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「急行東海・断章」(中編小説/その1)


 君は一人だ。最後尾、一二号車の進行方向左側の席に座り、八重洲側の空を見ている。ビロードの青いシート、ペパーミント色の側壁には煙草の匂いが染み付いている。空と言ったって、それは架線や鉄道構造物に断ち切られた薄青い空気の塊、何も透けない。
 夏の終わりの日差しは傾いて、まだ空いているボックス席の、丸の内側の窓から車内に入り込んでいる。床の樹脂がそこだけは新品のように明るい。じきにこの席も埋まるだろう。
 君はこれまで何度もこの急行電車に乗った。都内から静岡の実家に帰るときに。
 文学部の女子大生だった頃、卒業して都内で出版社に勤めていた頃、結婚してしばらく三鷹に住んでいた頃。君の生活を区切ったいくつかの時代の中で、急行「東海」は、君を運び、君とともに時の中を走った。
 急行東海七号静岡行き、まもなく発車します、という車内アナウンスが流れる。何人か、最後尾のドアから乗り込んできた。
 君は目を閉じる。自分の小さな旅を見るために、瞳の奥に思い出すために。

          *

 君の車窓には君の半身が映っている。色褪せた昔のカラー写真のようにコントラストを失い、窓側に傾いだ君の顔と対になっている。その映像に重なって、八重洲の風景が流れ始める。ホームの端を通過すると、夏雲の白い膨らみがビルの輪郭を超える。
 冷房の風に乗って紫煙が広がる。あの頃は今ほどは気にならなかった。憑かれたように皆、煙草をくわえていた。
 憑かれたように誰もが、今とは違う夢を見ていた。
 そのことがわかっている君は笑みを浮かべた。車窓のガラスに映った自分にそうするようにも見えたけれど、たぶん本当は別のもの、別の時間と空間を見ていた。通過してゆく新橋駅前の、その角ばった風景の、もっとずっと奥に、そこから現れてくるものに。
「ここ、いいですか?」
 君の横の通路に立った若い男が言った。前側のほうから席を探して歩いてきたらしい。スーツだがノーネクタイで、ツーデイズぐらいの旅行バッグを持っている。
 君がどうぞ、と会釈すると彼は少し遅れてついてきた連れの女性に、「ほら、そこに座らせてもらおうよ」と窓側の席を示した。彼女が、失礼します、と挨拶して君の差し向かいに座るのと同時に、彼は連れの荷物から先に棚に上げてやった。
 見知らぬ二人なのに、どちらも、知っている誰かに似ているようなところがある。しばらくしてから、同郷の言葉使いや物腰のせいだと気づいた。君はぶしつけな視線を送らないように気を付けながら、彼と彼女の話を聞いていた。
「間に合って良かった。新幹線じゃ三島で乗り換えてから長いし、面倒くさいだけで意味がない。着く時間がたいして変わらなくなっちゃうから」彼のほうがそう言った。
「駅からどうするの。バスじゃしょうがないでしょ。タクシーじゃ遠すぎるし」
「ユウジに電話しよう、どこか、停車時間があるときに、ホームの公衆電話からすればいい。連絡がついたら駅まで迎えに来てくれるだろう」
「そうね、でももう弟さん病院にいるのかもしれないわよ。それだと呼び出してもらえるかしら。もしどうしても難しかったら、母に電話してみるわ」
「いや、今は容態は安定してるんだから、そこまでしなくてもいいよ、お義母さんは煩わせたくない」
「そうか……じゃあどうすればいいかな……あ、いっそレンタカー借りたら? とりあえず二日間。そのほうが動きやすいでしょう」
「うん、その手もあるな。ともかく、途中で電話してみよう」
「そうね。新幹線なら電車の中にあるけど、この急行はないわよね」
 自分にもああいうときがあった。この急行に、二人して乗り合わせて、自分の実家に向かった。目の前の若い二人は、どうやら同郷らしく、様子から言っておそらく若い夫婦か婚約者同士だろう。
 そのことを振り返るのは、以前には辛かった。記憶が再生されるたびに、もう中和されたはずの強い酸が胸元に落ちかかってくるような思いがした。
 品川を過ぎる。東京湾側の風景は開けていて、書割のようなビルが後退する。空に道をあける。雲の立ち上がるところに、記憶の源があるような気がする。
 八重洲に見た空は、もういくらか後ろになった。君は電車の進行方向と逆に座っている。どうしてか、その向きで座っているほうが、流れ去る風景を目で追っていたほうが、逆よりも自分にはしっくりくる。
 若い二人は先のほうを見ている。これから来る風景が見える。その風景は、通り過ぎると同時に視界から消える。君の向きからは、それが離れてゆくところが見える。いま、線路の傍らはコンクリートで固められた灰色の法面になり、跨線橋の鉄骨が流れ飛ぶ。架線と平行の何本もの電線が電車の横を走っている。
 遠ざかる沿線の建物や建物の輪郭は、やがて視界の果てに消える。次から次へと、それらは後ろへと押し出されてゆく。

