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意識の進化 × ニューノーマル|オンラインでの仕事やコミュニケーションのこれから

「宇宙視点からの意識の進化プロジェクト」では、「意識の進化×○○」シリーズと題して、いま問われている人の意識の在り方、そのアップデートについて様々な角度から探求し、対話をお届けしています。第1回目は「意識の進化×ニューノーマル」をテーマに、代表取締役社長・島村仗志(ジョージ)、CFO・山田希(のぞみーる)と、CTIジャパンのトレーナーを務める山田博(ひろし)の3人で語り合いました。

※本記事内に登場する人物の所属・役職等は動画撮影当時のものです。

~本日のテーマ~

山田博:今日はこのシリーズの1回目ですので、今、まさに聞かない日はないくらい話題の「ニューノーマル」を取り上げて、「意識の進化×ニューノーマル」をテーマに、思うところを話し合ってみようと思います。よろしくお願いします。

島村仗志・山田希:よろしくお願いします。

~コロナによる変化~

山田(博):「ニューノーマル」という言葉が出てきている背景って、withコロナなどと言われ始め、いろんなものが変わって来たよね、ということがありますから、自分ごとや社会のことも含め、コロナによる影響、変化、その実感など、どんなふうに感じているか、というところから話してみましょうか。

島村:もう、本当に激変しましたよね、うちの売り上げも激減しましたけど(笑)。オフィスに行かなくなったことも、激変の1つです。わが社はのぞみーるの英断で、かなり早い段階から出社しなくてよい旨をオフィスメンバーに伝え、見事にリモートワーク体制に突入しましたよね。それは大きな変化だったなと思います。だから最近、オフィスのみんなに会っていなくて寂しいんだけど、元気にしているのかな。のぞみーる、そのへんはどうなの?皆さん、それぞれの持ち場で頑張ってくれているよね?

山田(希):そうですねえ、おそらく元気なんじゃないかな・・・。何でしょうね、「会っていないな」という感じがあります。在宅勤務に入って直後くらいのときは、まだ、実感があるんですよ。でも、もう3ヶ月会っていない人とかいるわけですよね。
画面上では、元気そうだなとか見ていますよ。でもなんか、細胞に記憶が残っていない感じ。実感値がないんですよね。視覚情報だけというか。本当に元気なのか?と言われたら、画面上では元気そうだったけど・・・みたいな。それを信じるならそうなんですけど、なんか記憶の残り方が違いますよね。

島村:確かにね。

山田(博):なるほど。今のおもしろいですね。細胞の記憶がなくなってくるっていう表現。視覚情報しかなくて、身体感覚が薄れていくような感じって、僕もこのオンライン・ミーティングをずっとやっていると、そういうことが起きるなって、ほんと思っているんですよ、最近。異次元の中で会話をしていて、しかも上半身しか見えない。どうなっているのか、と。

神経学や身体生理学などをやっている方に聞いたんですが、人間って、やっぱり全身に神経が張り巡らされているでしょう。だから本来は、全身の神経を使って周辺環境を把握しているわけですよね。安全なのか危険なのかとか、居心地良いのか悪いのかとか。これが、オンラインでは、全身を使って知覚することができなくなっているんですよ。

なので、視覚に、ものすごくかたよっているんですよね。全身で取っていた情報を、視覚だけ、そこにある神経系だけで取ろうとする。だからものすごく疲れるわけですよ、目のあたり全体が、疲弊というか。僕はずいぶん慣れて久しいので、あまり疲れていないですけど。よく、「いやあ、もう大変だ」と聞きますよね、オンラインでのミーティングが続くと。

山田(希):リアルでは、例えば、新しい人に会ったりすると、その人の身体の大きさとかからも感じる圧力みたいなものもあるじゃないですか。小さい人と大きい人の違いとか。あとは、握手したら、この人、なんか手に汗かいてるな、とかね。いろんな情報を受け取るじゃないですか。ああ、なんかこんな人かなあとか、近寄ると良い匂いがするな、とか。
オンラインだとそういうのが何もないから、その人の像を結ぶのが大変になってくる。

山田(博):そこの話ですねえ。それで困っているというか、体調を崩したり、気分が上下したりとかも、結構あるんじゃないかと思いますね、このリモートワークということでね。もちろんあと、単純に、さっきジョージが言ったように「寂しい」とかね。会えないっていう気持ち的な寂しさとか、物足りなさもありますよね。

島村:そうだねえ。

山田(希):人間にとって、「会う」とか「触れる」「集う」とかって、ものすごく根源的な欲求だというのも記事とかで見たりします。それが今はできない。命を守るために、会うことをやめるのか、でもこれを失っていくと、命そのものが失われる感じもちょっとあって。何なんだろうなあ。

山田(博):そうですねえ。このへんの話はぜひしてみたいですねえ。この命っていうものと、この動画シリーズのテーマである意識というもの、命と意識の関係性というのも、ぜひ、これから話してみたいけど。
他に何か、コロナがやってきて変わったことってありますか?

