分が嫌だった。

「これまでの私」を想うことば

今の職場に入って1ヶ月ほど経った日。
2人で話していると、上司にあたるその人がふと言った。

…わかめちゃん、すごいね。
いろいろなことを経験してきたんだね。

最初は言われている意味がわからなかった。

でも、こう続けてくれた。

わかめちゃんと話していると、わかるよ。
きっといろんな人と関わって、経験してきたことがあるんだろうなって。

普段自分について言われることで、私がハッとすることはほとんどない。

良いところも悪いところもわりとわかっているつもりだった。変えたいと思うところをなかなか変えられなくて、ぐるぐる考え続けることもあった。

でも人から「これまでの私」に想いを馳せてくれる言葉は、もらったことがなかった。
だから驚いた。

それは、「目の前の私」を評価する言葉ではなかった。目の前の私に至るまでの、これまでの私を想うことばだった。

浮かびあがる自分

なんという気持ちなのだろう。

自分でも気付いていなかったこと。それは自分にもさまざまな経験があるということだった。

いじめられている子がいるのが嫌で、一緒にいるようにしたら陰口を聞こえるように言われたこと。それが自分の仲良しの子だったこと。

そこから、同性集団に苦手意識があること。女性が集まる場所に、息苦しさを覚えること。

人を決めつける物言いをする人が、苦手なこと。その人から見た景色も知ろうとせずに、簡単に評価を下す人が嫌いなこと。

それでも、仕事だったらそういう人ともうまく付き合わないといけないこと。
自分が正しいと盲信せず、相手が何を見ているか、何を大切にしているかを探ること。それに対して自分は何ができるかを考え行動すること。

きっと私は、たいていは喉元を過ぎれば忘れてしまうのだろう。

それでも上司がくれた言葉で、いまの私をつくっている経験の数々を思い出すことができた。

派手じゃない。特殊じゃない。
けれど確実に私が出会ってきたものや人。
そのとき感じて、行動してきたこと。
それらは「経験」と言っていいものだった。

肯定して、手放せるか。

悩むとき、迷うとき。
目の前の事柄に悩むというよりも、これまでの自分の経験をもとに考えるから葛藤が生まれるのではないかと思う。

だって、これはこういうものだから。
こうしたら、うまくいくはずだから。

経験値という言葉があるように、経験を活かそうとすることは大切だ。

でもきっとこれから、経験を「手放す」必要もあるだろう。

これまでの経験を否定するのではなく、肯定したうえで手放すこと。しがみつかず、軽やかに乗り越えること。

しがみつかずとも、経験は必ず人の一部になっている。その人が意識していなくても、人に伝わることもある。

だから安心して手放していい。
そのままの形で活かさなくても、必ず活きる。

これまでを肯定して信頼して、手放そう。

そう思える私は今、前に進める気がしている。









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