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対話をとおして見えるもの~「アートの探索遠足」ゆる感想~

1か月ほど前、臼井隆志さんの対話型アート鑑賞イベント、「アートの探索遠足」に参加しました。オンライン開催で、私はたぶん3回目だったと思います。

上記の臼井さんのnoteでは、3人1組でおこなう「ブラインド・トーク」の具体的な実施方法、やってみることにした背景が書かれています。無料部分ということもあり、以下抜粋です。

ブラインド・トークとは、絵を見ている人が、絵を見ていない人に対して、その絵に描かれたものを言葉だけで伝える活動です。絵を見ていない人の頭のなかに言葉を通して絵を描く活動でもあると言えます。

今回は絵を見ている人が2人、見ない人が1人という分担なので、絵を見ている人同士の気づきも多々挙がっていました。簡単ですが、私の感じたこともメモしておこうと思います。

「感じたこと」と「解釈」の乖離

臼井さんが「面白かった事例」とあげている話は、私のいたグループで起きたことです。客観的な事実(FACT)ではなく、解釈(TRUTH)を伝える説明役だった私は、作品を見て言いました。

真ん中から上のほうは光があるかんじで、神聖…sacredな感じがします。

これを聞いたIMAGE役(目を閉じていて、絵を見ていない人)は、事実役(FACT)の人が言っていた「白」という情報に加えて、黄色など高明度(かつおそらく高彩度)の色味がたくさんあると想像したそうです。

実際の作品は全体がほとんど白色の世界なので、私の「神聖な」という言葉が、IMAGE役の方の想像をちょっとちがう方向へ導いてしまったといえます。

とはいえ、絵を見た後で「想像した世界のほうが好き!」とおっしゃっていたのが面白く、それなら「神聖な」と言ったのも悪くなかったかな…などと思ったりもしました。

このシーンを後から思い出してみて、感じることがあります。

私は、「感じたこと」と「解釈」の区別がついていないのではないか。

「IMAGE役の人にできるだけ正確に作品を伝えること」が目的であれば、解釈役(TRUTH)は自分の説明表現を何度か調整することが必要だと思います。

ほかのグループでやっていたこととして挙がった「事実役と解釈役の交流(打ち合わせまではいかない、認識の確認のようなもの)」はその点にも役立つのではないでしょうか。解釈役が1人で調整するのはなかなか難しそうです。

自分の説明を振り返ってみると、「こう感じるな」と湧いてきた言葉をそのまま伝えていたように思います。しかし先の「神聖な」の話をふまえると、「こう感じるけれど、伝え方はこうしたほうがいいかも」というような、アウトプット時の加工、調整があるとよいのかもしれません。

「解釈」を伝えようとすると「感じたことを、自分はどのような言葉で言い表そうとしているか」を考えることになります。

私の場合は、後から「自分が絵を観て感じたことと、『神聖な』という言葉には乖離があったかもしれない」と気づきました。「本当に『神聖な感じ』って思ったのだろうか?どこか説明を妥協していなかっただろうか?」という疑いの目で見てみる感覚です。

日頃のコミュニケーションでもよくあることですが、相手が感じたギャップから気づくことがいろいろあります。

「○○ってこういうことだと思ったよ」という、自分からは見えない景色を教えてもらえること。これによって自分側の景色を再認識しやすくなります。

「自分の解釈は、自分ならわかっている」というのは錯覚で、感じたことと解釈は乖離している可能性がある。そう自覚して臨んでみたら、またちがうブラインド・トークができるかもしれないなと感じました。

事実の無力さ

もうひとつ感じたのが、「事実の無力さ」です。

無力というとネガティブに聞こえてしまうかもしれませんが、自分としては力の抜けた、ニュートラルな気持ちでとらえています。

事実役(FACT)だったとき、描かれているものを漏れのないように伝えようとしました。でもその後に解釈役(TRUTH)の方が発した言葉がとてもわかりやすくて、「ああ、そうだそうだ」と自分も「見えていなかったもの」に気づかされたのが印象的です。

そのとき「事実って、ある程度は使えるけれど、ある程度は無力なんだな」と感じました。事実だと思ったことをたとえ漏れなく伝えたとしても、きっと何か足りないのです。

筒があります。その上に丸があります。その上に三角形があります。

たとえばこれが、ある物を示す事実だとします。

どれくらいの寸法で、ぴったりくっついてるのか距離があるのか、といった補足情報も加えたとして、何かわかるでしょうか。私なら、言われた情報しか想像できないと思います。

でももし、違う人(解釈役)がこう続けたらどうでしょうか。

おでんみたいなかんじだよ!ちくわ、大根、こんにゃくの順ね。

ああ、おでんか…!とイメージが湧くと同時に、聞き手は言われていないほかの情報も想像するかもしれません。

おでんみたいってことは、もしかして食卓?それとも寄りの構図なのかな?でも事実役の人がおでんと言わなかったってことは、もっと機械っぽい感じ?なにかのパーツなのだろうか。

聞き手が能動的に考え始める、そのきっかけを与えるのが解釈役なのではないでしょうか。事実は完璧な存在ではなく、解釈に助けられる存在なのではないかと思うのです。

不思議だと思うことを、不思議だと言えること

簡単にメモ…と言いつつ、うまくはまとめられませんでした。

「アートの探索遠足」はとても面白くて、それは臼井さんのファシリテーションのおかげであるのはもちろん、ご参加者が魅力的であるのも理由のひとつだと感じています。

気を抜くと、わかったふりをしてしまいそうになるのが大人です。変だな、不思議だなと思っても、なかなか言えない。でもあの場で一緒にワークを体験する方々は、「不思議だと思うことを、不思議だと言える」方ばかりのように思います。

お仕事などでアートやワークショップ、ファシリテーションに携わっている方が多いのもあると思いますが、安心して「不思議だ」と言える、穏やかな知的好奇心に満ちた場です。

オンライン版にしか参加したことがないですが、いつか対面の場も開催されたら、そちらにも参加したく思っています。

ゆるゆるっとした感想、お読みいただきありがとうございました。














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