僕がちょっと今思いついたのは、家にいると、家族とすごく長い時間を過ごすことになったなと。ものすごい変化なんですよね。多くの人から聞くんですけど、やっぱり家族といろいろ話したり、何気ない日常、一緒にご飯食べて笑ったり、ゲームしたりでも、何でもいいんだけど、一緒に過ごすという時間が増えた。それって当たり前なんだけど、大事。自分の人生にとって、すごい大切な要素なんだなっていうことを改めて実感したっていう。

僕自身もそうですね、もう3ヶ月以上ほぼ家にいて。ずっと顔を合わせていますね。で、それによるいざこざもたくさん起きますけどね(笑)。それも含めて、何というのかな、これまで起きていなかった「やり取り」なんですよね。
そんなことをやっぱり実感していますよ、本当に。

島村:そうねえ、その「いざこざ」も「関わり」なんだよね。なんか大切なやり取りなんだねえ。ある意味、意識をちょっと違うところに置かないと、その「いざこざ」の中でも穏やかな気持ちでいられないっていうかね。
それも大事だよね、っていう視点でその「いざこざ」と一緒にいられると、穏やかな気持ちでいられるよね。

山田(博):そうだねえ。

島村:逆に、家にいて、通勤しなくなったっていうのは、自分の意識の状態にものすごく大きな影響があるなと思っている。やっぱりストレスだったんだなあ、ということが、なくなってみてわかる。これも、たぶん多くの方に共感いただけるんじゃないかなと思うけど。通勤は「日常」だったから、そんなに快適だとは思っていなかったけど、当たり前のものとして取り扱っていた、1つの時間の使い方だった。なくなってみて、なんて楽なのって思う。
通勤のあの時間と空間、満員電車というのはある種、異様な時空間なんだなあ、と改めて感じる。

まあそれも必要なものだし、今この世の中を支えて下さっている方々、通勤を余儀なくされている方々には本当に心から感謝、というのは外せないんですけど。その上で、自分にとっては、あの時間から解放されてるっていうのは、とっても大きな影響、ポジティブな影響を受けているなっていう感じは率直にありますね。

山田(博):同感ですね。個人としても、それってすごく実感あると思うんですけど、この社会全体として客観視してみたときに、そこに費やしている時間の総量とか、そこで使っているエネルギーの量とか、通勤、交通手段のためにかかっている電力とかのエネルギー総量って、膨大だなって思う。

昔々、みんなが歩いていた頃って、スピード感からして、今と全然違うじゃないですか。今はものすごいスピードで移動する。それは必要性の元に生まれてきてはいるんだけども。必要なところは今もね、もちろん必要ですよね。でも必要じゃないところまでやっちゃってるっていうのに気がついた。ここはなくてもいいんじゃないっていう、そういうことが区別できるようになってきたんじゃないかなって思うんですよ。社会っていうことで見たときには。

「当たり前」になっている時って、それが見えないと思うんですよね。ここがいらないんじゃないとかって、わかんないし。それが、まあ意識の話で言うと、「気づいちゃった」っていうか。

島村:ほんと、そう思う。だけど、今回はほんとに、急に変わったよね。それこそさっきの、命が大事っていうことで経済を止めたっていう、まあこれは結果として起きたことだと思うんだけど。当たり前が当たり前じゃなくなった、しかもこれだけ短期間に。当たり前がゴロリと変わったっていう体験は貴重だし、逆に言うと、だから、当たり前って何?って思う。

もともと、僕らは全部幻なんじゃないか、イリュージョンで生きているんじゃないか、と言ってたんだけど、実際、当たり前と思っていること自体も、疑ってかかった方がいい。結局、目の前で起きることっていうのは、全部幻だと思っていた方が、自由に構想できる。
要するに、既成概念とか常識を、いい意味で建設的に疑ってみるというチャンス、きっかけにしたいなと、希望的観測で言うと、そういうふうに思う。コロナのおかげって言うとちょっと語弊があるかもしれないけど。このできごとを最大限生かしたいな、っていう気はする。

~コロナウイルスをどう捉えるか?~

山田(博):コロナのおかげって思うことって、結構ありますよね。そもそも、そのコロナウイルスというものをどういうふうに捉えているか、っていうのも、人によってものすごく違うと思うんですよ。

多くの記事とか論調とかだと、やっぱりコロナウィルスを敵としてみなして駆逐する。戦いを挑んで、そして勝つ。そうすればまた日常が戻ってくるっていうストーリーがある。それってすごくわかりやすくて、これまでやってきたストーリーだと思うんですね。何か脅威がやってきたら、それを敵にして倒せば何とかなるんだ、生き延びるぞっていう。何ていうんですかね、こう僕らの中にセットされてしまっている、そういうストーリーが、まずドバーっと出てくるなというのをすごく見たんですよね。

だけど、それってキリがないなと思うんですよね。じゃあコロナウィルスの次がまた来たら、またそれに戦いを挑むっていう、果てしなき戦い。これ本当にキリがない。だから、戦いとか、敵として挑むんじゃなくて、何と言うんでしょう、お亡くなりになっている方もいる中で、言い方が難しいし安易には言えないんですが、でももう少し大きな目で見た時には、キリのない戦いじゃなくて、共存とまではいかないけど、一緒に生きている存在だよねっていう。いるんだよね、もうそこに、っていう。それとどうつき合うんですか?という発想でいった方がいいんじゃないかな、って思うんですよね。

僕は山伏ですけど、この間、山伏の先達と話したときにね、昔は疫病も神様にしていたと。だから疱瘡神社とかあるんですよね、天然痘の。その当時は科学がないからこれが細菌だとかウイルスだとかわかっていないのに、何かやって来たと。それを神様として受け入れて、一緒にお祀りをして、一緒に生きていかせて下さい、と。そういう精神性を持っていた。

これってすごいことだなと思ったんですよね。こうやって生きていく智慧っていうんですか、駆逐じゃなくて。そういうものを日本の中で培っていたっていうことを聞いて、なるほどな、と。まあそれに全て戻るわけにはいきませんけども、ちょっとそういう智慧も残していった方がいいし、これからどんどんそれをさらに使って行けるように、自分はそういうふうになっていきたいな、とすごく思っているんですよね。

