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キャンプ場で思うこと

野営の愉しみの一つは、言わずもがな、食べることである。いったいどういう理由でそうなるのかはよく分からないのだが、ともかく外で食べるメシは旨い。カップラーメンですら、屋内で食べるより旨い。

焚火の匂いも、何か根源的なものを刺激する。DNAに刷り込まれた太古の野外生活を思い出させるような何かがそこにある。

キャンプ、野営に行くと、何かふだんは意識の下のほうに沈んでいるものが浮上してくるのだ。食欲ももちろんその一つだし、火を眺めることの喜びもそうである。

そうして、だいたいにおいて、それは止めようがない。キャンプ場で小うるさい音楽を流したり、大きな声で猥談をしたり、夜中まで騒いでいたりするような若者は、そういう行為がさまざまなメディアで批判されているのにも関わらず、当事者たちはいっこうに気にかけない。

キャンプ場では、その人が何を考えているか、意識の根底にどういうものを抱えているかが顕わになるのだ。そういう環境なのであろう。そこでは、原始的な欲望や願望を止めるのが難しい。

逆に言えば、それだけふだんの日常生活においては、そういうものを抑えつけて人は生きているのかもしれない。若者も満員電車の中では猥談はしないであろう。それは盛り場やキャンプ場で行われるのだ。

今のキャンプブームの背景には、コロナによる行動の抑制などいろんなものがあるだろうが、一つは今述べたように、根源的な欲望の解放みたいなことがあるだろう。若者がキャンプ場で騒ぐのは生理現象のようなものなのだ。

ところが実際にはキャンプ場というのは、いろんな物事が明らかになってしまうところなので、痛しかゆしでもある。事実上、キャンプ場では消灯22時なんてことも標榜されるし、音の出る花火もできない。話し声は多くの場合筒抜けで、寝る時の壁も薄い化学繊維の布切れに過ぎない。つまり、キャンプ場では自由と不自由とがせめぎ合っているのだ。

野生というほどの野生がそこにあるわけではなし、文明というほどの文明がそこにあるわけでもない。キャンプ場はその中間地帯なのかもしれない。

そんなことはない、キャンプ場では自然と野生が大事なんだという人もいるかもしれないが、そもそも本当にそう思うなら、入場料をとるようなところで人はキャンプしないはずである。道具を並べて道具自慢をするようなセンチメントは自然の中には存在しない。それはむしろ都市の自意識である。

物事は高度化してそのピークに達すると、今度は衰退の道を辿る。MTBが全盛期だった頃、その車種は異様に細分化されて、なにがなんだかよく分からなくなってしまったと思ったら、ブームはロードバイクに取って代わられた。

プラモデルを設計図通りに組んで、未塗装であってもかたちになったことを皆が喜んでいた頃はプラモデルは売れに売れた。いや、それじゃダメで、ちゃんと指定色で塗装して、デカールも独特のノウハウでもって貼り付けていくんだみたいなことが知れ渡った頃に、プラモデルを作る子どもたちは激減した。

いまのキャンプがあとどれくらい高度化するのかは私には分からないが、ホワイトガソリンはおろか、ガスの燃焼機器も使わず、薪で調理するようなことが増えてきた現在、キャンプは実際かなり高度な技術の領域に入っているように思う。もちろんより野性味のあるのは薪だから、それが魅力的であることもよく分かる。私もやってみたいと思うことがあるけれど、あの煤の付いた調理器具の後片づけのことを考えるとゲンナリしてしまうのだ。

60年あまり生きてくると、物事の流行り廃れもいくらかは見える。80年代のオートキャンプではコールマンのホワイトガソリン燃焼機器がごくふつうに使われていたし、2010年頃のアウトドアショップはそれこそ閑古鳥が鳴いていて、キャンプを楽しむ層はごく限られているように見えた。

以前のオートキャンプで流行りかけた、まるで家の中のキッチンを野外に展開したかのようなシステム化された製品も、いまではほとんど見かけない。その方向での高度化は行き詰って、もっとシンプルなソロキャンプの人気が出たが、それも今はかなりの部分高度化している。

そういう一切合切が面倒くさいからキャンプに行くはずだったのが、キャンプ場でも都市の自意識や論理みたいなものに遭遇してしまうのである。やれやれ。

何かがブームになったと語られるようになる頃には、すでにもうそれはオワコンになっているという見方もある。今のキャンプブームがいつまで続くか分からないが、始まったものには終わりが来る。

結局最後に残るのは、グランピングやきちんと区画整理されたような管理されたキャンプ場などではなくて、トイレと水場だけがあるような昔ながらのキャンプ場なのかもしれない。




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