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『ゴジラ-1.0』主人公の苦悩の原因とは?



マイゴジ、観てきました。
一度きりの鑑賞なので間違った記憶もあると思いますが、最初の印象を
忘れないようにまとめておきます。

完全にネタバレしてますのでご注意ください。

私が一番に関心を持ったのは主人公と、その結末についてです。
主人公、敷島浩一 (演:神木隆之介)は、なぜあれほど苦しむことになったの
でしょうか。

作中、彼には大きな悔恨があります。
「特攻」「発砲」「結婚」
これらの3つの失敗を経て、クライマックスの決断へと続いていきます。
そして、その判断は果たして間違っていなかっただろうか、と私に問いかけます。

敷島は二面性のある人物

私が思うに、実は彼、相当気が強い。
演じる神木さんが、とても穏和な雰囲気を持っているため一見すると
敷島もそう感じてしまうが、作中の描写をみると意外と我が強い。

知り合って間もない大石典子 (演:浜辺美波) に「バカなんですか!」と言って説教したり
小僧こと水島四郎 (演:山田裕貴) が「もっと戦争が続いてたら…」とうそぶくと、胸倉を掴んで「本気で言ってるのか!」と凄む。

一方で、隣人に怒りをぶつけられても言い返さなかったり、赤ん坊を見捨てなかったり、責任感と優しさも持ち合わせた人物であることがわかります。

つまり
「自分の我を通す、誰かの言いなりなんかならない」
という部分と
「人を幸せにしたい、責務をまっとうしよう」
という両極端な部分が混在している人物です。

敷島を呪う三つの悔恨


物語冒頭、彼は特攻から逃げ大戸島へとやってきます。
特攻から逃げたのは、単純に"死にたくない" というだけでなく、
「なんで誰かの命令で死ななきゃいけないんだ?納得できない」
という気持ちが捨てきれなかったからだと思いました。
一つ目の悔恨「特攻」です。

その後、現れたゴジラに対して発砲できなかったのも、”撃て”と命令されたから。
二つ目の悔恨「発砲」。

ヒロインの典子と結婚しようと言い出さないのは、「幸せになっちゃいけない」と考えたこと以上に、流されることを恐れたからな気がします。
幸せになっちゃいけない人が新築なんかしませんもの。
あるいは夫や父という役割を押し付けられるのが嫌だったからかもしれません。

だけど、それでも典子に対しては、”それでもいいかな”と思い始める。
だから「もう一度生きてもいいですか」という独白がある。
でも、典子が銀座で働くとか言いはじめて動揺。
やっぱ、どうしよう…

とか迷っているうちにゴジラが銀座を強襲。
典子は敷島を庇って死んでしまいます。
三つ目の悔恨「結婚」。


自分で決めたことは迷わない


映画終盤、ゴジラを倒すための『海神作戦』が立案されます。
そこで敷島は「それで本当に殺せるのか!」と凄みます。
海神作戦以外に有効な策がないことは、そこにいる全員(視聴者までも!)
がわかりきっているのに、納得しません。
学者こと野田健治 (演:吉岡秀隆)に必死に説得され、表面上は納得しますが、実はこっそり特攻の準備を進めていました。

特攻を決めてからの敷島は、すごい熱量で準備を進めていきます。
これは自分で考えた計画だからです。

思い返せば、典子の反対を押し切って機雷撤去の仕事を決めたのも、
舟の機銃を撃つのも、誰かに命令されてないことはノリノリでやっていました。

そして、ついに元航空隊整備部の橘宗作 ( 演:青木崇高)の助けを借り、戦中に試作された『震電』という戦闘機を飛ばせるようにします。

で、最後の最後に「生きろ」と言われた。
敷島は橘に「まだ生きたいみたいです…」と漏らす。
すると、橘は彼に生きろ、と伝えるのです。
彼に許されたことで、特攻への強迫観念が解かれ…た… ?

パラシュートがあれば使う…?


いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!!!
これまでの敷島を見ていれば、絶対特攻してたはずよ!
変なプライドのせいで悔恨を生んだから捨てることにしました、とか?
いやもうそういう矜持とか合理性とかの話じゃなくなってるのよ。

だって、彼にはもう生きる理由がない!
アキコがいるが、どうも可愛がっているようには見えなかった。
父ちゃんと呼ばせないし、決戦の日は一人残して出てっちゃうし。
敷島にとって、アキコは生きる理由にならないのよ。辛いけど。

「典子の後を追って死のう、それで特攻隊員としての責務も、仲間たちへの贖罪もできる!」

もうすでに三つの悔恨を背負っている敷島。もう逃げちゃダメだ (庵野)。
ここは揺るがない気がするのです。私が納得できません。

しかし!
実際どうして彼が生きることを選んだのか、明確に描かれていない。
なにかとってつけたような理由の描写があってもいいはずなのに。
描かないということは、理由が絶対にあります。

不自然な海神作戦の描き方

海神作戦のシークエンスはちょっと変だ。
この映画それまで敷島の主観で物語を紡いてきたのに、いざ作戦がはじまるとほとんど彼は出てこなくなる。

もちろん、作戦中彼は空の上で、何もすることはないから出番が減るのは
わかる。でも、その様子をみて反応するカットが入ったりしてもいいのに
ほとんどない。

私は思った、ここが最後の生存した理由だと。

このシークエンスにおいて彼は、我々視聴者と同じ立場でこの戦いをみているのだ。
自分すらも俯瞰で。

この先の日本を生きる価値があるかどうか、じゃない。

この作戦を経て、敷島が生き残った姿が見たいかどうか。
それを戦いの中で見極めている。

視聴者の多くが、この流れ的に死んだらヤバイ空気で映画がおわっちゃう!
それだけはやめて!と思ったでしょ。

できることは最後までやる!民間の船も助けにきた。
絶望的な状況でも誰一人諦めず、大きな敵に立ち向かう。
しかし、ゴジラは強い!もうダメかもしれない…
そこに一機の戦闘機がやってきて特攻!
ゴジラを倒した!良かった… でも敷島は?
空をみろ!あぁ…生きてる。やつは生きることを諦めなかったんだ!
うおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!!!!

ってな感じで皆感動しましたよね。
この流れは…よし、生きねば!となったので敷島は脱出したわけだ。


ようはエンタメ。

急にメタ的な理由で主人公の行動が変化する。
それは商業映画では仕方のないことだ。

エンタメが故に地獄が待っている


しかし、この映画はそんなご都合主義で映画を終わらせるつもりはなかった。
死ぬのが怖くてまた逃げたこと、あるいはそのご都合主義のために延命されたこと。

そのツケは払わなければならない。

ラスト

典子の不気味な痣。
海中で脈打つゴジラの巨大な心臓。

敷島が "生きたい”という誘惑に負けて人のいいなりになってしまったというラストであったのなら、最後にゴジラが生きていたのは道理だ。

敷島にとってのゴジラは、自分で決断できなかった過去の象徴なのだ。


故にメタ的な視点でみれば


あの映画はまだ終わってない。


エンドロール

足音

1954年 公開 『ゴジラ』

つづく

凄い映画だと思いました。

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命令されたもの

特攻 ☓
機銃 ☓
赤子 ○(典子関連)
同居 ○(典子関連)
仕事 自発的にはじめた
結婚 ☓(無言圧力)
作戦 ☓
生存 ○(???)

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