山田(希):日本の妖怪って、一緒に棲む系が多いっていいますよね。違うところに住んでいない。出てきそう、出てくるっていう前提でいる。

島村:だから妖怪が出てきたら、何か用かい、って訊く。(笑)

山田(希)・(博):(苦笑)

島村:これは、すごく大切な、意識の持ち方という意味ですごいサジェストをいただいたなっていう気がする。

第一義的にはネガティブな影響を与える存在に対して、どういう姿勢で臨むかっていうことを、僕たちは今問われているんだと思うんだよね。古い話でいうと、進化論をどう位置づけるかということで、強いものが勝ち残ったという認識で捉えられていた時期から、いやいや、実は共存共栄で、お互いに生き残る術を、お互いのリソースを利用しながら変化してきた存在が生き残っているんだ、というようにシフトしてくるのとまったく同じ話で。

結局、イヤだというものに対して、イヤだ!とか、関係を絶つ、という姿勢でいればいるほど、たぶん、逆に生き残れない。来たもの拒まずで、じゃあどうやったら次のステージへ行けるかというふうに考える。大変なんだけど、でも、攻撃をし続ける限り、さっきひろしが言ってくれたように、終わりのない戦いになってしまう。だったら、一瞬、ちょっと違和感のあるものですら、一緒に次へ行こうよという姿勢でいる方が、実は遠くへ行けるんじゃないかって、そんな感じはするよね。とってもね。

~ニューノーマルについて思うこと~

山田(博):で、ずっとコロナの話をして来ているけど、今日の話には、ニューノーマルっていうのもあるじゃないですか。ニューノーマルって、なんかわかったようでわかんない言葉だなと思うんですよね。ニューは新しいだけど、ノーマルっていうのは日本語ではなんていうんですか?

山田(希):当たり前?

島村:日常?あとは常態。「新常態」って漢字が与えられているのを何かで見たな。

山田(希):ああ、なるほどね。

山田(博):どうですか、ニューノーマルということに対して、何か思うことなどありますか?

島村:僕はさっき、「全てが幻」って言ったけど、そう言うとこれまた語弊があるので、何ていうかな、全てが書き換え可能だ、っていうふうに捉えている。いい意味で、これまで当たり前だと思っていたことをゼロベースで考える、いいチャンスというふうに位置づけている。
だから、さっきの話も含めて、全ての前提が崩れて、ニューノーマルを受け身で受け取るというよりは、自分たちでニューノーマルをデザインできるというきっかけとして捉えているかな。

でも同時に、そのノーマルを誰かに押しつけるというよりは、一人ひとりが自分のニューノーマルをこれから自分らしくデザインしていく時代に突入する、そんなふうに見ているっていうか、感じている。

山田(博):僕は、ニューノーマルという言葉は、まだ自分の中でしっくりこない。そういう流行り言葉ってあるじゃないですか。流行語大賞もそうだけど。まだよくわからないうちにそれに乗っけられちゃうっていうの、よくあるじゃないですか。その言葉の中に、自分が含まれてしまう。もうそういうものだからね、っていうふうになって。それが自分ではわかってないんだけど、その空気の中で生きてしまうっていうのって、時代時代で、そういう言葉って作り出されてきたじゃないですか。新人類とか、ちょっと古いですけど。そう言われると、その世代ってまあそうだよね、ってなっちゃうし。

言葉ってすごい威力があるから、僕は今、そのニューノーマルっていうのには気をつけている。実態がないのに、言葉によって作り上げられる世界がもう現れつつあるなって思ってるんですよ。つまり、僕が、ああどうかなあと思うのは、ニューノーマルってニューが付いてる。だから新しくならないといけないっていう、なんか煽る感じというのが出てくると思うんですね。ニューノーマルに乗り遅れるな、みたいな。そういうものが、既にもう出てきていると思う。ニューノーマル時代はこうじゃなきゃね、みたいな。

これってすごく、人を行動に駆り立てるのにやりやすいやり方なんで、そういう使い方すると思うんですけど。しかもニューが付いてるからね。だから僕はすごくそれには、気をつけていますね。つまり、何ていうかな、常にニューなんですよ。生きてるってことは、常に新しいことが起きてるってだけじゃないかな、と。昨日と今日は同じじゃないし、今年と来年も違うし。常にニューが起きている中で生きているから、改めてニューって言わなくても毎日新しいって思うんですよ。

あと、さっき家族の話で言ったんだけど、自分にとって大切なものは何なのかということを、多くの人が考えるようになっているような気がするんです。本当に大事なものって何だっけ、と。通勤して会社に行くことだったのか。家族とゆっくりご飯を食べることなのか。これまで、そういうことに想いを馳せなかったのに、本当に大事なものは何だっけ、と考えられるスペースができた。そんな気がしてるんですよね、このコロナのおかげで。

大切なものって、人それぞれすごく違いがあると思うんですよ。多様で、人によってみんな違うという、本当の意味の多様性が現れる気がするんですね。みんながこうしてるからこうだよねっていうんじゃなくて。私にとってはこれが大事なんです、あなたはそれですか、あ、違うんですね、っていう。こういう時代、こういう流れが現れてくる。もうすでに現れていると思うんですけど。

例えば、今、移住する人が増えてますよね。しかもそれが、20代からもう始まってる。あと子育て世代も。以前は移住っていうと、リタイア後に別荘を買ってとかだったんだけど、今はもう、別荘地の代表的な所なんかも、問い合わせはほとんど20代~40代くらいの人らしい。これもやっぱり、「大事なこと」がわかったからじゃないかなと思うんです。東京で暮らすのが当たり前、え、ほんとにそうだっけ?みたいなね。そんな感じがしてますね。

