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やっぱり好きだった。


おそろしいnoteを書いたことがある。

公開告白大作戦。

いや作戦でもなんでもなく、「ラブレター書いて渡しました」という話の後日談なのだが、なんだかこう、今読み返すと恐ろしくなる。

「『素敵』しか言えない理由」という投稿を少し前にしたのだが、今のわたしは上の大作戦noteを思い返すと「こわい」しか言えない。

しかし今、私はもっとこわいことをしようとしているのだ。

拝啓2ヶ月前のわたしへ

上の「『好きです』と手紙を書いたこと」について、私がまったくの第三者目線で書評を書くと、こうなる。ちなみに優しい人だった場合。

淡々とした文体の奥に秘める思いを、隠さず丁寧に見つめようとする姿勢に、我々の「好き」という感情がもつ不思議さを垣間見た。

適当さ爆発の例だが、次は拝啓12月23日の私へ2月26日の私から送る言葉である。

自らが抱く感情に都合のいい上っ面ドレスを着せて、相手に嫌われないよう適度に正直なふりをしながらもその下に残るニキビがまったく隠せていない勘違い青春ポエム。

はいさようなら。

天堂先生の声が蘇る。知らない方は「恋はつづくよどこまでも」を最初からご覧ください。

「文章たくさん書いてるねえ」「noteよく書いてるねえ」と初孫を見るように愛でていただける私だが、今日は「文章を書くことはできても、ほんとの気持ちを言えないことあります」というスピーチをさせていただきたい。

勇気0%だっただけ

2ヶ月前の私は「恋愛の好きかどうかわからないけど、この気持ちを伝えたくなったから手紙書いた」というようなことを書いている。

実際、手紙に「私と付き合ってください」のようなことは書いていない。ただ、その人のどんなところが好きか、ひとつ書いただけ。相手に何か決断を求めるようなことをしていない(たぶん)。

ほほう。今読むと、言い訳にしか見えない。

深く息を吸って、にっこり笑って言うならば、

「引かれるのが怖かっただけでしょ!」である。言い訳くささを通り越して、痛々しい。

でもこの時は確かにそうだったのだ。付き合ってくださいとお願いするほどの気持ちかどうか、自分では説明できないなと思っていて、説明できないのにそれを願い出ていいもんだろうか…と誰も気にしてない心配を一生懸命していたのである。

ただ、今はわかる。それ以上にただの小心者だったということ。勇気がないだけだったこと。

受け入れられず相手から距離を置かれたり、もうコンタクトを取れなくなることが嫌だったこと。

関係性ゼロになるのが怖くて、それを避けたくて曖昧で珍妙な手紙を渡してしまった。

よく考えたらおかしいフロー

「好き」と感じてからの私の思考フローは、よくみるとおかしい。

「好きだな」→「どういう好きかしら」→「恋愛感情かどうかわからないや…」→「でも伝えたいな(引かれるのは嫌)」→「ちょっといいかんじの手紙書いてみるか」

工程が多すぎる。そして書いた手紙は、ちっともいいかんじではない。

「好き」なら「好き」でいいではないか。もっと近づきたいなら「付き合ってくれませんか」でいいではないか。シンプル。シンプルに。

どうも、一般的な台詞というものへの猜疑心が強すぎる。「つきあう」とか「こい」とかに対して。

でもこれまで自分を好きになってくれた人との付き合い始めを思い出すと、大体シンプルだった。

パートナーがいるかいないかの確認はされても「あおやぎのことを恋愛感情で好きかどうかは実はよくわからないんだけど、でも好きでね」ってもし私が言われたら、ミステリーでしかない。

どうして、自分がされたら謎に思うことを、人にしたのだ。よく考えればわかることなのに。

2ヶ月前の私に言いたい。

君はあの時、いわゆる厨二病だった(どうして“厨”という漢字を使うのかよく知らない)。

今もさして変わらない。言うなれば厨二.五病くらいだ。でもすこしアップデートされている。

0.5アップデートされた私は、君に1つ言っておこう。

手紙を渡した、その人のこと。

まちがいなく「好き」なんですよ。


ぼやけていても伝える勇気

私のnoteは基本的に通勤電車で書いている。降りる駅が近づいてくると「はっ、どうしよう書き終わらない」と焦り始める。

今日は最初からまとまらない気がしていたので逃げの王手「“前編”を添えておく」を行使しようと思っていたが、案外終わりそうだ。

結局わたしは2ヶ月前の恥ずかしい自分を引っ張り出して、何がしたかったのだろう。

序論を考えている気分だが、論文にたとえるなんてすべての研究者に殴られそうだ。

でもたぶん、今のわたしが思うことはこれ。

解像度、上げすぎなくていい時もあるよ。

自分の気持ちを深く見つめることが善だと考えていた。善というより、生きやすくなる秘訣だと。でもそれがいつも正解とは限らない。

まだまだ自分の解像度、相手の解像度、ぼやけてばかり。ぼやかしていたい時もあるけれど、ちょうどこの土日で私がやっていきたいことが見えてきたので、この「解像度」を鍵に次の投稿を発信したいと思う。

先の(厨二の)noteでこんなふうにしめくくっているが、二.五のわたしとしてはこうだ。

解像度あげようとしてるうちに失うものもある。強い気持ちはそのまま、素直に出してもいい。

自分だけの話なら、がんばって解像度を上げればいい。

でも、もし相手がいるなら。その人に伝えたい気持ちがあるなら。『伝えて嫌われたらどうしよう』と保身に走るあまり、フォーカスするポイントを間違えるかもしれない。

「う〜ん、これは恋愛の好きなのか?付き合いたいの好きなのか?」と悠長に回り道をしたり。

それで後悔が残るなら、ぼやけていても伝えてみるという勇気を出そう。

たぶん相当かっこ悪いけれど、もともとかっこよくはないので大して変わらない。

心に線は引けないからね。

小石川先生の言葉が蘇る。知らない方は「恋はつづくよどこまでも」を最初からご覧ください。

なんかこう、毎日書いている静かなnoteとはだいぶテイストが変わってしまったが、これも私なのだと言い聞かせて、投稿しようと思う。

このnoteがお手紙の人に読まれるかどうかは、わからない。

たぶんタイトルを見ていやな予感がして、読まないのではないかと思う。

欲を言うなら、これからも時々会えますように。


【さっそく追記】
一緒に何かに取り組んだこともないし、全人格を理解しているのかというとまったく理解してないし、考えてることもわからないし、根拠を求めるならとても薄い状態だけれど、それでも「好き」と言っていいんじゃないか。
解像度なんてしらない。

そんな気持ちで書きました。







読んでくださってありがとうございます!