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第14回 「習うと慣れるの法則」

【日時】2019年6月18日(金)
【講師】東京ディスティニーランド
【内容】芝居鑑賞

思い返せば、去年の冬、第1回の講師は東京ディスティニーランドでした。彼が来校するのは今回で3回目で、その間にも彼は彼の物語を紡いでいました。芸能事務所に所属して、衝突して、名前を変えて逃げて、旅に出て、いつの間にか結婚していました。一方の私は、変わりばえのない生活の中で、なんとなく学校に通って、ベルトコンベアのように学年が上がっていただけです。それを思うとき私は、彼が彼なりの人生を歩んでいる(走っている?)現実に、気持ちを引き締められるのでした。3回も学校に来ること。彼のめまぐるしい日々の中で、それは本当に奇跡なのかもしれないと思います。

ここから今回のレポートです。

今回は普通教室を借りることができなかったので、100人以上収容できる特別教室で開催することになりました。学校に現れた彼は、結婚相手である手塚さんを連れていました。13回も開催しているとはいえ、芸術幼稚園は生徒に広く知られている活動ではないので、校内に突然あらわれた彼の圧倒的な存在感に、奇異の目線を送る生徒はたくさんいました。

特別教室に着くと、そこにはあまり人が居ませんでした。まだ来ていないのかもしれない、別にたくさん来る必要はないや、という思いで私はなんの焦りも無く、準備をし始めました。そのとき私は、企画の開催に慣れてしまっていることに気づきました。はじめの頃は、人が来なかったらどうしよう、東京ディスティニーランドが全裸になったらどうしよう、など、様々な不安があって、別のことを考える余裕もなく開催していました。でも、回数を重ねるに連れて私は企画を主宰する私に慣れて、どんなことが起きても大丈夫だと思うようになりました。実質的には、学校も生徒も何も変わっていないのに、私1人だけが慣れに慣れて、何も感じなくなっている。不思議なことだと思いました。

会場とするはずだった教室がなんとなく広すぎて暗かったのと、自らの慣れを打開したくなったのとで、私は廊下での芝居を提案しました。すると結構すんなりと受け入れてくれて、そのまま人通りの多い廊下でやることにしました。怒られるかもしれない不安定な状況が欲しかったのか、出来るだけデカイ声を出して欲しいと思いました。

彼の芝居は相変わらず期待を超える熱量の、心に響くものでした。生徒の中には過去2回の彼の芝居もみているファンがいて、楽しそうに鑑賞していました。短い演目を3つ?ほど上演した後に、シェイクスピアのマクベスの、手を洗い続ける演目が上演されました。参加者が2人選出されて舞台に立たされました。片方は手を洗い続けて、もう片方は手を洗っている方を指差して「手、汚れてるよ」と言います。するとその言葉に反応したように、手を洗っている方は「汚れてないよ」と言います。これが延々と繰り返されます。

その演目が始まったとき、鑑賞者は笑いました。東京ディスティニーランドは演技を放棄する形で(あるいは真剣な演技として)2人の周りを歩きまわっています。そしてここは学校の廊下です。芝居鑑賞に意識を集中させていると気づかなかった状況の可笑しさが露わになった瞬間でした。

しかし、演者の行為が半ば機械のように繰り返され続けると、鑑賞者は次第に真剣な表情になっていきました。可笑しさに慣れたのか、真面目に言われた通りのことをし続ける2人の意識が移ったのか、そういう現象が起きました。私自身も例に漏れずで、はじめは面白くて高ぶっていた感覚が落ち着いて、その行為の意味、舞台の意味、学校と生徒の関係など、様々なことに思いを巡らせる羽目になりました。

学校ではよく、習うより慣れろと、計算練習をさせられます。その実態は、どちらかというと、同じことを習い続けて素直にそれを身につけていくと結果的に慣れているという状態になることです。計算に慣れると、ようやく数字の持つ意味、虚数の神秘などに目を向けられる。そういうことが起きていると思いました。

結局それは20分くらいだったでしょうか。マクベスの演目を終えると、東京ディスティニーランドは独り舞台の演者に立ち戻りました。彼は彼の桃太郎を演じて、怒りや憎しみなどの感情を爆発させて、通りすがりの教師や生徒を振り向かせていました。

それに関して何の事情も知らない人は、奇異な光景を目撃すると驚いて一瞬動きが止まります。でも彼らはその光景に慣れて可笑しさを対処します。そしてすぐに自分の目的に戻る。そういうことが起きていると思いました。

桃太郎も圧巻でした。私は彼の演劇を鑑賞する度に、彼の演技を言語化することから罪悪感のようなものを受け取ります。目の前に身体があって、そこで生まれている魔法がとろけているような、それは決してその場でそれを受け取らなければ分からないものなのです。

個人的に今回の幼稚園では、習うと慣れるということについて、考えさせられるものがありました。習うというのは人間などの知能の高い動物に特有の行動です。その一方で慣れるというのは魚や植物においても見受けられる自然な行動です。習うと慣れるの間には何があるのでしょうか。マクベスを鑑賞している最中に笑うのをやめた私たちは、彼の存在に驚いたのにも関わらず通り過ぎた人たちは、そうするように習ったのでしょうか。それとも慣れたのでしょうか。

何度も繰り返すようですが、東京ディスティニーランドの芝居は、鑑賞者を別世界に連れていきます。それで今回私は、このようなことを思いました。これは彼がつくりだした環境の空気の秩序によるもので、この文章はもはや私の書いたものとは言えないんじゃないか。そう思います。

また、この学校で魔法がとろける機会を、設けられたらいいと思います。最後になりますが、結婚おめでとうございます。これからも長く、芝居ができることを願います。

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