山田(希):一か所に同じタイミングで集まらないと仕事ができないというのが、当たり前としてあって、でもそれが一気に崩れた。崩れたから疑問を抱けたんだろうなって思う。

山田(博):確かに。

山田(希):でも同時に、3ヶ月間、リモートワークをやってみて思うのは、一か所に同じ時間に集まることの意味も、余計にクローズアップされてきたこと。集まることだけに価値があるのではない一方、集まることの価値もあったなあ、と感じる。こっちの良いところ、あっちの良いところ、それを選べるようになってきた。選択肢が広がったのかなあという感じはありますね。

~リアルで集うことの価値とは?~

山田(博):それ、あるよね。我々は、コーチングのプログラムとか、組織変容とか、提供してます。それが、今、オンラインにみんな置き換わっていて、僕らもオンラインプログラムを作ってトライしていますね。コーチングにしたってリーダーシップのプログラムにしたって、オンラインでどんどんやってる。そうすると、お客さんから逆に、じゃあ、わざわざ集まってやることの価値って何なんですか?と訊かれるんですよ。当然ですよね、その疑問が出てくるのは。今、のぞみーるが言ったとおりで。

何ですかね、わざわざ集まってやる時にしかないものっていうのは。何なんだろうね?これもニューノーマルの中に含まれてると思うんだけど。

島村:それはたぶん、今日の冒頭でのぞみーるが言ってくれた細胞感覚かな。本来持っているアンテナが、どちらかというとクローズしている状態の中で、人同士が、その完全体というか、全存在同士が、同じ空間を共有することの尊さっていうのは、これからそれに言葉が与えられていくんだと思うけど、よりクローズアップされていくようになるなって思う。

でも、それも含めて、その前にひろしが提起してくれた2つのことの2つ目のこと、つまり、何が大切なのか、ということの判断が人によって変わってくるっていう、その一例になるんだろうね。つまり、会うことが大切だっていう人にとっては、とっても大切だし、いやいやオンラインで十分じゃないですか、という人にとっては、オンラインでO.K.ということになるから。それをお互いに尊重するという意識状態を、より育んでいく。

それが、その前にひろしが言ってくれた、「誰かが作ったニュー」を大前提としてそのとおりにしなきゃいけません、というのではなく、いや、私にとって大事なのはこれだから、これを大切に生活を設計していきます、っていう、そのことをニューノーマルと呼ぶ。私のニューノーマルはこれ、あなたのニューノーマルはこれ、と。

で、そのニューノーマル同士が、どういうふうに折り合いをつけていくかというのは、さっきの、自分とは違うものとどう向き合って行くかというのと同じことになる。そういう重ね合わせが、今から始まると捉えておくと、おもしろい時代が始まったよねっていう感じがする。そういう捉え方はなんかワクワクするな。

山田(博):ワクワクしますね。今の聴いていて、その細胞レベルとか、今話してもらっているようなことの原点というか、それを可能にしていくものって、身体じゃないかなって最近すごく思ってるんですよ。最近、身体知性というのにすごく興味や意識が自然と向いてるんですね、僕ね。なんでこんなに身体のことに意識が向くんだろうって思ってて。それっておそらく、この状況になってきた時に、生き物として、生命体として、自然と何か感じている、自分もその一人としてね。

今まで、この頭から上にある身体、そこには脳があって目があって、そこにすごい頼っていたなと思う。で、オンラインによってそれが加速されているわけですけども。そうなればなるほど、残りの身体どうなってるのって、身体の方から「いや、他のパーツもあるんですけどね」って声が来ているような気がして。

最近のいろんな生理学の研究なんかによると、心臓や小腸にも脳と同じような働きをする細胞があるというのも、もうわかってきている。そこではいろんな判断をしていて、それが脳の細胞と連携を取りながらいろんなものを察知して、人を動かしているらしい。そういうような研究も、もう進んでますよね。

日本も昔から、腹で決めるとか、「腹」の言葉多いんですよね。腹が立つ、腹に据えかねる、腹を決めるとか。腹を決めるなんて、要するに腹で判断してるってことなんですよね。そこは、小腸のガットというところですけど。そこで決めてるっていう感覚があったっていう、昔は。今も、ある人はいると思いますけど。腹黒いってのもあるけどね。(笑)

いずれにせよ、腹なんですよ。それを思い出して、取り戻して。脳の上だけで頑張る世界から統合に。ある種の分離の世界から、統合して全体性を取り戻しながら、全体の知恵をもってこの世界を生きようよ、みたいなね。そんなことを、身体が言ってるような気がする。
身体に意識が向いてならないわけですよ。身体というものがクローズアップされる時代に、これからになるんじゃないかなって、すごく思いますけどね。

山田(希):今って、すごく情報が溢れていて、画面から来る情報をワーッとキャッチして、オンラインだから、世界中の情報がここでバーッと見られてしまう。だから、起きていることをわかったような気になっちゃう感じがする。こういうことが起きているに違いないって。でも、それは自分の今持っているアンテナの幅とか長さとかに限定された世界なんだけど。それは別に対面で会ってもそうかもしれないけれど、オンラインだと、よけいにそこに限定が常時加わって来る。

だから自分の見ている世界というのが、もっと人と異なってくるのかもしれない。もしこれが続くのだとしたら。よけいに違ってきちゃうのかなと思う。

今までだったら、移動するとか、身体を使うとか、自分の身体の限度がある。ここまで働いたら疲れるな、とか。8時間歩いたらもうクタクタだな、とか。そういったことが、今はここに居ながらにしてできてしまう環境になると、実感がわからなくなる。

