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わかっていた夕方

今日は話しすぎたかもしれない。別れたばかりの友人の顔を思いうかべながら、自分の足元をみる。

いつもはどちらかというと、話をきいているほうだ。彼女の話題は、私の生活や関心事と重ならないものが多い。重ならないけれど、それゆえにお互い新鮮味を感じていると思う。


じっくり相手の話をきいてさえいれば、くだらないことを言わなくて済む。余計なことや、言っても言わなくても同じようなことを、その時間という水瓶に落とさなくて済む。


しかしどれだけこの口が動いていても、ふっとむなしくなることがある。今日はそのむなしさがゆらりとやってきた。

話しすぎたからなのか、むなしいから話しすぎるのか、わからない。


あたたかい陽光をあびて歩く、見慣れた道。その心地よさにそぐわないようなむなしさが、一滴一滴、水瓶を満たしていく。

どれだけ言葉にしても、想いは形になんてならない。想いは想いのままだ。言葉にはなっても、形にはならない。水瓶を満たすのは、そんなむなしさだと思った。

むなしく言葉ばかりつくる自分が、今日はどうしようもなく嫌だった。嫌だけれど、今夜も言葉をつくるし、明日も明後日も、きっと言葉をつくる自分から逃れられないのだろう。


そしてむなしいと言いながら、私はいま本を鞄に入れ忘れたことを惜しく思っているのだ。他人の言葉、小さな四角い世界に入っている言葉は、別物らしい。


言葉をもって生まれてきてしまった。その時からずっと、いつかこの不思議なものは、むなしさもあかるさも感じさせるだろうとわかっていた気がする。



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