          *

 君のとなりにはそのときNがいて、二人とも進行方向に向いて座っていた。桜の咲いていた頃で、急行が多摩川を渡る手前、線路の傍らになければ一生気づくこともないような小さな公園に、花の色の梢が被さっているのを見た。
 君にとってはいっときの帰省、恋人のNにとっては初めての土地に向かうこの旅は、気乗りのしないものだった。別のかたちになるものと思っていた。
 二人が一緒になりたいと考えていることを君があらかじめ両親に電話で伝えたとき、反応は良くなかった。女子大を卒業して都内の中堅の出版社に就職してから、まだ一年も経っていなかった。東京で就職したのも数年間だけという約束で、一人っ子の君は実家に戻って同郷の誰かと結婚することを求められていた。
 そういうことを親が言っているのは君だってわかっていたが、自分に相手ができれば、変わるだろう、と思っていた。自分が泣くことまで、彼らは望まないだろう、とたかをくくっていた。まだ若かったから、親が見合いで連れ合いになった二人であり、そもそも結婚観や家族観が自分とはひどく異なっていることさえ、意識できていなかったのだ。
 歓迎されないことがわかっているNと実家に向かうことは、しかしそのときでももちろんのこと、胸に異物を抱えたような思いだった。今なら、最初からそんなことはしない。人の生き方には、交わることのない線路というものがあるのだということを、いやというほど知ってきたからだ。
 あれはもう四半世紀も前、自分はそのときの齢の倍の長さを生きた。その齢まで生きているとは思わなかった。
 空の色は車窓のガラスの反射で淡くなっている。羽田から離陸した旅客機の旋回が横切ろうとする。見上げていれば、涙も滲みにくいような気がする。

「沖縄はもう泳げるんだろうなあ」と、不意にNは口を開いた。
「知らない。行ったことないもの」君は答えた。
「俺だって行ったことない、さ。四国だって九州だって行ったことはない」
「私も京都から西へは行ったことないわ。前にも話したけど。東だって、東京から先は……」
「我孫子じゃなかったっけ。俺のオートバイでさ。犬吠埼で夜明け見たいって言うから二人で出掛けて、でも途中で寒いのが我慢できなくなって我孫子でやめたろ」
「あ、連休のときのね。急に冷え込んだときでしょ」
「何でまたそんな気になったのかなあ。言うほうも言うほうだけど、お前乗せて行こうとした俺も俺だな。革ジャンだって一枚しかなかったし」
「私が着て、ノブはダウンだったわ。コーヒーこぼした染みがついてたやつ」
「そうだっけ、そうだった、か。あのさ、引き返すって決めてすぐ、ラーメン食ったよな」
「うん、やたらニンニクがたくさん入ってたやつね」
「あったまったけど、あのニンニクにゃ、まいったな」
「……その先、言わなくていい」
「言わないよ、別に。……あれから俺たち、一緒に乗ってないな、オートバイ」
「だって売っちゃったじゃない、去年」
「車、買おうと思ったのさ。話したろ、オートバイじゃ一緒に出掛けられないし」
「あればいいと思うし、うれしいけど、都内じゃ持てないわよ、駐車場だって高いし」
「引っ越すか」
「どこへ?」
「どっかへ、さ。二人で」
 そのNの言葉に君は答える言葉がなかった。無理よ、と口に出すのが怖くてできなかった。君はNの手だけそっと握りしめ、眼差しは外に向けた。
 多摩川の鉄橋を渡る轟音に、Nの言葉の残響もかき消されるような気がした。かき消されてしまえばいいと思った。離れた別の鉄橋を、赤い電車が同じ向きに走っている。京浜急行だ。特急かもしれない。でもこの急行のほうがいくらか速い。
 向こうの電車の窓の中にもいくつも人影がある。それは影だけで、顔かたちまでは見えない。遠い。そして速度。多摩川を渡ると、京浜急行は消え去った。夥しい家や屋根やビルや看板や電柱がそこを埋めた。

 結局、そこまでのその旅は無益に終わった。実家に着いてみたら、君の両親は娘の恋人とまともに会おうという気すらなく、二人は靴を脱ぐこともなかった。
 本当にそういう人間がいて、それが自分の両親だということに、君は衝撃を受けた。この人たちにとって、身内として迎え入れられる人間には相当な条件がつくんだわ、と思った。自分も、血縁がなかったら、敷居を跨ぐことさえ許されなかったかもしれない。
 Nとの結婚を両親が許さなかったのは、相手が長男で、実家は群馬で、仕事は都内の小企業で、要するに君の両親が老いたときに君がそばにいる当てがない、ということからだった。しかし実際には、その必要はなかったのだ。公務員だった父親は、定年退職して間もなく心筋梗塞で一生を終えた。カテーテルが普及し始めていた頃で、助かる可能性もあったのだろうが、折り悪く、一人で留守番をしているときに倒れた。母親はそれから五年と経たないうちに肝臓を患って、肝硬変だと分かったときから一週間も生きることができなかった。
 堅物というより冷酷なくらい身辺の浄化を心がけて生きてきたように見える母親が、父の死後の数年間を誰にも知られることなくアルコール依存症に傾斜していったことは、しかし君にとってどこか救いのある結末でもあった。
 自分が一緒に住んでいれば母はそうならなかっただろうか、と少しは考えてみたこともあったけれど、文字通り考えてみただけで、それに対して何か自責のような感情が湧くことまではなかった。ただ、その土地ではそれなりの旧家であった実家を支えてきた気位の高い母親も、連れ合いの喪失によって無聊をかこち、ひっそりとあの大きな家でグラスに手酌していたことを考えると、この人も酒に逃げたくなるようなところを抱えて生きていたのだということが了解された。
 しかしそれを知るのは遅すぎて、しかしまた遅すぎたからといって、誰のせいでもないような気がした。泣けたのは一度だけ、隠すように水屋にしまいこまれていたシングルモルトの包みの傍らにレシートが落ちていて、それが別の街のリカーショップのものだとわかったときだった。未亡人となった身で、近隣で火酒を買うことは憚られたのだろう。運転のできた母親は、おそらくそのためだけに、ふだん出掛けない街までハンドルを握ったのだ。

「その2」につづく>


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