昔、私、カーテンを自分で縫ったことがあって。お金をかければポンとできてくるものを、自分で縫うとすごく時間がかかるんだなと思いました。今回、初めて手縫いマスクも作ったんですよ。あ、こんなに時間かかるんだ、みたいな。買えば100円にも満たないものなんですけど。

情報はとんでもない量が入ってきたとしても、やっぱり人間のできることって、実体にしていく力というのは限られている。そこを常に自分の中で知っておかないと、尺度が狂ってくる感じがあるなあと思いますね。

島村:その、時間の使い方という選択もあるし、身体のことで言うと、生き物としての自分の身体が一つあるよね。これはある種の生態系で、この生き物をどんな環境に置くかという選択ができる自由がある。だから移住の話もそういうことだと思う。空間と時間の使い方、あるいはそこへの溶け込み方が選択できる時代になっている。

例えば、その自分の身体という生き物を育んでいくときに、どういう環境が良いのか、というのを自分で選べるようになっている。さっきの何を大切にするかということにつながるけど、時間の使い方とか、カーテンを手で縫ってみようとか、マスクを作るとかも、1つの選択じゃないですか。マスクなんか地球環境を考えたら洗えるマスクの方が良いと言われているし。

僕は今密かにマイブームになんだけど、意識というのも、実は生き物なんだという捉え方を今ちょっと実験している。そうすると、この生き物を育んでいく、つまりこれが進化していった方が、いいかもしれないと思う。進化しなきゃいけないというより、進化したらおもしろいなという視点でね、この生き物を育んでいくために、この生き物(自分の意識)をどういう環境に置いておいたらいいのかっていう楽しみがある。それは結局、どれだけ穏やかな心でいられるかってことに繋がってきている。

何を言いたいかというと、身体とか意識とかを全部自分という小さなものに閉じ込めちゃうと、ある種窮屈になる。それをちょっと俯瞰して見られるようになると、おもしろいことが起きるっていうか、育て甲斐、育み甲斐があるもの、もしくは慈しみ甲斐があるものになる。そういうふうに捉えることに今、絶賛人体実験中って感じかな。そんなことを思い出しましたね、身体知の話から。

~意識とは何か?どんな風になっていくのか?~

山田(博):意識って何か、ってずっと僕らが探求してきていることですよね。意識ってそもそも何で、これからどんなふうになっていくのか。誰も知らない世界を探求しようとして、これをやっているわけです。今の話ってまさに、こうではないかっていう仮説の1つだよね。意識っていうのは生き物であって、それは自分一人のものではなく、実はもう少し客観的に見られるような存在かもしれない、という提言、提示って、これまでにないかも。

でも実は、それは、ユングの集合的無意識の話とかで言われていることかもしれない。人間の意識って全部繋がってるんだっていうのは、現象面だけ見るとそういうことってあるじゃないかと。誰も証明できないけど。シンクロニシティだったり、日本で言うと虫の報せみたいなのって、遠く離れているんだけど何か起きたんじゃないか、ということを察知できたり。そういうものっていうのは、古くからもうずっと使っていた能力というか、意識の使い方じゃないかなと思うんですよ。だから古くて新しい、新しくて古いというか。

僕自身は、これも一つの仮説、感覚的な仮説なんですけど、証明も全くされてませんけど、命っていうのはずーっと川のように流れてきたんじゃないかな、という気がするんですよ。ずーっと、始まって以来。

島村:へええ、おもしろい。

山田(博):で、その流れが続いている中に、その時々に形と肉体を持ったもの、動物も人間も草も木も全部そうなんですが、そういうものが流れ込んでいっているっていう。で、そこからまた命にもどっていく。命の大いなる流れに戻っていく。そういうような感じがなんかしてるんですよね。

それは、昨年、宇宙のことをずっと探求していた時に、宇宙って何だろうとか、天文学とか宇宙物理学とかの先生たちと話している時に、なんかそんなことを感じてたんですよ。そもそも、我々の意識はどこから来てどこへ行くのか?って思った時に、そんなことをイメージしていて。まあ天の川みたいなもんですよ。

で、その時に、さっきのジョージが言ってた話とちょっと近いかもしれないんですけど、我々の意識っていうのは川を流れている何か、水みたいなもので。例えば、川の水をすくって「これ俺の水だよ」と言ったとするじゃないですか。手のひらにあるうちは「俺の水だよ」って言えるけど、でも川の水に戻したらもう「俺の水」ではないじゃない。そんな感じのものじゃないかなって思ったりするんですよ。

今、こうなっちゃってるから「私」って思っているけど、そもそもどこから来たの、っていったら、もっと大きな流れの中からやって来ていて、それは、分離したことでいろんな弊害を生んでいるという話とも繋がっている。僕らの意識がそういうものと分離されていると。個体として独立してやっているという意識になればなるほど、現代に起きているさまざまな不都合がそこから生まれている感じもするんですよ。

それは「あなたと私は違う」というところから始まって、「隣の家とうちは違う」「隣の町とうちは違う」「国と国は違う」とやっていく中で、「違う」と戦いに繋がっていく。敵視する。あるいは、自分を守りたい、自分の持ち物を確保したい、それが争いを産むっていう。それは歴史上も出てきているよね。そういう分かれてしまっている意識状態っていうのが、なんか根源にある気がしていてね。

まあ言いたいことが何なのかはよくわかりませんけど。大いなる流れがあって、そことの繋がりの中で生きていくっていうのは、新しいなって。でも古い感じもするなっていう。

島村:ありがとう。なんかちょっと楽になるというか、僕も「宇宙視点からの意識の進化プロジェクト」を通じて、宇宙と自分を分けて考えてしまっていたことに気がついた。ふつうは、宇宙というものが自分とは別にあるって、分けて考えているじゃない。宇宙って、観測の対象で。

だけど、考えてみると、一つなんだと思っちゃった方が、自然かもしれない。昔の、ネイティブという人たちが自画像を描くと、ふつう、自画像って顔の形を描くんだけど、ネイティブの人たちは、空があって山があって太陽があって、野原があって、で、ぽつっと自分がいるという自画像になるらしい。

そうかああって、その話を聴いたときに、ほんとにこう目が見開いた体験を思い出すんだけど。大きな流れの一部でしかないんだよね。「でしかないんだ」って言って、小さくなる必要はないんだけど、でもなんかその感覚とさっきの身体知とか細胞の記憶とか、それらをこう矛盾せずに一緒に認識できた時に、何かスカーンと、次のステージを一緒に創っていけるのかなと思った、人類としてね。

コロナのこともそうだけど、一緒に生きていくと決めた瞬間に何か違うことが見えてくるような。あるいは、国と国の争いも、戦うのもいいけど、そうではなくて、今もっともスマートというか頭のいいリソースの使い方の常識からすると、力を合わせたら何ができるのか、の方を考える。あらゆるレイヤーでそれができたら、おもしろいことが起きるんだけどな、と思う。

山田(博):ほんと、その通りだね。

島村:ねー。まさにニューノーマルっていうのはそういう時代なんだっていうふうになったら素敵だなあって思うんだけどね。

山田(博):のぞみーる、どうですか?何か巡らせてる感じがするけど。

~未来はどうなっていくのか?~

山田(希):この未来がどうなっていくのかな、という意味でいうと、要するに、生命にとって自己同一性と言うのかな、これはどのように表現されていくのかなっていう感覚がある。

今だって、コロナが来て、免疫機能がどうとかいう話もある。免疫って自己同一性を保つための仕組みじゃないですか。つまり、自分と相手を完全に分けて、ある意味ちょっと敵ですよね、入ってきたらヤバイと。免疫機能が私たちの身体に内在していて、意識と繋がってそういう仕組みになっているんだとしたら、この意識が変わった時に、免疫とかそういうものはどうなるんだろう、そういうことをちょっと考えてました。

山田(博):いやあ、それは大いなる問いだねえ。

島村:おもしろいねえ。

山田(博):大いなる矛盾を孕んで僕らは生きていると思うんですよ。大いなる繋がりというのを話しながらも、身体は侵入者を排除しようと頑張っているわけですよね。この摂理というか、何かが働いているわけじゃないですか、我々が生きるということは。これ、人間だけじゃなくて動物たちも、草木も全部そうですよね。そうやって生き延びていくっていうことと、今話しているような、分離を超えて大いなる繋がりの中で社会を形作っていこうよとかといったことの矛盾。

そんな大きな話じゃなくても、例えば家の中でちょっとこれやめてくんないとか、親戚の中でどうしていこうか、とか。それも同じなんですよ。マネジメントどうするっていうのも同じ話ですよね。人と人がどうやって、繋がりの中で生きていくんですか、という問いだから。

さっきの身体の話に戻るけど、身体は、コロナが入ってきたらよっしゃーと免疫をやろうとする。でも、もしかしたら、それは僕らが身体というものを理解しているほんの一部なのかもしれない。実は、身体は他のこともやっているのではないか。

山田(希):おお~。例えば?

山田(博):今はまだ知らないだけで、実はやっつけながらも、そこから学習しているとか。

山田(希):ああ、なるほど。情報収集してるんですかね。

山田(博):うん、情報収集して、その学習したことによって次に生き延びる何かを作り出そうとしているという。そんなことを、もしやっているとしたら、それはウイルスが入って来てくれたおかげじゃないですか。そんなような世界が、直感的には、展開されているような気がするんですよ。

島村:それはこの間、NHKでやってたよ。免疫機能の話で、お互いに学習し合ってるって。遺伝子配列にピュッと入り込むっていう。命が生まれてくるプロセス、精子が卵子に突入するっていうのは、本来排除するものだったら、突入できないでしょう。実際に大半の精子は殺されていくわけだけど、なんと、ある精子は卵子と融合しちゃうという。異物以外の何ものでもないものと結合するっていうのがミクロの世界では起きている。この機能が、逆に、ウイルスが感染していくときに再利用されているんじゃないか、とも言われている。

だからおもしろいよね。さっきの分離と統合の矛盾に話を戻すと、分離していたらやっぱり新しい命は生まれないんだよっていう話と、同時に、その結合したことによって一つの個がまた生まれるっていう。おもしろいよねえ。何がおもしろいんだかよくわかんなくなってきちゃったけど。(笑)

要は、僕たちはものすごい矛盾の中でこうやって生かされているんだよね、っていうことなんだろうな、きっと。

山田(博):それをいうとね、これは前に別の動画でも話したんだけど、意識の進化っていうものを自分なりにどう捉えているかっていう話をした時にね。今話しているような精子と卵子が結合していく、でも個体になるっていう時に、僕ら人間の中に、自動的に作ってしまうものがあるなって常に思っている。それは、その心の中に作ってしまう境界線だと思うんですよ。それとこれは違うものだっていうふうに、一瞬にしてこうパラダイムを作り出す。そうしないと思考できないからなんですけど。分けて考えなければ、思考というものを回せないので、いったん分けるということをせざるを得ないんですよね、我々。

しかし、それは実は幻想で、それが幻想なんだって。つまり、分けるってことは境界を作るっていうことじゃないですか。これとこれの間に何かを引くっていうことだから。その境界線を引くことは、生きるためにはやらなきゃいけない必要条件なんだけども、僕はそれを引いた後に消せばいいと思うんですね。引いてしまった境界線をちゃんと消しゴムで消していっていればいいと思うんだけど。消してないんですよ。引いたままになってるから、全てが分かれているように感じてしまう。

でも、実は分かれてない、便宜的に引いただけですっていうのを、常に意識として、僕らが認識し、その境界線はイリュージョンなんだと自覚できていれば、かなり変わるんじゃないかな。いろんな体験をさせてもらったことで、気づくことが多いです。

島村:いやあ、おもしろいね。全体がイリュージョンなんだということの手前に、引いた境界線がイリュージョンか。なるほどね、その方が、取っ掛かりやすいかもしれないな。

医学も、科によって分かれてるけれども、その部位の専門家になるためには分けた方が深い研究や探求ができるっていう意味では、本当にそのとおり。僕たち一人ひとりも、あるいは国というかたまりでも、分けた方が都合がいいから分かれているけど、でも、その分かれていること自体がイリュージョンなんだっていうことだね。おもしろいね。

だから、都合よく、というと言い方が悪いかな、でも、ここで閉じた方がいい場合は閉じたまま考えればいいけど、この閉じたラインというのはイリュージョンに過ぎないから、その意思決定が、この境界線を超えた、より大きなものにどういう影響を及ぼすかを、常に行ったり来たりしながら考えられたら、もっと世界は広がっていくのかな。世界というか可能性が広がるという言い方の方がいいかな。

~オンライン化による部分最適と全体認識~

山田(博):ほんとに今言ってもらって、なるほど、そうだなと思う。
のぞみーるがさっき言ってたように、オフィスの業務をやっていて、会えなくなった期間があって、お互いの一部分しか感じられない、っていうことが、多くの会社で起きている。これまでもマネジメントの課題ってたくさんあって、それを集約していくと、部分最適になって全体が見えなくなるっていうことが多い。そのことが生産性を妨げる。みんなの力を結集しにくくなる。力を持っているのに。「部分」にどうしてもなる。それはさっきの臓器を何々科に分けるのとも似てるけど、あなたの仕事はコレ、あなたはアレと分けてしまう。

そうすると、当然、それぞれ自分の仕事の中に没入していくから、全体は見えなくなる。でもマネージャーの仕事って全体を見てるから、いやいやそこだけじゃなくて、ってなるんだけど、やってる本人からしたら、自分の担当している仕事が大事なんでね。

リモートワークになったらよけいに、自分の仕事、自分の仕事、ってなっていって、その全体性を、誰が意識するんですか?ということが、浮き彫りになるような気がする。

山田(希):うん、うん。

山田(博):で、ウエイクアップって、ずいぶん前から、当事者でありながら全体認識しようぜ!ってトライしているじゃないですか。目の前の仕事の当事者でありながらも、それが全体の中での何なのか、全体にどういう影響を与えるか、全体からどういう影響を与えられてきているのか、ということを意識しながら仕事をする。我々は、もともとリモートワークの人が多くて、そんなに会うこともない、月に1回くらいしか顔を合わせない組織でありながらも、組織として動いていけるんじゃないかという仮説のもとにやってるじゃないですか。なんかね、そんなことに繋がっているなあって、今聴いてて思ったかな。

のぞみーるは全体のファウンデーションを常に意識してくれていると思うんですけど、どうですか?

山田(希):そうですねえ。ふだんの境界線の見方とか意識の在り方が、オンラインになるとものすごく出るなって思いますね。対面の時はあんまり気づかなかったことが、五感限定型になるから、よけいにその在り方が出る。自分の見ている境界が全てだ、もう動かせないものだと見た瞬間に、たぶんそこにハマり込んでいくというか。そんな感じがしている。

オフィスの中はいくつかのチームに分かれているけど、それは便宜的なもので、ぶっちゃけ全体で全部じゃんと思っている人は、オンラインになっても動けるんですよ、きっと。でも、自分の仕事、とか、自分のチーム、私の仕事とあなたの仕事、というふうに完全に分ける動き方をしていると、オンラインになった瞬間に、今までうっすらと肌感覚で感じていたそれが、一瞬にして消えるんですよね、パーンと。ていうのが、今のところの、この3カ月の実感です。

山田(博):なるほど。いやあ、その実感はすごい大事だと思った。今聴いていて。

山田(希):試しに引いた線だと思っている人は動けるけど、もうこれは絶対に動かせないとか、ちゃんとお伺いを立てないと、とか思っていると、たぶん身動き取れなくなってくるような気がしますね。

山田(博):遊びがなくなってくるんだよね。ハンドルの遊びじゃないけど。この緩やかな動き。雑談が減ったっていうのもそう。ちょっと一瞬、声かけて確認すればよかったものを、わざわざ会議しなきゃいけない、みたいな。

山田(希):そうそうそう(笑)。でもチャットでね、今空いてる、って訊けばいいだけなんですよ。でもそれさえ訊けないっていうのは、そこに何があるの?って思う。

山田(博):自分でやっぱり境界を引いちゃってるんだろうね。これ今訊くべきじゃないよね、とか。

山田(希):~してはいけないっていう、そういう「べき」的な境界もあるだろうし、部門的な境界もあるだろうし。それが多い人ほど、たぶん大変な気はしますね。よけいに孤独になる。特に、例えば私のように一人暮らしだと、オンラインでの繋がりを切っちゃうと、相談相手も誰もいない、遠いところの家族にも会いに行けない。そうなっちゃうと、どんどん、ワーッと自分の世界に行きますよね。

山田(博):そうするとどうなるの?

山田(希):そうすると・・・自分から繋がりに行こうと思えばすぐ繋がれるじゃないですか、オンラインだから。でも、そのエネルギーがなくなると、逆に、内側にこもっちゃうというか、自分の境界の中に囚われちゃう感じになってきますよね。何を信じていいのかわからなくなってくるとか。私は何者か、っていうのが揺らいでくるわけですよ。

山田(博):へええ。そこまで行っちゃう?

山田(希):いや、わからないけど。人によると思いますよ。けれど、ものすごくアイデンティティが揺らいでくる感じっていうのが、ありますよね。要するに、今までははっきりとした境界の中に住んでいて、そこにいれば安心だったのが、その境界自体が揺らぎ出すじゃないですか。

山田(博):はああ。アイデンティティ・クライシスが起きてくるわけですね。自分は何者だったんだ、と。

島村:チャンスだよね、逆に。

山田(希):そうそうそう。

島村:だからもう誰でもないんだ自分は、と、そういうところまで突き抜けちゃう、絶賛チャンスなんだと思うんだけど。「クライシス」という言葉を与えると、ちょっと危険かもしれないけどね。

でも自分なんか、常にクライシスでさ(笑)。みんなそうなんだよ。もう会社だって常にクライシス。で、幸い、国の仕組みとか制度があって、ちゃんと借り入れとかもあって、おかげさまで大丈夫なんだけど。でも、実は、安定なんてどこにもなくて。それも1つのイリュージョンだった気がするんだよね。

だから、今ののぞみーるの話に大きくyesと言いながら、共感して、andチャンスにしようぜ!っていう感じかな。なんかそういう気がするねえ。

山田(博):まあ危機って言葉は、危険でもあり機会でもあるってよく言われるよね。だから「危機」なんですよね。今は良い機会でもあるし危険でもある。で、どっちを取るかも意識次第。自分がどういう意識にいるかで、どっちの偏りに行くか。危険の方に偏るか、機会の方に偏るか。

僕は、意識がどこへ向かおうとしているか、ということだと思っている。すごく大きく見ると、内にこもっていることが別に悪いとかでもない。それも1つ、今、起きうるべきことであるんだけど、いやそれはダメだからこういう処方箋がありますよ、みたいなものを出すと、それはまた、戦いを挑むってことになると思うんですよ。

島村・山田(希):うんうん、そうだね。

山田(博):でもそうじゃないなと。あ、そういうことが起きてきたんだねと。そうなのね、と。まずそこで止めておく。

島村:そうなんだよ。だから「ダメ」って判断を皆でなしにしようよ!という、そういうニューノーマルになったらいいな。少なくとも自分はそうしたい。

山田(希):ははは。(笑)

島村:何やってもダメなことないじゃん、ていうところからスタートできたら、いいんじゃないかなあ。

山田(希):そうですよねえ。

山田(博):ダメなものはないし、何でもありだと。で、何でもありになると、ついてくるのはカオスなんですよね。

山田(希):そうそう。(笑)

山田(博):何でもいいよ、と。わあ、グチャグチャじゃんと。統制取れないよね、と。組織でいえば、社会でいえば、それで大丈夫なんですか、って気持ちが、また湧いてくるじゃないですか。それとのせめぎ合いがほんとに露わになってくるんじゃないかなって、思いますね。これから。聴いていて、最後、そう思いましたね。

その時、本当にどうするの?と、自分に問われてくるだろうし、意識に問われてくるだろうね。

島村:うん。

山田(希):そうですね。

~最後に~

山田(博):予定の時間を超過しているので、オチはないですけど(笑)、最後に一言ずつチェックアウトして終わりにしましょうか。

島村:さっきの流れで言うと、これまでの僕たちが大切にしてきたこと、こういうカオスだからこそ、自分はどうしたいのか?何が大切なのか?この目の前の人は何を大切にしているのか?ということに、好奇心を立ててやってきた僕たちがいるなあ、と思う。

それと同時に、ひろしが比喩的に言ってくれたその流れが、僕たちをどこに運んでくれようとしているのかっていう、そこのセンスと、自分が大切にしたいこととの折り合いというか、それを矛盾なくブレンドできる、そんな柔軟さを身につけていきたいなっていうふうに改めて思ったかな、というのを最後のチェックアウトにしたいと思います。

楽しんでいきたいと思います。ありがとうございました。

山田(希):私は、自分という、その境界を明確に置きつつ疑ってみるみたいなことかな。何でしょう、その境界がイリュージョンだっていうのは、ああそうだなあっていう感じ。結構自分が引いた境界に囚われることも多いなと思っていて、そこにちょっと意識を向けてみたときに、何が起きるかを見てみたいなと、そう思います。

山田(博):僕もまとめはないんですけど、この命の流れの中で生きている私たちが、でも個体という肉体をもって生きざるを得ないというか、生きているっていう、この大いなる矛盾の中に僕らの命っていうのはあるわけです。でも、そういう抽象的な話をしているようでいて、これって日常で全部起きているできごと。日常の中にあるんですよね。

そして、組織に関わるときに、部分最適に陥らずに全体で見るってどういうことか、どういうふうに意識を持って、どういう動きをすることなのかを、もっと具体性をもって組み込んで実装していく、というところにトライしたい。トライというか、力は入っていないんだけど、それがおもしろいな、それが出てくる時代だなってすごく思っているので、ますます、楽しくてしょうがないな、これはっていう状態ですね。(笑)

はい、というわけで、ここで終了なんですけど。

「意識の進化×○○」シリーズでは、これからも、今問われている人の意識の在り方やそのアップデートについて、様々な角度から探求して、いろんな方々との対話をお届けしたいと思っています。ご興味のある方は、ウエイクアップのメールマガジンやFacebookページなどで最新情報もご確認ください。

というわけで、今日はありがとうございました!

島村・山田(希):ありがとうございました!

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